【おまけ】聖女と鏡
その部屋は鏡の間と呼ばれていた。
窓の無い小さな部屋で、中央には石づくりの台座が設置されている。
台座の上、緋色のクッションの上に安置されているのは、アッヘンヴァル公爵家に代々伝わる秘宝。古代魔導具〈ベルンの鏡〉。
たった一人で、この鏡の間に足を踏み入れた女、コンスタンツェは台座に安置されている〈ベルンの鏡〉を手に取り、その鏡面に己の顔を映した。
髪をきっちりと編んでまとめたキリリと鋭い面差しの女が、鏡の向こう側から自分を見つめ返す。その顔が、忌々しげに歪んだ。
──気に入らぬ、気に入らぬ。
鏡の中のコンスタンツェは、不機嫌を隠さない声で呻く。
コンスタンツェは、キリリとした顔に穏やかな笑みを浮かべて、鏡に話しかけた。
「そう拗ねないでください、鏡様」
コンスタンツェの穏やかさは、死地に赴くことを決意した人間の穏やかさだった。
それに反して、鏡面に映るコンスタンツェの顔はますます渋くなっていく。
鏡に映るのは、コンスタンツェの姿を借りた〈ベルンの鏡〉の意思だ。
──拗ねているのではない。妾は憤っておるのだ。何故、お前が犠牲にならねばならぬ。コンスタンツェ!
「この戦況を覆すことができるのは、わたくしだけだからです」
帝国とリディル王国の二カ国間で始まった戦争は、今や帝国側が圧倒的に押されていた。
特に脅威なのが、リディル王国の魔術師の頂点、七賢人。
前線の兵士のおよそ三割は、〈深淵の呪術師〉アデライン・オルブライトの呪術で、使い物にならなくなった。
第二次エッヘルガー戦線で、機動力を武器に果敢に攻め込んだ騎馬隊は、〈茨の魔女〉サブリナ・ローズバーグの茨に絡め取られて身動きが取れなくなったところを、〈雷鳴の魔術師〉グレアム・サンダーズの攻撃を受けて壊滅。
国境では〈西の狼〉ヴァルムベルク辺境伯が善戦し、リディル王国軍を押し返しているが、リディル王国軍はヴァルムベルクを迂回し、帝国の第二首都を包囲しようとしている。
大規模な魔法攻撃が始まったら、第二首都は火の海となるだろう。
「鏡様。あなたのお力なら、第二首都全域に反射結界を張ることが可能でしょう?」
──いかにも、妾の力は絶大じゃ。同時期に作られた〈識守の鍵〉や〈星紡ぎ〉とは比べ物にならぬ。
〈ベルンの鏡〉は広範囲に反射結界を張る魔導具で、その規模と精度は、現存する古代魔導具の中でも群を抜いていた。
〈ベルンの鏡〉に防げぬものなど、黒竜の吐き出す黒炎ぐらいのものだ。それ以外のものであれば、それこそ古代魔導具の攻撃であろうと正確に反射できる。
だからこそ、使用者の負担も大きい。第二首都を覆う反射結界など作ったら、間違いなく契約者は命を落とすだろう。
──じゃが、コンスタンツェよ。お前は妾に……友を手にかけろと言うのかえ?
〈ベルンの鏡〉の言葉に、コンスタンツェは目尻を下げて笑った。
「わたくしを、友と言ってくださるのですね」
鏡に映るコンスタンツェが、拗ねたように唇を尖らせる。
──なんじゃ、なんじゃ、お前は妾のことを友と思っておらなんだか!?
「いいえ、いいえ、鏡様。わたくしとあなたは友達です。子どもの頃からの、気心の知れた幼馴染」
コンスタンツェは目を閉じて、この鏡と契約を交わした時のことを思い出す。
契約をしてから、毎日のように〈ベルンの鏡〉の元に通い、言葉を交わした。他愛もない話をして、時に喧嘩もしたりして。
それはコンスタンツェにとって、なによりも楽しい思い出だったのだ。
「鏡様、どうか友であるわたくしに力を貸してくださいまし。わたくしは、この国を守りたいのです」
鏡に映るコンスタンツェは不貞腐れたように黙り込んでいた。
それでも、コンスタンツェが根気強く鏡を見つめていれば、諦めたように口を開く。
──力を使ったあと、妾はしばらく眠りにつくだろう。今回はうんと長く寝てやる。数十年は起きるものか。
「〈ベルンの鏡〉は、お寝坊さんと言われてしまいますよ」
──構うものか! そして目覚めた時、次の契約者とやらが現れたら、言いがかりをつけて、とびきり冷たく突っぱねてやる。
「まぁ、鏡様ってば。それでは、わたくしの子孫が困ってしまいます」
──知らん! 自分の手で友の命を奪うなど、妾はもう、まっぴらごめんじゃ!
鏡の中のコンスタンツェは、鼻の頭を真っ赤にして、子どもみたいな顔で泣いていた。
自分の顔で不細工な泣き顔をするのはやめてほしいと思いながら、コンスタンツェは洟をすする。
ボロリと溢れた涙の雫が、鏡面を濡らした。