【11】沈黙の魔女、大人の社会勉強をする。(とても、ためになりました)
ツェツィーリアをエスコートするライオネルは大柄な男だ。一歩の大きさなんて、ツェツィーリアの倍以上あるのではないだろうか。
そんな大男が、今はツェツィーリアの歩幅に合わせて、ゆっくりと慎重に歩いている。
それは大型獣が足元の小さな花を踏まないように歩いている姿に似ていた。
ツェツィーリアはライオネルをちらりと見上げつつ、考える。
(……わたくしは、寝所に連れて行かれるのかしら)
婚姻前に関係を持つことは一部の地域では忌避されるが、帝国の上流階級では決して珍しいことではなかった。
ツェツィーリアの兄である皇帝も、ライオネルを籠絡できるなら、さっさと身体を投げ出してこいぐらいに思っているだろう。
あの兄は、ツェツィーリアによく言う。「使えるものは使え」と。
(わたくしが持っているものなんて、肩書き以外は、この体ぐらいですもの……)
ツェツィーリアは帝国では、銀月姫と呼ばれている。
太陽の輝く時間は目立つことのない、儚い月。それは美しいが、存在感が無いことを暗喩していた。
兄のレオンハルトは全てを焼き尽くす黒い太陽のような人だ。その強烈な存在感の前では、誰もが霞む。
一方ツェツィーリアは、聖女の肩書きが無ければ、特に抜きん出て秀でたものは何もないのだ。
その容姿は美しいけれども、華やかさは無い。立ち振る舞いも及第点だが、印象には残らない。
……それが、帝国の銀月姫だ。
「ツェツィーリア姫」
ライオネルの言葉に、ツェツィーリアはハッと我に返った。
ライオネルが足を止めたのは、ガラス窓の美しい回廊だった。奥の方が少しひらけた空間になっていて、そこに長椅子が置かれている。
人の少ない静かな場所で、灯りも少なく、それ故にガラス窓からは星がよく見えた。
「どうぞ」
ライオネルはツェツィーリアに長椅子を勧めると、自身もその横に座る。
大柄な彼は、椅子の端の方に窮屈そうに座っていた。おかげで、ツェツィーリアはゆったりと座ることができるが、なんだか申し訳ない。
どうぞ、こちらにお寄りくださいまし──そうツェツィーリアが口にするより早く、ライオネルが口を開いた。
「無理を言って連れ出して、申し訳ない」
ライオネルは膝に手をつき、深々と頭を下げる。
「姫の顔色が優れぬように……倒れそうに見えたのです。長旅の疲れが出たのでしょう。そこの回廊を右に曲がったところに、休憩できる部屋があります。護衛には話を通しておくので、どうぞお休みになってください」
ツェツィーリアは目を丸くした。
ライオネルの口調は心から、ツェツィーリアの体調を気遣っている。ツェツィーリアを部屋に連れ込んで、どうこうしようという気配は微塵もない。
ここは甘えて礼を言うべきだろうか。だが、自分はライオネルとの縁談を成功させるために、ここにいるのだ。何もせずに休んでいるなど、許されるはずがない。
(……わたくしは大丈夫ですと、そう伝えなくては)
だが、ここで断ったら、ライオネルの気遣いを無下にしたことになるだろうか?
どんな言葉を返すのが正解なのだろう、とツェツィーリアは必死で考える。
相手の表情や声音から相手の機嫌を伺って、波風を立てないよう無難な答えを選ぶ。ツェツィーリアはずっと、そうやって生きてきた。
それなのに嘘のない誠実なライオネルを見ていると、顔色を伺うこと自体が、なんだか酷く申し訳ないことのように思えるのだ。
「それでは、私はこれで……私にできることがあれば、いつでもお申しつけください」
ツェツィーリアが躊躇っている間に、ライオネルは静かに立ち上がり、一礼をして歩きだす。
その広く大きい背中を、ツェツィーリアは黙って見送ることしかできなかった。
* * *
(こ、これが、大人の気遣い……!)
ライオネルとツェツィーリアのやりとりを陰から見守っていたモニカは、ライオネルの気遣いにひたすら感服していた。
きっと、メリッサが言っていた大人の社会勉強とは、このことを言うのだ。
(ライオネル殿下は、すごい……)
モニカが密かに感心していると、背後から足音が聞こえた。
振り向けば、こちらに大柄な黒髪の男が近づいてくる。帝国側の護衛──〈夢幻の魔術師〉カスパー・ヒュッターだ。
モニカが姿勢を正すと、ヒュッターは足を止め、ジロリとモニカを睨みつける。
「挨拶が遅れたことを、詫びよう。〈夢幻の魔術師〉カスパー・ヒュッターだ」
「……〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレット、です……」
モニカが一礼すると、ヒュッターはフンと鼻を鳴らした。
詫びるなどと言っているが、その態度は明らかに不遜だ。
眼鏡の奥の目に宿るのは、明らかな敵意と侮蔑。先程のやりとりで、完全に恨みを買ってしまったのだろう。
「リディル王国では、子どもでも七賢人になれるのか」
「…………」
「皇帝陛下は、何故、こんな子どもを護衛役に指名したのやら」
モニカは、侮られることには慣れているし、特に腹を立てたりはしない。
ただ、ヒュッターの言葉にモニカは思い出す。
自分は七賢人として、黒獅子皇に指名されて、ここにいるのだ。
モニカがみっともない振る舞いをしたら、他の七賢人にも迷惑がかかる。
だから、モニカは体の前でぎゅぅっと拳を握りしめ、ヒュッターを見上げた。
「そう、です。わたしは、皇帝陛下に指名された護衛です、から……」
心臓の音がバクバクとうるさい。握った手は、冷たい汗でじっとり濡れている。
それでもモニカはスーハーと息を吸い、舌を噛まないよう慎重に言葉を紡いだ。
「お仕事は……ツェツィーリア様の護衛は、きちんとします。よろしく、おねがいします」
ヒュッターはじぃっとモニカを見下ろしている。
きっと、今の自分は酷い顔をしている。メリッサみたいに余裕たっぷりの笑顔というわけにはいかない。
それでもモニカは目は逸らさず、ヒュッターを見返した。
そのままどれぐらいの時間が経っただろう。
「……ヒュッター? それに、〈沈黙の魔女〉様も……」
か細い声は、ツェツィーリアのものだった。彼女の目は不安そうにモニカとヒュッターを交互に見ている。先程の騒動のことがあるから、気を回しているのだろう。
〈夢幻の魔術師〉は、ツェツィーリアに一礼し、淡々とした口調で言った。
「〈沈黙の魔女〉殿には、挨拶が遅れたお詫びをしておりました」
「……そうですか」
ツェツィーリアは静かに相槌を打つと、廊下の一室に目を向ける。先程、ライオネルがツェツィーリアのために勧めた部屋だ。
「わたくしは、そこの部屋で少し休みます……それと」
ツェツィーリアは言葉を切り、モニカに目を向ける。
自分も部屋の外で待機していた方が良いだろうか、とモニカが考えていると、ツェツィーリアは予想外のことを口にした。
「〈沈黙の魔女〉様、お部屋の中で少々……お話を、よろしいですか?」
どうやら、ツェツィーリアは自分と二人で話したいことがあるらしい。
モニカの背中を冷や汗が伝う。
(こ、これって、絶対に、さっきの騒動のお咎め……っ!)
無論、モニカは嫌ですと断れるような立場ではないので、プルプルと震えながら「かしこまりました」と言うのが精一杯だった。
* * *
ツェツィーリアに招かれた客室は、白と青を基調とした家具の上品な部屋だった。
ツェツィーリアは長椅子に腰を下ろさず、部屋の奥に立ってモニカをじっと見つめている。モニカはドキドキしながら扉を閉めた。扉が閉まる直前、廊下に佇む〈夢幻の魔術師〉と目が合った。
鋭い目でジロリと睨まれたモニカは、ひぃぃと震えながら、静かに扉を閉める。
「〈沈黙の魔女〉様」
「は、はいぃっ」
ツェツィーリアに名を呼ばれたモニカは、叱咤の言葉を想像し、体を強張らせる。
だが、モニカの予想に反して、ツェツィーリアは厳しい顔などしていなかった。それどころか、華奢な姫君はその細い体を深く折り、モニカに頭を下げる。
「先程は、我が国の魔術師が大変失礼をいたしました。心より、お詫びいたします」
ツェツィーリアの行動に、モニカは驚き、絶句した。
むしろ、失礼をしたのは確実にこちら側──具体的にはメリッサである。
頭を上げてください、と言おうとしたモニカは、ふと気がついた。ツェツィーリアの手が小さく震えている。俯いたその顔は真っ青で、見るからに具合が悪そうだ。
「……ツェツィーリア様、あの、大丈夫、ですか?」
モニカが恐る恐る声をかけると、ツェツィーリアは悲痛な顔で首を横に振る。
「ごめんなさい……たいしたことではありませんから……」
「でも、顔が真っ青で……も、もしかして毒……っ!?」
仮にツェツィーリアが毒を飲まされたにしろ、急病であるにしろ、医師ではないモニカにできることはない。
急いで人を呼ぼうとモニカがドアノブに手をかけると、ツェツィーリアが駆け寄ってきて、モニカに縋り付いた。
「駄目! お願い、待って! ……待って、くださ……」
必死の形相のツェツィーリアは、言葉を切ると苦しげに呻きだした。そうして、ドレスの上から腹のあたりを押さえてうずくまる。
ふぅっ、ふぅっ、と苦しげな呼吸を繰り返していたツェツィーリアは、涙の滲む目でモニカを見上げ、か細い声で言った。
「毒でも持病でもありません……いつも、こうなのです……」
「え?」
「社交界に出ると、胃が痛くなってしまって……酷い時は、食べた物を戻してしまうの……みっともないでしょう」
驚きに目を丸くするモニカの反応を、ツェツィーリアは呆れと受け取ったらしい。
ツェツィーリアは華奢な両手で顔を覆い、項垂れる。
「……ごめんなさい。わたくしなんかが、王太子妃なんて……リディル王国の方が、恥ずかしく思うのも当然です……」
「あ、あのっ」
モニカは咄嗟に口を開いた。
ツェツィーリアは涙に濡れる睫毛を上下させて、モニカを見上げている。
モニカはしどろもどろになりながら、頭に浮かんだ言葉をそのまま口走った。
「わたしも人前に出るの、すごく苦手で……七賢人採用面接では、その……過呼吸起こして卒倒しちゃったこともあって……だから、ツェツィーリア様の気持ち、分かります……」
そこまで口にして、モニカは自分がとんでもなく不遜なことを口にしてしまった、と青ざめる。
王族のツェツィーリアと一般人のモニカとでは、背負っているものの重さが、まるで違うというのに。
それなのに、気持ちが分かるだなんて口走ってしまった己の軽率さをモニカは恥じた。
(うぅ……き、消えてしまいたい……)
モニカが真っ赤になって、モジモジと指をこねていると、ツェツィーリアは目を伏せて呟いた。
「……過呼吸、わたくしも何度かありました。よりにもよって、お兄様……陛下の誕生日の祝いの席で過呼吸になって……その場はうまく誤魔化せたのですが、陛下には大層呆れられたものです」
ポツリ、ポツリと胸の内を吐露していく内に、ツェツィーリアの顔色がほんの少しだけ良くなってきた。
「……本当は、人前になど出たくないのです。お部屋でレースでも編んでいたい……」
分かる。すごく分かる──とモニカは思わずフンフン頷く。
「ツェツィーリア様は、すごいです。陛下に堂々と挨拶してたし……わたしなんかより、全然……」
そこまで言って、モニカはハッと顔を上げて己の頬を両手で押さえる。
突然の奇行に、ツェツィーリアが不思議そうな顔をしていたので、モニカは早口で弁明した。
「えっと、あの……『わたしなんか』って言うと……頬を、つねられるんです!」
ツェツィーリアは目を丸くして、首を傾げた。
「…………どなたに?」
「知り合いのお姉さんに……」
さきほど容赦なくつねられたばかりである。
その時の頬の痛みを思い出し、頬をさすっていると、ふふっと小さな笑い声が聞こえた。
見れば、ツェツィーリアが口元を押さえて小さく笑っている。
釣られてモニカも、ふへっと息を吐くように笑った。