【10】太陽の王子、月の姫
煌めくシャンデリアの周囲を飛び回る幻術の鳥と、なだらかなアーチを描く虹。
そんな幻想的で美しい平和の象徴の下では、なんとも気まずい空気が漂っていた。
渦中の〈夢幻の魔術師〉は無表情に不快感を滲ませて、〈沈黙の魔女〉と四代目〈茨の魔女〉を見据えているし、〈沈黙の魔女〉とツェツィーリアはオロオロと視線を彷徨わせている。
涼しげに微笑んでいるのは四代目〈茨の魔女〉ぐらいのものだ。
このちょっとした騒動を、少し離れたところで眺めていた帝国の近衛兵アインハルト・ベルガーは、隣で顔を引き攣らせている後輩の肩を叩きながら、楽しげに言った。
「おぉ、見ろ。キルヒナー。まるで我が帝国とリディル王国の未来を象徴するような光景じゃないか」
「……えぇ、そうですね。象徴してますね」
主に幻術の下の光景が、である。
かつての戦争から約五十年。二国間での交流こそ増えたが、戦火の火種はあちらこちらに燻っている。
戦を始める口実は、互いに事欠かないのだ。
キルヒナーは声をひそめて、アインハルトに囁いた。
「ベルガー殿、提案があります」
「おぅ、なんだ。言ってみろ」
「ツェツィーリア様のお顔の色が優れないということにして、ここは離席してもらいましょう。実際に顔色真っ青ですし」
キルヒナーの言う通り、ツェツィーリアは可哀想なほど真っ青になって狼狽えていた。
ツェツィーリアは細やかな気配りのできる姫君だ。だからこそ、あちらの顔もこちらの顔も立てようとして、胃を痛めているのだろう。
アインハルトはちらりと会場に目をやり、口元に笑みを浮かべる。
「まぁ、大丈夫だろ。あいつがいるんだし」
「……あいつ?」
訝しげな顔をするキルヒナーに、アインハルトは目を逸らし「おぉ、あっちに美人がいるぞ」と空惚けた。
* * *
モニカは動揺にブルブル震える手で、メリッサのドレスの裾を引き、小声で話しかけた。
「お姉さんっ、あの、あのっ……」
「ごらんなさいよ、おちび。〈夢幻の魔術師〉のあの顔。遠吠えもできない負け犬って哀れねぇ」
オホホホホと扇子の陰で笑うメリッサは、実に楽しげである。
モニカはダラダラと冷や汗を流しつつ、小声でメリッサに進言した。
「わ、わたしの面子なんかより、そのぅ……場の空気の方が、大事だと思うのですが……」
「場の空気ぃ? んな吹けば飛ぶようなモンの何が大事なのよ」
ひぇぇ、とモニカは息をのんだ。
ちょっと挨拶をしなかっただけで、ここまで辱められた〈夢幻の魔術師〉には、いっそ同情の念すら込み上げてくる。
これは、どうしたら良いのだろう。自分が何か言うべきだろうか。だが、何を言っても火に油を注ぐような気がしてならない。
なにより、この緊迫した空気の中で何かを発言するのは、モニカにはあまりにも壁が高すぎる。
(わぁぁぁぁ、ど、どうしたら、どうしたらぁ……っ)
モニカが頭を抱えていると、カツカツという靴の音が聞こえた。男性物のブーツ特有の重たい音だ。
モニカが顔を上げると、こちらに向かってくる大柄な男が目に入った。
礼服がはち切れんばかりの立派な体躯に、ゴツゴツとした厳つい顔。煌めく金髪──第一王子のライオネルだ。
ライオネルは足を止めると、幻術の鳥と虹を見上げて口を開く。
「なんと素晴らしい!」
ライオネルはよく響く声で言い、〈夢幻の魔術師〉に目を向けた。
毛虫のように太い眉毛の下では、水色の目が朝露の雫のようにキラキラキラと輝いている。
「私はミネルヴァで魔術を学んだことがあるが、幻術はかくも難しいものであった。特に、生きている物を複数動かすのは、並大抵の技術ではない。実に良いものを見せていただいた!」
ライオネルは唖然としている〈夢幻の魔術師〉の手を取り、力強く握手をした。
「〈夢幻の魔術師〉殿、夢のように美しい光景をありがとう。貴殿は素晴らしい魔術師だ」
ライオネルの口調は些か暑苦しいが、これっぽっちも嫌味がなかった。
なにより、生きている物を複数動かす幻術が、いかに難しい技術かを語ることで、〈夢幻の魔術師〉を上手く持ち上げている。
〈夢幻の魔術師〉は見るからに毒気を抜かれた様子で、「光栄です」と短く言葉を返した。
そんな〈夢幻の魔術師〉にライオネルは力強く頷き、今度はモニカに目を向ける。
(し、叱られるっ!?)
モニカが涙目で肩をすくませていると、ライオネルは白い歯を見せ、快活に笑った。
ゴリラ顔だが、爽やかだ。
「〈沈黙の魔女〉殿も、素晴らしい演出だった。何度見ても、貴女の無詠唱魔術には驚かされる。今度、詳しく話を聞かせてほしい」
「は、はいっ」
どうやらモニカへのお咎めは無いらしい。
それにしても見事なのは、ライオネルの振る舞いだ。
貶められていた〈夢幻の魔術師〉を真っ先にフォローし、それでいて、モニカの顔を立てることも忘れない。場の空気を読み、誰も貶めない、完璧な振る舞いだ。
最後にライオネルはツェツィーリアの前に立ち、丁寧に礼をした。
「直接お話をするのは、これが初めてですな。ツェツィーリア姫。リディル王国の第一王子ライオネル・ブレム・エドゥアルト・リディルです」
ツェツィーリアは一瞬驚いたような顔をしていたが、すぐに姿勢を正し、美しく礼を返した。
「直接のご挨拶が遅れて申し訳ありません。ライオネル殿下。ツェツィーリア・シャルロッテ・フェーべ・クレヴィングです。お会いできて光栄ですわ」
大柄で存在感のあるライオネルの前に立つと、ツェツィーリアの小柄さは余計に際立つ。まるで、大人と子どもだ。事実、ライオネルとツェツィーリアは九歳も離れている。
そんな年下の姫君に、ライオネルはこの上なく丁寧な態度で話しかけた。
「帝国の銀月姫……今宵の美しい満月も、貴女の前では霞むかのようです」
「まぁ、恐れ多いです。ライオネル殿下は、まるで太陽のようなお方ですのね。こうしてお話ができて、とても嬉しく思います」
二人のやりとりに、メリッサがボソリと小声で言った。
「太陽と月っていうより、ゴリラと妖精よね」
隣にいるモニカの心臓によろしくない暴言である。
メリッサはライオネルのことをゴリラと揶揄したが、彼の所作や話し方はとても丁寧だ。なにより、王族に相応しい品と優雅さは、フェリクス──アイザックに劣らない。
「美しい姫君に、是非ともダンスを申し込みたいところですが、長旅でお疲れでしょう。もしよろしければ、椅子に座って星でも眺めませんか。星がよく見える、とっておきの席があるのです」
「……それでは、是非」
ライオネルが差し伸べた手をツェツィーリアが取った。
ライオネルは周囲の貴族達に「失礼」と丁寧に声をかけて、その場を離れる。
メリッサが扇子を広げ、ニヤニヤと下品に笑った。
「はっはーん、星を見るって口実で二人っきりになって、しっぽりと……ってわけね。やるじゃない」
何が「やるじゃない」なのだろう?
メリッサが何に感心しているのかよく分からないモニカは首を捻りつつ、ライオネルとツェツィーリアの背中に目を向けた。
「えっと、お姉さん。わたし、護衛なので……追いかけます、ね」
「あんた、野暮ねぇ。こういう時は気を利かせて、二人きりにするもんでしょうが」
「……?」
護衛が護衛対象を放置して良い筈がない。
それなのに、何故自分が咎められているのだろう?
モニカが困惑していると、メリッサは何やら思案顔で「ふむ」と一つ頷いた。
「いや、そうね、おちびには良い機会だわ」
「えっと、あのお姉さん?」
モニカがオズオズと声をかけると、メリッサは扇子を口元に添えて、ムフフと笑いながら耳打ちする。
「しっかり大人の社会勉強してきな」
「……? は、はい」
大人の社会勉強とは、つまり護衛の勉強ということだろう。
(ライオネル殿下とツェツィーリア様のお邪魔をしないようにしつつ、護衛するってこと……かな?)
そう納得して、モニカはライオネルとツェツィーリアの後を追いかけた。