【指ぱっちん】
※エンディング後のモニカとアイザックの話
アイザックの師匠である〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレットは、衣食住に関して非常に無頓着である。
特に酷いのが食事だ。実験に夢中になると平気で食事を抜くし、たまに何かを口にしたかと思えばパンや木の実を少しかじってコーヒーを啜る程度。
台所の調理器具も備え付けのオーブンも、アイザックが使うまでは埃を被っていたぐらいだ。
見かねたアイザックは、モニカの家を訪れる度に少しずつ調理器具やら調味料やらを持ち込んでいる。おかげで、今ではすっかり台所は充実していた。
アイザックは焼き上げて冷ましておいたケーキを型から取り出すと、柑橘のシロップを染み込ませて、砂糖衣をたっぷりとかけた。そうして砂糖衣が固まるのを待つ間に、コーヒーの準備をする。
モニカが愛用しているコーヒーポットは、彼女の父親の形見の品なのだという。
モニカの父、ヴェネディクト・レイン……とある陰謀に巻き込まれ、非業の死を遂げた学者。その死に、アイザックは深く関わっている。生涯忘れることはできない、忘れてはいけない名前だ。
そんなモニカの父の遺品であるコーヒーポットを使うことを、自分はモニカに許されている。
だから、アイザックはそのコーヒーポットを扱う時は、殊更慎重に丁寧に扱っていた。
ポットのコーヒーをカップに移し、切り分けたケーキを小皿に乗せて、アイザックはリビングに向かう。
リビングではモニカが椅子に腰掛けて、何やら指を一生懸命に動かしていた。
耳を澄ませると、モニカが指を動かしながら、ブツブツと小声で呟いているのが聞こえる。
「……うーん……前は、ちゃんとできたのに……」
「何をしているんだい?」
背後からアイザックが声をかけると、モニカはハッと動きを止めて、恥ずかしそうにアイザックを見上げた。
血色の良くないモニカの頬がパッと朱に染まり、頼りなさげな眉が困ったように垂れ下がる。
「……み、見てましたか?」
「一生懸命、指を動かしているように見えたけど」
今のは見られて困るようなものだったのだろうか? アイザックがコーヒーとケーキのトレイをテーブルに乗せると、モニカは俯きながら指をこねた。
「その、えっとですね……前はできたのに、できなくなったことが、あって」
以前はできたのに、できなくなったこと。
正直に言うと、天才肌で何をやっても器用にこなしてしまうアイザックにはあまりピンとこなかった。アイザックは一度覚えたことは勉強でも剣術でも、それこそ料理だって忘れない。
だが、魔術と数式以外では決して器用とは言い難いモニカには、そうではないのだろう。
以前まで当たり前のようにできたことが、突然できなくなる。
……それはきっと、とても恐ろしいことだ。
「できなくなったこと、って?」
アイザックが声のトーンを落として訊ねると、モニカは真剣な顔で答えた。
「指ぱっちんです」
「………………うん?」
困惑するアイザックに、モニカは真面目そのものの顔で繰り返す。
「指ぱっちんです」
指ぱっちん。正式名称はアイザックも知らないが、いわゆる中指と親指をピタリとくっつけて、中指で親指の付け根を叩くようにして音を鳴らすアレである。
アイザックは己の指をパチンと鳴らしてみせた。
「これかい?」
「それです」
モニカはフンフンと頷き、右手の指を鳴らそうとした。だが、ペチンと頼りない音がするだけで、パチンという小気味良い音には程遠い。
モニカは「やっぱり、できなくなってる……」と悲しげに俯いた。
「一年前……最高審議会のために、いっぱい練習したんです」
最高審議会。
忘れるはずもない、アイザックがモニカの正体を知った一件である。
あの時のモニカは七賢人らしい堂々とした立ち振る舞いで、周囲を圧倒していた。
(……言われてみれば、あの時、モニカは何度か指を鳴らしていたっけ)
魔術を使う時に指を鳴らしたり、あるいは杖を振ったりといった何らかのアクションをするのには、実をいうとそれなりに意味がある。
編みあげた術式を使用する際にこの手の動作をすると「術の発動」をイメージしやすいのだ。
銃の引き金を引くように、魔術を発動する際に指を鳴らしたり、手や杖を振りかざしたりすることで、魔術を発動させることが容易になる。
ただし、魔力操作に長けた人間なら、この手の仕草を必要とはしないのもまた事実である。
そもそも、実戦では魔術を発動するタイミングを敵に知られない方が有利なことも多い。
モニカの無詠唱魔術は発動のタイミングを読まれないようにするのが最大の強みなのだから、なおのこと、この手のジェスチャーは不要だろう。
「キミは、この手の仕草がなくとも、魔術を発動できるのでは?」
モニカはこの国でもトップクラスの魔術師である。魔力の操作にも長けている彼女なら、指一本動かさずに魔術を発動することだって可能な筈だ。
それなのに、何故わざわざ指ぱっちんをする必要があるのか。
アイザックの疑問にモニカは視線を落とし、恥ずかしそうに口をムズムズさせた。
「えっと、最高審議会で、かっこよく振る舞いたくて……」
「…………」
指を鳴らして魔術を発動することは、モニカの目には「かっこいい」と映るらしい。
確かに最高審議会のモニカはとても格好良かったけれど。それでも、わざわざ練習してまで指ぱっちんにこだわる必要があったのだろうか。
言葉に詰まるアイザックに、モニカは頬を赤らめながら言う。
「シ、シリル様が魔術を使う時に、よく指を鳴らしてるから…………かっこいいなぁ、って……」
「…………へぇ」
アイザックの声が些か不穏な空気を纏い、トーンが低くなったのだが、モニカはまるで気づいていない。
アイザックはモニカの顔を覗き込み、訊ねた。
「それで、シリルに教えてもらったのかい? 指の鳴らし方」
「いえ、シリル様は陳情書集めに忙しかったので……黒い聖杯作りの合間に、ディー先輩に教えてもらいました」
「…………」
ヒューバード・ディー。
アイザックにとって「モニカに近づいてほしくない人間リスト」で常に上位に輝く男である。そういえば、彼も魔導具を発動させる際によく指を鳴らしていた。
複雑な気持ちでアイザックが黙り込んでいる間も、モニカは指を鳴らす練習をしている。
「中指で親指の付け根を叩く時の勢いが大事な筈だけど、中指の角度が違うのかな……うーん……振り下ろす前の溜めが足りない……?」
モニカは高度な魔術式の研究をしている時と同じだけの熱意をもって、指ぱっちんを再習得しようとしていた。その様子は真剣そのものだ。
アイザックが喉を震わせて笑うと、モニカが「どうしたんですか?」と丸い目でアイザックを見上げた。
アイザックは前髪を軽くかきあげて、目を細める。
「いや、可愛いなぁと思って」
「か、かっこよくない……ですか?」
どうやら彼の師匠は「可愛い」よりも「かっこいい」をご所望らしい。
アイザックはふきだしたくなるのを懸命に堪えながら答えた。
「勿論、僕のお師匠様は世界で一番可愛くてかっこいいよ」
そう言ってアイザックはモニカの右手を手に取る。
ペンダコとインク汚れの目立つ、子どもみたいに小さな手は、アイザックを救ってくれた愛しい人の手だ。
この幼い手が自分に差し伸べられた時、どれほど嬉しかっただろう。
「指を鳴らす練習がしたいのなら、僕が教えてあげる。せっかく弟子がいるんだから、頼っておくれ?」
モニカには、どんな些細なことでもいいから頼ってほしいのだ。
数分後。散歩から戻ってきたネロは、向かい合って黙々と指を動かすモニカとアイザックに「そりゃ、何のまじないだ?」と首を捻ったという。
モニカの自由研究第一弾「指ぱっちん」