2150年生まれ
プロローグ2
ふとしたときに思い出す、僕自身の記憶の最も古いものは、両親の話と照合するにおそらく3歳と半年の頃のエピソードだ。タブレットでペンギンを模したアニメを食い入るように見ていたとき、宙に浮かぶようにこっそりと後ろから持ち上げられた、そんなシーンだ。僕の視界からそのペンギンは遠ざかる、が、それに抵抗をしたのか数十センチ浮遊したところで僕は落下してしまう。その話をすると、「痛みで自他を知覚する、とはよくある話だ。お前がこぶを作って泣いたのは、後にも先にもあれきりだったな」と父は笑う。「手がかからなくてよかった、お前の危機回避能力は天性のそれだ」確かに、そうだった気がする。正直腫れた泣いたなどは覚えていないが、景色はおぼえているし鮮明だ。たが、そのとき僕はタブレットの画面が割れなかったことに安堵した覚えがある。2153年頃のタブレットの画面は、液晶ではなくプロジェクターによる空中投影で、本体は20cm程度の細長い棒だった。液晶が使われていたのは半世紀以上前の技術だと知ったあたりから、自分のふとしたときの思考が、2050年生まれの現代人のそれと矛盾していることを、なんとなく肌身に感じ始めていた。
今振り返るからこそ判断できることは多い。自分のことになると殊更そうであろう。僕はおよそ子供らしくない子供だったという。よく話はするし、はしゃぎもする。文句や好き嫌いはそれなりにあったのも事実だったが、他人の感情への反応は、子供とは思えなかったようだ。特に悲しみ、怒り、悪意については敏感で、まるで経験則にでも基づくかのような振る舞いだったという。父がよく言う危機回避能力に長けてるというのも、こう言ったところから生じている。自分でもなぜかはわからない。しかし、こうすれば事態は収束すると、わかってしまう感覚は常にあった。なんとなくわかる、というよりも、このパターンか、という感覚だ。成長した今だから、この違和感に気付く。今でこそ培った経験が閃きをくれる。だが、昔からそうなのだ。大抵のことは、なんとかなった。
両親共に柔軟な人たちだったんだと、家を出て気付くことになった。18年側で見ていると、逆にわからないこともある。むしろ、人は固執しやすいんだと、理解するのが遅かっただけかもしれない。およそ半年前、進学のために上京した。穏やかな田舎で生まれ育ったため、一人暮らしを余儀なくされ、特に不安もなかったが、親元を離れることとなった。
首都は東京、都道府県は47、もうずっとこの体制が維持されているらしい。ここ100年で変わったことと言えば、国内にはそんなにない。科学技術の発達はそこそこだし、統治体制もメジャーアップデートはなされない。強いて言えば教育システムの変容はあったとされている。教員が、科目指導と生活指導に2分化されたことだろう。英語や数学といったカリキュラムの指導員と、クラスや行事、学校システムの管理員として、完全に分かれたらしい。それはもう40年も前のことらしく、あまり興味のある話でもない。ただそれにより、それまで12年かかっていた義務教育、高等教育カリキュラムは10年で完結することとなり、16から18歳までの2年間は、大学就学に準じるレベルのカリキュラムの消化期間となった。
この期間が満了したのが半年前、そして僕が在籍している18から22歳までの4年間の就学することとなる機関こそが、今現在日本に3つしかない大学教育機関のひとつ、東京統一大学である。ここでは、自国の統治、外交を主に修学する。ただ、ほんの一握りの特待生だけは、他国の統治を学ぶ定めを負うことになる。そしてそれは当然に戦争、侵略を伴う。その修学目的は全て、平和維持のためとされる。日本国内に大きな変化こそなかったものの、国外においては180度変わってくる。北緯38度戦争を皮切りに、世界大戦とは異質な、世界統治戦争が始まった。始まってしまえば世論は置き去りになり必要性のみが残る。日本国内が戦線となることなく平和な暮らしが営めているのも、この東京統一大学の特待生の功労というのが常識だ。弦大日本において英雄扱いたるや、異様である。ただし、その特待生の席は定められているわけではない。毎年ほんの一握りが指名される、それだけ入試規定に記されていた。ただ一つだけ事実として認められることは、2168年度東京統一大学特待生のその1人が、僕、端本識だったことだ。
プロローグは以上です。何せ150年も先の時代です。世界観はまだまだ掴めないと思います。が、そのあたりも予想しながらぜひお楽しみください。