100年前に生きた記憶
『前世の記憶』について、後ろ向きな人は少ない。今生に恨み辛みは多いのに、どいういうわけか前の人生を覚えていることに憧れている。6歳のときのことで覚えているのは、大体が嫌なことだ。家族と昔話に挙がるのも、大抵昔の失敗談だったりする。
6歳の頃飼い犬の散歩に出掛けるも、走り出した彼を御しきれず庭先三寸で転び逃がしてしまった。今となっては、地域総出で探し回ったことまで含めていい笑い話だが、手綱を離してしまった感覚はまだ鮮明だ。そこから僕は犬の散歩をしたことがなかった。思えば飼い犬に手を噛まれたのもその頃だった。僕が餌を盗ろうとしているのではと不審に思った彼が、右手に噛みついたあたりから、僕は彼に近付くこともなくなっていた。それを後悔に思ったのは彼が家に来て14年、晩年を迎えてからだったのは、単純過ぎる話だった。その前あたりから僕は、朝の出発前に彼に話しかけるのが日課になっていた。玄関を出た目先の小屋にいる彼に、一言二言投げ掛けては、返事とも無視ともつかない彼の態度を眺めて、いってきますと言うのが毎朝だった。2歳下であった彼の最期を見送り覚えた感情は、今も涙と共に駆け上がってくる。彼との思い出は、痛いこと嫌なことばかり覚えているが、決して忘れたいとは思わない。むしろいつまでも胸に留めておきたい。前世の記憶に夢見る気持ちも、こんな風なのだろうか。
記憶が生体的電気信号の産物であるのなら、前世の記憶も同じ構造で再現されるべきだ。そうでないのなら白昼夢に過ぎない。白昼夢なのだから、自分の意図しない映像を見せられても不思議じゃあないと、学生以来の友であった柳は言っていた。柳は勉強こそそこそこだったが、鋭さはずば抜けていた。小学生のとき、漢字の書き取りの宿題をやっていなかった柳は、覚えているんだからやらない、と言い教師の不服を買っていた。忘れるかもしれない、覚えた気になってるだけかもしれないと提出を迫る教師に最早服従するつもりはなかった。「忘れたらその瞬間にやる。だから今はやらない。必要ない。」屁理屈だと謗る声もあったが、僕は妙に納得してしまっていた。
大学進学を目前に、僕は行く先を決められず悩んでいた。学業については優秀だった僕は、教師から国立大学の理系を強く勧められていた。興味がないわけではなかったし、向けられた評価には嬉しさもあった。しかし、まだ自分がなにを生業としたいのかは漠然としており、理系分野への進学において、それは致命的だった。結局私立文系に進むことになるのだが、柳の直感的な部分にあやかったいい例だろう。彼は早くから法律分野に絞っていた。理由を聞くと、「日本で職業の選択肢が最も広いのは私文法律系さ、修学時間が少ないのもいい。折角12年間視野を広げ続けてきたのに、この4年でむしろ選択肢が狭まるなんて、馬鹿らしいだろ。決め打ちは人生ソレに尽くす覚悟ができてるヤツがするもんだ。」
その後大学も卒業し、柳はコンサルティング業に就いた。直感な部分が冴える彼には向いている部分も多いだろう。対して僕は、やはり柳とは別タイプの人間なのだろう、自らの勤勉さを存分に発揮し、法律家として生活の基盤を固めていった。この頃、多種多様な人々と出会ったが、結局最後まで関係を保ち続けたのは柳だけだった。大学を卒業し、減り。部署が代わり、減り。勤務地が代わり、減り。結婚をして、減り。子供ができて、減り。子供が育ち、減り。新たな出会いで溢れているはずなのに、感じるのは、もうしばらく顔を見てない、という事実だけだった。もうすぐ2050年になる。この節目までは生きていたいと妻に話すと、真面目ね、と一言優しく笑った。
そして記憶は朧気になっているのだと、たまに気づくことがある。昔のことばかり考えるようになったのも、昨日のことを忘れてしまう原因なのかもしれない。定年が過ぎ、身体という乗り物と対話することが増えた。もう無理はきかないらしい。よく頑張ってついてきてくれたと、身体をさする。既に僕がやるべきことはいくらも残っていないだろう。跡を濁さず飛び立つ準備をひとつひとつ進める。妻との会話で一番楽しい話題は、いつも未来のことだった。子供ができたら、家を建てたら、孫ができたら、と、未来の起点は時と共に進んだ。その未来を、この目で確かめられないことは初めてのことだ。だから、より一層未来の話は楽しい。昔の記憶ばかり気にしては、いけない。思い出す喜びも、毎日が続く楽しさも、皆の未来には代わらない。
忘れることを受け入れよう。覚えていることに甘んじよう。しかし、考えることを続けよう。前を向くことを続けよう。僕は目を閉じるけど、明日からはあなたに任せよう。