緋炎
舞い散る火の粉は、まるで血色に染められた雪のようであったという。
時は栄禄十二年水瓶月、場所は帝都阿耶より東の街、泉李。
夜明けにまだ遠い街の大部分に、既に火の手が回っていた。
のちの証言によれば、始まりは真夜中を少し過ぎたころ。富裕地区である北の邸宅街から出火し、風にのって東の地区へと燃え広がった。
東には《どぶ川》と呼ばれる貧民窟がある。密集した粗末な木小屋が、格好の燃え種となったのは想像に難くない。あっという間に火勢を増した炎は南へと移り、染め物問屋、並びに油問屋を飲み込んでは新たな紅蓮を噴き上げた。
その頃。まだ火の回っていない西側は、城門へと続く通りに避難民が群れをなしていた。警護兵たちの先導で、皆、これだけはと思う財産を抱えながら疲れた表情で歩いて行く。
寒季もそろそろ終わろうとしていたその晩、風は西から吹いていた。風が迫り来る炎から身を守ってくれる――誰もがそう信じ、街の外へと無事たどり着けると思っていたのだ。
そのとき、人の波にもまれながら通りを進んでいた一人の青年が、いち早く《それ》に気がついた。
――おい、あれ、なんだ?
隣にいた見ず知らずの中年男に、思わず問いかける。彼が指さした先は通りの右手前方、曾妃耶寺院の高くそびえる尖塔であった。
青年のただならぬ表情に、問われた方も視線をやった。
――なんだ、あれ。
足を止めた中年男に、気の立った背後のものたちが罵声を浴びせる。しかし男は全く耳に入っていない表情で、呆然と《それ》を見上げていた。
男の様子をさすがにおかしいと思った周囲が、彼の視線を追って――、皆一様に息をのむ。
曾妃耶寺院の尖塔に、炎をまとった龍がとぐろを巻いていた。
刹那――。
地を揺るがせる轟音が耳朶を震わせる。まるで地の底から吹き出したように、通りの左右から火柱が上がった。そして焔の帯が生き物のように身をよじらせ、またたくまに通りを奔りぬけていく。
悲鳴と叫喚。怒号と罵声。
猛々しい熱風と黒煙に顔をそむけたときは既に遅かった。逃れることもできぬまま、群衆たちが炎にまかれ、焼かれていく。
肉と髪が焼ける悪臭たち込めるなか、人影たちが踊り狂う。
男に女に子ども。犬に猫、牛に馬に羊。
老若男女、獣を問わず、炎はあらゆるものを焼き尽くす。
それはまさに、地獄さながらの様相であった。
街を東西に流れる釧川には、難を逃れようと多くの者がなだれ込み、多くの者がそのまま溺れ死んだ。この街の大動脈ともいえる川は川幅も広く、流れはやや速い。その川面を、黒焦げになった人々が死んだ魚とともに、すき間なく埋め尽したのだった。
自警団による決死の消火活動も空しく、炎は街全体を舐めていく。巻き上げられた煙が赤く照らされ、空は不吉な明るさで輝いた。
物見の鐘つき番は不眠不休で半鐘を鳴らし続ける。
その不吉な響きは灼熱のなかを逃げ惑う者たちにとって、世の終わりの知らせにも等しい。
すさまじい焔は夜が明けても消えることはなく、ようやく鎮火したのは三日後の夕刻。すでにあちこちで腐りかけた遺体が、壮絶な匂いを放ちはじめていた。
この大火事は、のちに「泉季の大火」として記録される。この惨事を生き残った僅かなものたちは、口々にこう語った。
あれは伝承に出てくる火龍のようだった。
あの焔はまるで、生きて意志を持っていたように見えた、と――。
***
火の粉はまるで血に染まった雪のようだ――。
彼は思った。
最初で最後に雪を見たのは、彼がまだ幼く、父と母が存命で《あの砦》に住んでいたときだ。
大人たちの事情はともかく、砦の生活は楽しかった。砦は逃げ延びた都よりはるか北にあり、険しい岩山の上に築かれていた。それ故夏は暑さが厳しく、冬には霜が降りるほどの寒さになる。
その砦で一度だけ、雪が降るのをこの目で見た。
地上に落ちるとすぐに消えてしまうそれを、彼と弟は手でなんとか受け止めようと走り回り、うまく捕まえられた時は二人ではしゃぎまわった。期待とともに掌を開くと、そこにはわずかな雫が残るのみで、すでに雪粒は消えてしまった後だ。
悲しげに手のひらを見つめる弟を、彼はそっと抱き寄せて頭を撫でてやった。
あれから全てが変わってしまった。
自分も弟も、もう幼いあの頃には戻れない。
己の宿命から逃げ出した《奴》とは違う。自分はこうして果たすべきことを果たしただけだ。それが多くの人命を犠牲にすることでも。
手に入れるべきものは手に入れた。はやくこの街を出なければ――。
彼がそのとき歩いていたのはすでに灰塵と化した東の区域で、文字通り人っ子ひとりいなかった。とうに夜は明けていたが、白煙にかすむ空は朝の光をさえぎったまま依然と薄暗く、はるか西へと勢いをうつした焔の明りを赤銅色に映していた。
東の亜銘門から延びる通りの奥、市街地の中心には四半遥嵯歩(※一遥嵯歩=五キロ)にかけ、大きな市場が広がっている。街一番の賑わいをみせた繁華街も全てが焼き尽くされ、日頃の喧騒が嘘のようにしんと静まり返っていた。
黒焦げと化した死体がそこかしこに転がる道を、彼は一人さまよう。
煤けた全身は幽鬼を思わせたが、もし誰かが彼を目にしたら、そのような風体など問題ではなかっただろう。なぜなら彼の左手に握られていた両刃の剣、鞘を抜かれた白刃が、自ら光を発して輝いていたのだから。
冷たい青白さをまとうそれは、月の光を凝らせたようだ。
剣身を納める鞘は彼の右手にあったが、木で造られたそれは随分と古びたものだ。もともと白木であったものが年を経て手垢にまみれ、所々に浮かぶ赤茶けた染みが斑模様に広がっている。
ふと――。
崩れ落ちた建物の隙間に動く人影を認め、彼は足を停めた。このような場に現れるものといえば、燃え残った貴金属目当ての火事場泥棒と決まっている。
柄を握る手に力を込め、足を速めた。死肉をあさる浅ましき獣たち。故郷が帝国兵によって蹂躙されたのち、彼らの同類が行った暴虐の限りを忘れたことはない。
予想どおり、そこにいたのは貧相な姿の中年男であった。この店の主人が地中に埋めた箱を、めざとく見つけたらしい。背後に忍び寄ったときには掘り返した穴の底、蓋にかかる土を掌で払いのけていたが、声をかけると飛び上るほど驚き、痩躯を振り向かせて立ち上がる。
黒く煤けた顔に、用心深く光らせた金壺眼。視線の端に光る抜き身をとらえていたが、動揺を腹の底に押し隠し、肩をいからせてごろつきらしい虚勢を張るのを忘れなかった。
――なんだテメエ。横取りしやがったらタダじゃおかねえぞ。言っとくがこちとら播帑の兄弟分よ。テメエが横取りなんざしようもんなら、兄貴が黙っちゃいねえ。いいからおとなしくケツまくって帰んな。
そう啖呵を切った。しかし。
全てを言い終わらぬうちに、距離をつめた白刃が中段を一閃する。
金壺眼が血濡れた切っ先をとらえたときは、すでに裂かれた腹から桃色の腸がはみ出していた。痛みを感じる間も、悲鳴を上げる隙も与えぬまま、返す刃が男の肩から上をとばす。
噴き出た鮮血が飛沫となって降りかかり、糞便くさい血の匂いがくすぶる煙と混じり合って辺りに立ちこめた。
頭部を失った身体が血だまりに倒れこむ。
粘ついた表面に焦げた灰を浮かせた血の海が、赤黒い筋を蛇のようにうねらせ、石床に広がるさまは……。
あの時と同じ。
濃厚な血の匂いに、嘔吐とは違う感覚が身体の奥からせりあがる。指先がしびれ、手を離れた剣が石床に落ちて乾いた音をたてた。白刃がまとっていた光りが消え、彼は崩れ落ちるように膝をつく。
唇を震わせながら、血濡れた両手を凝視した。
恐怖と混乱のなかで彼は問いかける。
この血は誰の血だ。
いつものように耳朶の奥で《《アレ》》が囁く。
お前の父親の血だ。
殺したのは誰だ。
そりゃあ、お前だ。そんなこと、とうに分かっているじゃないか。
せせら笑う口調のアレに、彼は必死に抗った。
ちがうちがう! 殺したのは俺じゃない! 殺したのはあいつだ。あいつが、この俺を、かばって……。
じゃあさ。
必死の抗弁に、アレは冷徹な声で彼を追い詰める。
殺したのがあいつなら、ここにいるお前は、誰なんだ。
なあ、おまえは誰だ? 芳也か? 劉哉か? いったいどっちなんだ?
分からない――。
ひどい眩暈に襲われた。
記憶の糸がもつれ始め、ぐるぐると地面が回り始める。前のめりに突っ伏し、蛙のように這いつくばって、途切れかける意識を保とうと必死になった。
気づけば横たわる刃を無我夢中で掴んでいた。白刃に食い込む手の痛みなどものともせず、
これをどこかに隠さなければ――。
その執念ただひとつに突き動かされ、血だまりのなかを這いずりながら、火事場泥棒が掘った穴へとにじり寄る。
光を失った白刃に刻まれるのは、太陽と月、その周囲を取り巻く六つの星の三辰紋。
そして紋を抱くよう左右に配された雌雄の龍であった。
かつて嘉南の地に栄え、千年の王国と讃えられた慧焔都。
その高祖であり、最高の武人との誉れ高い六星王荒弩が自らの手で鍛えた覇者の剣。さまざまな伝承に彩られたそれは、いま彼の手で粗末な木鞘に納められ、しばしの眠りについた。
剣の名を龍三辰という。