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手のひらの記憶

 そう言ってひざまずき、紫園の頬に手を添えた。びくりと身体を震わせたが逃げようとはせず、脅えた視線を藍那へと這わせた。

 いいように殴られたはずの頬やら顎やらを(あらた)めた。そして、たいした怪我を負っていないことを確かめ、息をのむ。


 あれほど殴られていれば、皮膚や骨にそれなりの損傷があるものだ。ところが、頬も顎もうっすらと赤くはなっているものの、まるで効いておらず、まるで赤子にはたかれたようである。

 藍那は慄然とした。


(この男……まさか……彼らの勁力を殺していた?)


 ふるわれた拳からの勁力は、まともに受ければ大きな痛手となる。しかし脱力や呼吸を合わせる呼応によって殺し、その損傷を大幅に減らすことは可能だ。

 もちろん、武術の心得のある者でなければできない。しかも勁力相殺はかなりの功夫(コンフー)を要する。つまり手練れでなければ使えないのだ。

 それをこの男が無意識のうちに使っていたとしたら――。


 藍那の背筋をぞくりと冷たいものが(はし)る。

 まさか。ただの偶然で、考えすぎではないのか。そう楽観視したい一方で、本能が頭のなかで警告を鳴らす。この男は危険だ、近づくな――と。

 それでも。


 彼の両肩に手を添え、端整な顔をじっと眺めた。

 心底から怯えきった様子はどうやら本物らしい。おどおどと見つめ返す紫色の瞳、その(うち)に、凍てついた孤独が沈んでいる。。


母と同じ目だと藍那は、いや璃凛は思った。

 母、藍那と同じ、決して癒えることのない哀しみを知っている瞳――。

 その瞳から、璃凜は顔をそむけることができなかった。



 ***



 母から剣を習うようになったのは、まだ六つか七つの頃だ。

 そのころ璃凜と母は帝国領の辺境、()州に住んでいた。近くに大きな湖があり、豊かな水脈を誇る風光明媚な土地である。

 辺境ながら古来より水運と国境警備の要とされた。それ故、覇権をめぐっての争いが絶えず、国境線が引き直されるたびに支配者が変わった。

 百年程前までは華羅の領地であったのが、奥尔罕(オルハン)中興の祖、(コウ)帝の御代に帝国領となり今に至る。


 華羅の支配が長かったせいで、街は現在も東域の名残が色濃い。喇嘛(ラマ)教の寺が多く、家の屋根には瓦を敷き詰め、店の看板には華名(カナ)文字が躍る。

 富めるものはこぞって華羅の時代に建てられた豪奢な屋敷に住んだ。璃凜が母と暮らしていたのも、そんな屋敷の一つである。


 母はいわゆる《囲われもの》だった。住んでいたのも母を囲った男の持ち物だ。屋敷には侍女が一人とばあやが一人。通いの料理人と使用人が数人。

 母は左の手首から先がなく、いつもそれを長めに仕立てた単衣の袖で隠していた。娘の璃凜から見ても充分に美しい人であったが、普段は人形のように表情が乏しく、一切の感情を表に出さなかった。


 家事は全てばあやが取り仕切り、なにをする必要もなく、しなかった。日がな一日外を眺め、時には一人で華羅将棋をさす。今考えてみれば、使用人のなかには母のことを《痴人(デリ)》と誤解していた者もいたに違いない。


 そんな母に剣を習うようになった。

 教わるのは決まって通いの使用人たちが居なくなった夜。教える母は昼間とは別人で、双眸(そうぼう)に力を宿し、言葉には威厳があった。

 忘れもしない。母に剣を教わった初日のこと。


「手を見せてごらん」


 命じるままに広げた小さな手をとって、母は仔細に眺めた。


「指の長さはまあまあだが、なにぶん手のひらがそんなに大きくない。本当なら剣にも楽器にも向かない手だ。でも、そんな手でもやりようはある。事実私がそうだった」


 母は右の手のひらを璃凛の眼前に広げて見せる。たしかに母の手は小ぶりで、けっして大きくはない。

 璃凛はおずおずと手を伸ばし、母の手のひらにそっと触れた。厚い皮に覆われた指の付け根は硬く隆起し、まめが潰れた痕があった。今は失われてしまった母の左手も、かつてはこのような感じだったのだろうか。

 母は左脇に挟んだ天星羅(アストラ)を目で示し、言った。


「お前も私も大きくて重い剣は扱えない。だから、この天星羅は私らのようなものにはちょうどいいのさ。蜂のひと刺しが命取りになるように、大事なのは剣の大きさや太さじゃない。いかに効率よく、無駄のない動きで相手の急所を突くかだ」 


 母の指が璃凛の眉間と喉、そしてみぞおちを差す。それから母は髪を結わえていた玉簪を抜き、細く尖った先へ視線をやった。


「見て御覧、こんなに細く小さな武器でも、使いようではあっという間に相手を殺すことができる。人の体はね、お前が考えているよりずっと脆くて壊れやすい。壊すのに大きな力も太い剣もいらないんだ」


 だから、と母は言葉を続けた。


「双極剣は力のないものでも己の身を守れる技だ。相手の勁を己の勁に転じることに活路を見出す。そのために必要なものは相手の技を見極める目と、なにが一番相手にとって有効かを瞬時に考え、即断する決断力だ」 


 母の言葉は幼い璃凛にはまだ難しい。それでもひと言も聞きもらすまいと、母の唇をじっと眺めていた。昼間と違って紅も差していないのに、赤くつややかで、まるで芍薬の花びらのようだ。


「まずは形からだ。套路(とうろ)を身体に叩き込んで、寝ていても出来るくらい繰り返すんだよ。正しい姿勢と呼吸、そして緊張と脱力を切り替えるコツをつかむんだ」


 それから毎夜。

 璃凛は母の指導のもとで来る日も来る日も剣を振った。套路(とうろ)は足法や剣筋、呼吸を学ぶ型稽古だ。それを飽きるほどなんども繰り返す。

 最初は軽い棒きれから始まり、それが白木の木剣に代わるまで一年。その頃から母は右手に剣を取り、打ちあいの稽古をつけてくれるようになった。


 最初は璃凛の好きなように打たせる。一方的に打たれているようで、その実、巧みに璃凛の太刀筋を育てていたのだと今なら分かる。

 ある日、母は璃凛に言った。


「お前は力も弱いし、素早さだって人並みだ。だが勘がとてもいい。その感覚を磨くんだ。磨けば相手が動くより早く、その先を読むことができる」

「それってかあさま、心が読めるってこと?」

「そうじゃない。相手の目の動きやほんの僅かな息づかいの変化で、次の動きを読むんだ。お前は時々びっくりするくらい勘が鋭いところを見せる。自分でも気がつかないうちに、相手の仕草を読んでいるのさ。それを磨けば、お前はとても強くなれるだろうね」


 その言葉を励みに、璃凛はせっせと剣を振りつづけた。

 月日がたち、最初は重かった白木の木剣が軽く感じられるようになると、母の教えは厳しさを増した。甘い太刀筋を跳ねのけられ、地面に容赦なく叩きつけられる日々。

 痛くてべそをかいても慰めの言葉一つかけず、璃凜が立ち上がるのを母は無言で待っていた。

 それでも璃凛は分かっていたのだ。どれほど母が厳しくても、腕や足に傷が耐えなくても、顔には傷が残らぬよう気を使ってくれていることを。


 璃凛が双極剣の最終套路(とうろ)、第四十七式通称|《両義》を教わり始めたのは十三のときだ。既に母に剣を教わってから六年ほどが経っていた。

 全て憶えて母の前で打った。

 そのとき――。


「もう……お前に教えることはなさそうだね」


 そうぽつりと呟いた母の眼は、酷く寂しそうだった。そのとき璃凛は悟ったのだ。こうして璃凛に剣を教えていても、母はいつも独りだったのだと。


 そして今。

 あのとき母に見たのと同じ目を、凍てついた孤独を、藍那は紫園に見た。


「手を見せてごらん」


 思わず母と同じ口調で藍那は尋ねていた。

 紫園はだまって、両手のひらを藍那に差し出す。

 大きな手のひらだった。指も長く、剣や楽器に向いた手だ。厚い皮に覆われた指の付け根には、昔の母と、そして現在(いま)の自分と同様、まめが潰れた痕があった。



 第二章「雄剣と雌剣」に続く


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