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空耳の夜明け

 違和感を覚えたのは、節の呼びかけが絶えたことだった。


 厠から声を張り上げても、一向に返事がない。不審に思い、震える指で燭台を取って、おそるおそる厠を出る。

 ハレムの廊下は、灯火あかりがなくても不自由がないほど闇が薄らいでいた。見れば、寄木細工の床に、明らかに靴跡らしきものがある。息を呑んで燭台で照らすと、泥に見えたそれは、赤黒く粘ついた液体であった。まるで血のような……。

 まさか……泥棒?

 鼓動が早くなり、全身から血の気が引いていく。


 ううん、そんなことない、大丈夫、だってあの剣が約束してくれたもの――。


 自分に言い聞かせ、自然と足が早まる。靴跡は秧真の部屋で途切れていた。わずかに開いた扉の向こうは見えないが、廊下には赤黒い染みが、醜い痣のごとく広がっている。

 震えが止まらず、歯の根が合わなかった。あたりに漂う濃厚な鉄さびに似た匂い。


 だめだ、引き返せ――。


 誰かが頭の片隅で叫ぶのに、歩みは勝手に進んでいく。

 扉に近寄り、息を殺しながらなかをのぞく。視界の端、秧真お気に入りの絨毯に節と寧々が倒れていた。二人とも頭部が欠けていて、彼女らを中心に、絨毯に赤黒い大きな染みが広がっている。

 悲鳴すら出てこなかった。その場にへたり込んだ秧真の下半身を、生暖かな液体が濡らしていく。

 その後のことはよく覚えていない。いつの間にか慈衛堵の屋敷に引き取られ、今に至る。父親の死に顔は見せてもらえなかった。


 ***


 語り終え、秧真は両手で顔を覆った。


「私は、私の手で、すべてを壊してしまいました。父も、節も、寧々も……」


 悪いのは秧真ではない。秧真も柴門も、龍三辰ルシダの駒として操られていただけだった――そう言ったところで、何の慰めにもならないだろう。

 己を責めているのは藍那も同じだ。そもそも、蔵人に剣の探索を依頼などしなければ、もっと違った形の今があったのだろうか。


 いや、そうではない。

 藍那には分かる。全ては巧妙に仕組まれた《あれ》の筋書き。藍那も秧真も柴門も、紫園ですら、舞台の上で踊らされていた木偶でくに過ぎなかったのだ。


「本当は、もう二度と先生には会わない――そう思っていました。愛紗アイシャは言ってくれていたのです。先生は私を憎んでも恨んでもいないって。

 だけど、だからこそ、自分の愚かさで先生の大切なものを奪ってしまった……その事実に、耐えられなかったのです」

「では、なぜ?」

楠啓ナビラ先生に言われました。そうやって嫌なことから逃げ続けても、生きていたってこれから辛いことばかりだって。楽になりたいなら死ぬしかない。

 でも……私が死んでも、世間のみんなを喜ばせるだけだって。ち、父の話……お聞きになりました? 紅籠ヴェロ街の人たちに、父が……なんて言われているか」


 芯の短くなった蝋燭が大きく揺れ、秧真の目元に濃い影を落とす。だまってうなずいた藍那に、秧真は吐き捨てるように言った。


「自業自得、だそうです。何処の馬の骨かもわからない輩を雇ったりするから、こんなことになった。あんな不吉な事件があって、こっちまで迷惑だって。

 昔は父の機嫌をとっていた人たちが、口を揃えて父を悪く言っている。もし私が死ねば、さぞあの人たちを喜ばせるでしょうね。でも父は……」


 藍那をまっすぐ見た目に涙が溜まっている。声を震わせ、秧真は言った。


「父は、私の、本当の父じゃ、なかったんです……」


 ***


 秧真の言葉はもちろん驚きであったが、一方で納得している自分がいた。秧真はあの狸面の娘にしては愛らしかったし、とにかく父親に似ていなかった。

 もちろん母親に似たのだろうと考えていたが、もとより血の繋がりがないとすれば腑に落ちる。


 節から聞いていた話では、秧真は杷萬と妻の伊珠イシュとのあいだに生まれた一人娘だ。しかし母親は、秧真がまだ赤ん坊の頃に家を出て、それきり戻ってこなかったらしい。


「母の名は伊珠イシュ――そう聞かされていました。でも本当はそうじゃない。先代の楼主の一人娘、椎鈴シーリンという人だって」

「一人娘……」


 藍那に金亀楼を継がないかと持ちかけたとき、杷萬が言っていたことを思い出す。


 ──先代にも一人娘が居たが、いろいろあって若死にしてしまいまして。


 秧真は目をしばたき、揺れる炎を見つめる。


「なんでも、楼に出入りしていた吟遊詩人と恋仲になって、駆け落ちしてしまったのですって。でもどうしてか、帝都に戻ったときには一人で、別人のようにやつれ果てていたそうです。楠啓ナビラ先生も、はじめ誰かわからないくらいだったって」


 椎鈴シーリンがまだ十八の頃である。帝都に戻って頼ったのは、楠啓ナビラのばあさまだ。

 口が悪く厳しいが、困っている人間を門前払いすることはない。地に額を付けてでも、なんとかして助けてもらわなくては――。

 彼女がそこまで思いつめていたのは、身ごもっていたからだ。


楠啓ナビラ先生は母を、椎鈴シーリンさんを匿って、面倒を見てくださったそうです。母はその時すでに、胸を患っていたとか……。

 先生から母が帝都に帰ったことを、先代の楼主に伝えることは出来たのですが、勘当した娘だからと一度も会いには来なかったそうです。その代わり、父が、お見舞いに来てくれたのですって」


 杷萬ハマンが椎鈴を見舞ったのには理由がある。その頃、すでに金亀楼を継ぐことが決まっていた杷萬だが、先代の楼主には何度も椎鈴の勘当を解くよう説得を試みた。

 しかし道を踏み外した娘を先代は許さず、それならと杷萬は一計を案じた。


 生まれてくる子を自分が引き取り、その子にいずれは金亀楼を継がせようと考えたのである。金亀楼を継ぐのであれば、出生に傷があってはならない。

 杷萬は楠啓ナビラの紹介で伊珠イシュめとり、椎鈴シーリンが生んだ子を自分と伊珠のあいだに生まれた娘とした。それが秧真である。

 

 伊珠イシュは楠啓の弟子で、故郷の振茶ブルサに帰って料亭を開く夢があった。杷萬が秧真を引き取った後、多額の報酬を受け取って彼女は帝都を後にする。

 秧真を生んだ椎鈴シーリンが杷萬にすべてを託して亡くなったのは、それからひと月後のことだ。


「このことを知っているのは、父と楠啓ナビラ先生、そしてセツだけだったそうです」

「そんなことが、あったのですね」

「でもそんな父の思いも、すべて無駄にしてしまいました。私は、本当に愚かでした。どんなに後悔しても、もう取り返しはつかない、だけど、それでも……」


 膝上のこぶしを握りしめ、秧真は声を振りしぼる。


「私はこうして生きている。拾った命で、成すべきことを見つけたいのです。償いなんて、一生かかっても無理なのは分かっています。本当は死んで楽になってしまいたい。でもどうせ死ぬのなら、なにかを、自分がなすべきことをやり遂げて死にたいのです。それで、父の恩に報いることが出来るなら――」

「お嬢さま……」

「先生が帝都に戻ったら、そのときには見てほしいんです。私が見つけた答えを。だから、必ず、戻ってきてくださいね」

「はい、必ず。お嬢さま」


 震える握りこぶしにそっと手のひらを重ねる。弾かれたように顔を上げると、秧真の見開かれた目から大粒の雫がこぼれ落ちた。


「どうか……ご武運を……」


 感情が溢れ出して、あとは言葉にならなかった。燭台の灯火が音もなく消える。室内には夜明けが忍び始め、闇は薄らいでいた。薄青に染まった部屋に、秧真のすすり泣く声が満ちていく。

 藍那は無言で立ち上がり、部屋を出て扉を閉めた。長い廊下を歩き、階段を降りて裏口から外へ出る。あしたの風は冷たく、潮の匂いが濃い。見上げると、明るみを帯びた空には消え残った星がまたたいている。


 裏門を守る警護の男が、藍那にだまってこうべを垂れ、門扉を開けた。

 今から歩けば、夜明けの開門と同時に街を出られるだろう。坂道を下り、西門を目指して歩みをすすめる。

 この坂を《彼》と歩いたときの、手のひらの温もりを思い出す。どんなに願っても、もうあの幸せなときは戻ってこない。嘆いても取り返しはつかない。

 秧真と藍那は同じだった。拾った命で成すべきことを成す。ただ、秧真が見つけた答えを、藍那が知ることは出来ないだろう。


 ――先生、待ってますよ、必ずここに戻ってきてくださいね。


 ふと、由真の声が聞こえたような気がして振り向いた。薄紫色に沈む無人の坂道を、風だけが通り抜けていく。

 仰げば、慈衛堵の屋敷は坂の上に小さくなっていた。その方向へ一礼し、すべてを振り切るように、藍那は城門をめざし駆け始める。






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