表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/72

悪意の罠

 その言葉を聞いて真っ先に浮かんだのは、艶琉アデルの微笑みだった。赤い髪と頬に浮いたそばかす。彼女はこう言ってなかったか。


 ――世の中には男が好きな男がいるように、女の人が好きな女もいるってことなの。


 つまり、そういうことだったのか――。

秧真の言葉に、すべての疑問が氷解する。もつれていた糸がほどけ、藍那は初めて、秧真という娘を本当の意味で理解した。何故あれほど頑なに縁談を断り続けたのかも。


「気持ちが悪いと、思いますか? 私のこと」


 おそるおそる訊ねた秧真に、かぶりを振って答えた。


「以前、艶琉アデルから聞きました。女の人が好きな女の人もいるのだと。彼女自身が、そうでしたから」

「艶琉が? 本当ですか?」

「はい、表立って言わないだけで、そういう女性は少なからずいるのでしょう。艶琉のときもそうでしたが、私はお嬢さまのことを気持ち悪いとは思いません」


 秧真が唇を固く結んだ。泣きそうな表情が、これまでの懊悩を物語っているようだ。想いを伝えることも出来ず、胸の奥に押し殺してきた日々を。


「初めて先生にお会いした日のことを、今でもはっきりと覚えています。男の人たちに絡まれていた私を、先生が助けてくださった。先生はまるで、物語のなかの王子さまか騎士さまのようでした」


 そう告げた口元に、かすかな微笑みが浮かぶ。昔を懐かしむ目で藍那を見た。


「まるで雷に打たれたように、私の心は捕らわれてしまったのです。でも叶うはずのない想いだって、分かっていた。でも良かったんです。先生が、ずっと私のおそばにいてくだされば。いつか私が嫁ぐことになっても、先生が一緒に来てくだされば、それで満足しようって」


 でも――と口元の微笑みがかき消える。


「紫園が来てからです。ううん、先生がお怪我をして、紫園に担ぎ込まれたときから、私、どんどんおかしくなった。そばにいるだけで満足していたはずなのに、先生を誰にも渡したくなくて、由真にすら嫉妬してしまって……。

 先生があの剣を託してくださったときは、本当に嬉しかったのです。まるであの剣が、先生の分身か何かのように思えました。だから、衣装箪笥の隠し扉のなかに、大切にしまっておいたのです。でも……」


 憂いを帯びた視線が、卓上の炎を見つめた。


「先生のこと好きだからこそ、分かっちゃうんです。先生が紫園に心惹かれていること。先生のなかで、紫園の存在がどんどん大きくなっていくのが――。

 それが分かってしまうから、紫園が、彼のことが、すごく憎かった。どうして私じゃだめなんだろうって。私が女だから、先生のことがこんなに好きでも、そもそも勝負にならないなんて理不尽だって」

「旦那さまは……お嬢さまの気持ちに気づいていたのですね」

「はっきりとは言いませんでしたが、そうだと思います。私を後宮に入れることを決めたのも、父なりに私の幸せを願ってくれたのでしょう……それなのに……私は……父を……」


 秧真の吐息で蝋燭の炎が揺れる。どこかで雄鶏が鳴いた。


「後宮入りが決まってから、不安で不安で仕方なかったのです。もし私がいないあいだに、紫園と先生が恋仲になったりしたらどうしようって。怖くてたまらなくて、おかしくなりそうだった。

 だから、思い切っておまじないに縋ったんです。晴れの願掛けが上手くいったんだから、紫園をどこか遠くに追い払えるかもしれないって。それで、藁を掴む気持ちで――」


 一人で巫術屋へと赴き、恋敵を排除する呪い札と、特別な調合で作られた香を買い求めた。それから毎朝、暗いうちから起きて香を炊き、呪い札に教えてもらった呪文を唱え、紫園が藍那の元を去ることを祈願した。


「本当に莫迦でした。萬和マナの信徒なら、好きな人の幸せを望まなくてはいけないのに……」


 血色の悪い唇が震える。


「お呪いを始めて、二日目くらいのことでした。先生が噴水のたもとで、紫園と口づけをしたという話を聞いてしまって。私、それで頭に血が上って、紫園を殺してやりたいくらい憎みました。なんとかしなくちゃいけない、あの男を先生から離さなきゃって考えていたら、」


 その瞬間、秧真から表情が消えた。


「声が……」

「声?」

「頭のなかで、声が聞こえてきたのです」


 ***


 その声は澄んだ女の声だった。かすかに聞こえたそれは、秧真の苦しみをまるで我が事のように嘆き、悲しんでいるように聞こえた。声の印象は若く、心を和ませるような慈愛に満ちている。

 驚いたが、恐れることはなかった。巫術屋は、熱心に祈ってそれが萬和マナに届くと、天使メレキの声が聞こえると言っていたからだ。だから秧真は必死に祈った。

 どうか天使さま、あの男を先生から遠ざけてください――と。


 やがて声は秧真に驚くべきことを語り始めた。紫園が実は迭戈ディエゴという画家で、泉李イズミルで大きな屋敷に火を放ち、そこから大切な宝剣を盗み出して逃げたという。


 ――秧真、あの男はとても危険なの。あなたの大切な藍那を近づけてはいけない。だから、あなたが私を解き放ってくれれば、あの男を処刑台に送ってあげられるわ。

 ――解き放つ?

 ――ええそうよ、ねえ、私に貼ってある霊符ふだを剥がしてくれないかしら。


 そのとき、衣装箪笥の方からがたりと音がした。不審に思って顔を向けると、箪笥の扉が開き、隠し扉にしまっていたはずの包みが床に転がり落ちている。


「そのとき、はじめて、怖いと思いました。先生はこの剣を大尊ダイソンに納めるつもりでしたし。だから慌ててまた隠し扉にしまったんです。でも声はずっと頭のなかに聞こえてきて……」

 

 表情の消えた秧真の顔がかすかに歪む。


「怖かったけど、耳をふさいでも聞こえるし、それにとても真剣に訴えるんです。あの紫園を野放しにしちゃだめだって。あの男は先生を騙して、利用しているだけだって。だから、もしかしたらこの声は本当のことを言っているんじゃないかって、だんだんそう思えてきて」


 部屋にこもり続ける秧真を杷萬も節も心配したが、後宮へ行くのが不安だと言えば良かった。


「そのうち、私の方から声に話しかけたんです。もしその話が本当なら、私はどうすればいいのかって」


 秧真の問いに、声は嬉々として答えた。


 ――いいこと? この剣はあの男の罪を立証する唯一の証拠なの。だから、祭りが終わるまでは絶対に藍那に渡してはだめよ。可哀想な彼女は、何も知らないわ。

 でも藍那を守るためにはこの方法しかないの。祭りが終わったら、この剣をある人に渡して。その人が剣を役人に引き渡してくれるから。


 それでも逡巡する秧真に、剣はさらに続けた。


 ――怖いのね、藍那に裏切ったと思われるのが。でも大丈夫。私の力で、誤解を解いてあげるわ。それに、あなたが祈っていた願いを聞きとげることだってできるのよ。だから、よく考えてね。


 なんという狡猾さだろう。

 秧真の告白に藍那はため息をついた。《あれ》は獲物と定めた相手のもっとも弱い部分を探り当て、慎重に絡め取っていくのだ。気がついたときにはもう遅い。網に捕らわれた獲物は、もがけばもがくほど呪縛にはまっていく。

 龍三辰ルシダの引き渡しをズルズルと先延ばしにしていたことも、これで理由が分かった。


「その人というのが誰なのか、ずっと分かりませんでした。でもお祭りの最後の日、観劇から戻ったとき、あの剣が言ったのです。これから私と一緒に、その人と楼の裏口で会いなさいって。

 でも正直なところ、まだ迷っていたのです。あの声の言っていることが本当なのか、先生の信頼を裏切ってまでなすべきことなのか、分からなくて……」


 迷いの末、秧真は考えた。

 その人ならもしかして、自分が知らない真実を教えてくれるのではないか。


「だから終祭の鐘が鳴って、節が眠ったあと、こっそり部屋を抜け出しました」


 龍三辰ルシダを抱え、誰にも会わぬよう祈りながら裏口へと向かう。そんな秧真を待っていたのは柴門であった。

 彼は己が韋蛮イヴァンから聞いたことを、詳細に秧真に語った。

 紫園が迭戈という画家であったこと。瑚々という妾の愛人で、彼女の屋敷に火を放ち、剣を盗んで行方知れずになっていたこと。

 それはあの声が秧真に言ったことと寸分たがわず、彼女の迷いを払拭するには十分すぎる理由となった。


「柴門も言っていました。『先生はあの紫園に騙されているんです。恨まれることになるでしょうが、これが先生を守るための唯一の方法です。先生だって、道理をわきまえないお方じゃない。いつか、お嬢さまのお気持ちをちゃんと分かってくれます』って」


 秧真は龍三辰ルシダを柴門に渡し、部屋へと戻ったが、眠れるはずがなかった。

 柴門はそのまま警邏たちのもとへ駆け込んだだろう。杷萬や他の使用人たちが見ている前で紫園の正体を暴き出し、警邏に捕らえさせるつもりだった。


 いくらなんでも、そんな場にのこのこと顔を出せるはずがない。藍那は信頼を裏切った秧真をきっと許さないだろう。もしかしたら怒りのまま、金亀楼を出ていってしまうかもしれない。でもあの剣は言っていたではないか、誤解を解いて、願いを叶えてくれると。


 そんなことを考えているうちに、出立の時間は迫ってくる。節と寧々を起こし、湯を使いたいと無茶を言って風呂に入った。

 着替えを済ませ、髪を整えてもらっているうちに、腹に差し込むような痛みを覚えはじめる。心配する節を振り払うように厠へと籠もった。


 秧真には分かっていたのだ。腹が痛むのは、自分が仕出かしたことへの不安と罪悪感からだった。できれば夕方まで、このまま厠に閉じこもっていたかった。藍那と顔を合わせる自信もなく、身の置き所がない。一向に厠から出てこない秧真を心配し、節が


 ――そろそろ先生をお見送りするお時間ですよ。大丈夫ですか?


 と声をかける。それに対し


 ――もう少し、もう少し待って。


 と答えることしか出来なかった。どうしたらいいのだろう。このまま厠にこもり続けても、なんの解決にもならない。いや、きっとあの剣がなんとかしてくれるはずだ。約束したではないか、誤解を解いて、願いも叶えてくれると。


 ――お願い、なんとかして……。


 必死に祈る秧真は気が付かなかった。

 扉の向こうが、いつの間にか、恐るべき静寂に包まれていたことに。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ