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笆癩(ヘライ)の民

「どう思うって……」


 口ごもり、先ほど感じた得体のしれぬ気配を思い出した。まるで深い闇の奥から、じっと背後を窺われているような――。

気のせいかも知れぬが、そう言い切れぬ何かが彼にはある。しかもあの男は母と自分しか知らないはずの天星羅(アストラ)を知っているのだ。

 考え込んでいると、


「いえ、どうもおかしな話でしてね。なんか薄気味悪いんですわ」


 杷萬(ハマン)にしては珍しく、真面目な顔で眉を曇らせる。

 彼の説明によれば騒ぎの発端はこうだ。

 あの三人がそれぞれ遅い朝食をすませ、さて昨夜のお代をという時のこと。こともあろうに、一人が財布を忘れてきたと言いだした。

 

――金はちゃんと払う。実は笛堵(フェド)街にある請負屋に昨日の仕事の金を預けてある。だから、それを取りに行かせてもらえないだろうか。


 だいたい財布を忘れて色街に来るもないものだ。

 要は遊び代を踏みたおす常套手段なのだが、杷萬はとりあえず三人のうち一人をその請負屋に行かせることにした。もちろん男衆の一人が同行する。仮にその客を何某(なにがし)と呼ぼう。


 何某と男衆は部屋を出て、中庭を見おろす回廊を歩いた。そのとき、噴水の傍をふらふらと歩いている下男が二人の目にとまる。そして彼が両手に抱えていたのが、預け処にあるはずの何某の剣だったから大変だ。

 これ幸いとばかりに何某が騒ぎ始めた。いったいどういう了見だ、ここの妓楼は武人の魂とも言える業物(わざもの)を、あのような下賤の輩に無断で触らせるのか――と。


「しかし預け処にあるはずの剣を、どうやって持ち出せたのでしょう」

「それが、圓湖(マルコ)に訊いてもさっぱりだと言うのですよ。ご存知の通り、預け処のものは圓湖が厳重に保管しております。彼が言うには、知らないあいだに消えたとしか思えないと」

「ふむ」

「しかも安瑛(アンデレ)がいうには、(やっこ)さん剣にしがみついて、しばらく離れようとしなかったらしいですわ。何某が蹴り飛ばしてようやく放したものの、なにやら剣にえらく執着するところがあるようで」


 たしかに。天星羅ににじり寄るときの彼には、鬼気迫るなにかがあった。いったい紫園という男はなにものなのか。


「彼は、本当に記憶を失っているのでしょうか」

「よくわかりませんな。そういうふりをすることもできますし、ただ言葉が不自由なのはどうも本当のようですが。ただですな、これはここだけの話なんですが、あの男はどうも笆癩(ヘライ)の民らしいんですわ」


 そこだけひそめた杷萬の声が、どこか不穏な響きを帯びる。

 笆癩の民――。

 そもそも笆癩(ヘライ)とは帝国民たちによる蔑称で、もともとは夷修羅(イシュラ)人という。昔は南蛮と呼ばれた彼らを、いつしかそう呼ぶようになった。


 ここより遥か南の地、塩海(ザルバ)のほとりに栄えた彼らの王国《慧焔都(エメラド)》。

 羅典に滅ぼされたのち、奥尔罕オルハンに支配が変ったのは今から二百年ほど前のこと。

 もっとも帝国に領地を侵され属領となった国など、この他にいくらでもある。しかし他の属領が徐々に同化していったのに対し、夷修羅たちはいまだに強い反抗心をくすぶらせ、ことあるごとに小規模な反乱を起こした。

 

「先生もご存じでしょう。笆癩の民の(しるし)のことを」

「彼らの父なる神との契約の証、でしたか」

「つまり、そのですな――」

「大丈夫です。それくらいの知識ならありますよ」


 藍那は言葉を濁した杷萬に笑ってみせる。

 験とはすなわち、笆癩の男子のみが受ける割礼痕のことだ。生後七日目に神官によって性器の包皮を切り取られる。もともと遊牧民たちに広く行われていた衛生行為だったのが、いつしか彼らのみに残された慣習となった。


 割礼は彼らの父なる神との契約の証であり、笆癩を見分ける格好の印となっている。もっとも《慧焔都(エメラド)》が滅んで三百年あまり。彼ら笆癩のなかにも慣習や契約の教えを捨て、帝国の文化に積極的に同化する動きもあるとか。


「とすると――つまり、あの紫園にはその割礼痕がある……ということですか」

杏奈(アナ)がこっそりとあたしに教えてくれたのですよ。口外はしないでくれということですが、先生には仰るべきだと判断しましてね」

「ふむ。それで、ご主人はどうなさるおつもりですか」

「それがですなあ、困っているのですわ」


 杷萬は肥えた身体を揺すった。


「杏奈とは長い付き合いで、その彼女からの預かりものです。簡単に放り出すわけにもいかんのですが、あたしはどうもなにか得体のしれないものを感じるのですよ。正直言うと気味が悪いのです。勘のようなものですがね。それで先生にどうすればよいのか、なにかお知恵を拝借出来ないかと思いましてね」


 本来なら藍那が受けるような相談ごとではない。客とのいざこざなら日常茶飯事だし、店のことに藍那が口をさしはさむこともない。しかし、おそらく、杷萬は正直な見解を述べているのだろう。

 記憶を失くした、おまけに言葉も不自由な使いものにならぬ笆癩など、普通なら放り出してしまえばよい。ただそれだけの話だが、杏奈から預かった手前それもできかねる。


 杷萬はしたたかな男だが妙に義理がたい面があり、一度引き受けたものごとは最後まで面倒を見た。だから紫園のことを扱いかねている。

 それに商売人のカンというものはバカにできない。

 海千山千、多くの人間を見てきた杷萬には独特の嗅覚がある。その彼が紫園を気味悪く思うのは、彼に尋常ではない《何か》を嗅ぎとっているからだ。藍那が先ほど背後に感じたような、どこか不穏な気配を。


「わかりました。彼については私も少々思う所があります。及ばすながら、この件は私に任せてくれませんか?」

「そう仰ってくれると思ってましたよ。先生にお願いできれば安心です。なにぶん言葉も不自由で、意思の疎通もままならないでしょうが」


 杷萬は再び水煙管の吸い口をとった。藍那にも彼の気持ちは分かる。口がきけず、周囲と打ち解けない、まるで《拾ってきた捨て猫》のような男。ましてや、あのような騒ぎを起こしたとあれば馘首(クビ)になって当然だ。

 杏奈との義理を通し、このまま彼を置いておけば奉公人たちに示しがつかなくなる。特に男衆たちの不興を買うのは目に見えていた。

 そこに杷萬が

 

 ――彼についての処遇は先生に一任した。


 とひと言言うだけで、とりあえずは収まるのである。男衆も含め、この金亀楼で藍那に対してあれやこれやと文句を言う人間はいない。

 杷萬の書斎を辞し、藍那は台所へと向かった。大鍋で羊肉を煮ている亜慈(アジー)に紫園の居場所を尋ねると、彼が男衆たちに館の裏手へと連れ去られるところを見たらしい。


 柴門(シモン)圓湖(マルコ)安瑛(アンデレ)

 その他に苫栖(トマス)もいたとのことで、よりによって男衆でも血の気の多い連中ばかりだ。

 これは急いだ方がいいかもしれない。

 慌てて裏口から飛び出し、厠の汲みとり口のある裏手へと向かう。


 案の定、紫園は彼らに取り巻かれ、したたかに殴られていた。

 殴られた反動で背後によろめいた身体を一人が受け止め、受け止めた身体をくるりと返してまた殴る。殴られている当人は抵抗もせず、ぐったりと(うつむ)いてされるがままだ。


「旦那に恥をかかせやがって、こん畜生。どういうつもりだよ、ああん?」

「こいつ、先生によけいな手間を取らせやがって」


 毒づきながら男たちは(こぶし)をふるっている。多勢に無勢は感心しないが、それでも彼らの心情に嘘はない。

 狸ではあるがどこか義理堅い。そんな楼主に、ここで働く男たちはそれなりの敬意を払っている。荒くれながら雇い主への忠義は本物だ。だからこそ客とのいざこざを起こした紫園に対して、いたく腹を立てている。


「いいかげん、それくらいで勘弁してやってくれないかな」


 藍那のひと言でいっせいに強面たちが振り返った。その表情は悪さを見られた悪餓鬼そのものだ。紫園の胸ぐらを掴んでいた苫栖(トマス)にいたっては、慌てて紫園を放り出すと、ばつが悪そうに両手を背後へとまわす。


「せ、先生、いつからそこに」

「今来たところ。お前たちの気持ちも分かるけど、多勢で一人をってのは感心しないね。それにこの男については、旦那さまから私が一任されることになった。今後、お前たちの手出しは無用だ。殴らなきゃならない時は、私から鉄拳をお見舞いする。いいね?」

「せ、先生が!? 旦那から!? な、なんでっ」

「それについては私からお願いしたことだ。ちょっと気になることがあってね。ささ、いいから仕事に戻りな。昼間だからってここで油売ってたら、旦那さまに叱られるよ」


 不服をあからさまにしながら、それでも言われたとおり、しぶしぶ表の方へと足を向ける。柴門は苦虫を噛み潰した口を歪め、地にペッと唾を吐いた。


「おめえ、肥壺はちゃんと出しとけよ」


 尻もちをついた格好の紫園にそう言い捨てる。そうして彼らが立ち去った後も、紫園は変らずうなだれたままだ。まるで息を潜めるようにじっとしている。よほど奴らの拳がきいたのだろう。

 そんな紫園が可哀想になり、藍那は優しく声をかけた。


「災難だったね。だけどあいつらにも一分の理はある。痛かっただろうけど、高い授業料だと思っておけばいい。どれ、顔を見せてごらん」


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