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密偵・塁(ルイ)

 密偵はルイという名の羅典ラテン人で、見た目から歳は三十前後、やや小太りの、たいそう人懐こそうな男だった。

 そもそも密偵は人の懐に入り、必要な情報を得る。だから彼らの多くは親しみやすい容貌で、人当たりも良かった。口が達者なうえ、それほど美形というわけでもないのに女にもてる。


 この塁も多分にもれず、密偵という正体を知らなければ、大店の番頭か芝居小屋の二番人気といったところだ。羅典でも北方の出身らしく、薄い金髪に緑色の目をしていた。

 船から降りてまっすぐに屋敷へと向かい、着いたのは昼過ぎだ。藍那が客間へ顔を出したときは、遅めの昼食を済ませたところで、のんびりと薄荷茶を喫していた。

 円卓にはすでに慈衛堵がついている。室内には三人だけで、使用人も外へ出されていた。天星羅アストラを着座の型に差し直してから、乞われるままに慈衛堵の隣、ルイの斜向いへと座した。


「ああ、これは。あなたが藍那さんですね」


 立ち上がり、拱手一礼してにっこりと笑う。


「お噂はかねがね、伺っております。私の知らせがお役に立てるといいのですが」

「ありがとう。私にお構いなく、どうぞお掛けになってください」

「恐縮です」


 再び着席した塁をそれとなく観察した。顔も身体も丸みを帯びているが、それはあくまで人懐こさを演じるための衣装に過ぎない。密偵というからには、なんらかの武術も習得しているはずだ。しかし、巧みに隠されたその実力がどれほどのものか、推し量ることは難しい。


 慈衛堵が薄荷茶を器に注ぎ、藍那にすすめる。


ルイは私が長年信頼している密偵です。彼の報告はとても信頼できる――そう思っていただいて構いません」


 藍那が無言でうなずくと、塁は口元を手巾で拭い、話し始めた。


「では報告に入りましょうか。まずは例の安慰メナヘムの姿絵ですがね」


 長衣の袖口から、手品のような手付きで細く丸めた紙を引き出した。


「こちらをお検めください」


 差し出されたものを慈衛堵が受け取る。軽く糊で閉じられていた部分を慎重に剥がし、開くと、彼の顔色が変わった。


「なんてことだ……やはり……」


 慈衛堵が卓上に広げたそれを、藍那もまた眺めた。

 薄茶の紙に筆で描かれたその人物は、まごうことなく《彼》そのもの。姿絵には目と髪にだけ、彩色が施されている。赤みがかった栗色の髪と、紫の双眸。これが《彼》でなくて、一体誰だろうか。


「紫園……」


 気がつけば、そう呟いていた。ふと、濃厚な血の匂いを嗅いだ気がして、その瞬間、記憶の底から過去が鮮明によみがえる。

 血しぶきを上げながら倒れた、苫栖トマス圓湖マルコ。必死に逃げてと由真に叫んだ。

 そして――。

 死を願うほどの苦痛と屈辱の時間。紫色ししょくの業火と焼かれる亡者たち。

 唇を歪め、《アレ》が笑った――。


「藍那さん、しっかり」


 慈衛堵の声がずいぶん遠かった。耳鳴りがひどく、おまけに胸が締め付けられて息が苦しい。全身から汗が吹き出し、こみ上げてくる嘔吐を必死にこらえた。


「塁、水を」


 卓に倒れかけたところを、慈衛堵が抱えて起こした。唇に硝子杯があてられ、檸檬水が流し込まれる。少しむせてから、飲み干した。


「ありがとうございます。もう大丈夫です」


 大きく息を吐いて目を閉じ、開いてから姿勢を正した。塁へ頭を下げ、


「申し訳ありません、見苦しいところをお目にかけました」


 と詫びる。

 塁は手のひらを藍那へと向け、かぶりを振った。


「いいえ、どうぞお気兼ねなく。では彼は、間違いなくあなたが探されていた男なのですね」

「はい……。理由は言えませんが」

「そうですか。だとすればいささか奇妙な、残念なご報告になるかもしれません」

 

 藍那が怪訝な表情で塁を見返した。


「それは、一体どういうことですか」

安慰メナヘム慧焔都エメラドで宣教を始めたのは、今から月ばかり前、年が変わって間もない頃だったそうです。それまでの彼は、見習い大工の、ごくごく普通の青年だった」

「……大工? まさか、でも……」


 困惑がそのまま言葉に出た。まさか、紫園と同じ人間が二人いるというのか?


「本当の名前は芳也ヨシュア。出身は為異喇ナスィラという街で育ち、大工の父親の元でずっと修行してました。歳は二十三。父の名は約瑟夫ヨセフ、母の名前は真莉愛マリア。彼の下に弟が二人と妹が一人。家族構成はこんなところでしょうか」


 視線を転じれば、慈衛堵も釈然としない表情をしている。たぶん藍那自身も同じなのだろう。まだ塁の言った事実をうまく飲み込めなかった。

 かたきをようやく見つけ出したと思いきや、他人の空似だった。なんとも奇妙で残念な話だが、にわかに信じられない自分がいる。

 重い空気をはらうように、薄荷茶で喉を潤した塁が話を続けた。


為異喇ナスィラは慧焔都から北の方角、三十遥嵯歩(ファルサフ)(※一遥嵯歩=五キロ)のところにあります。歩いていけば三日ほどで着くでしょう。比較的大きな街で、それほど田舎というわけでもない。ですが街の人間は今、とても警戒心が強くなっておりましてね。

 実際、芳也ヨシュアのことを探るのは苦労しました。よそ者には何も話すなって、住人たちに箝口令が敷かれているようです。なにしろ慧焔都じゃ、最要注意人物だ。あまりの人気ぶりに、神官や役人たちが頭を抱えてるって話で」

「それほどまでに、安慰メナヘムは熱狂的な支持を得ているのですか?」


 藍那の問いに、塁は肩をすくめた。


「すごいですよ。彼が行く先々で人が大勢集まって、厚い壁ができる程です。奇跡の力もたいそうなものですが、説教がうまく、言葉に説得力がある。おまけにこれほどのいい男ときちゃ、ご婦人たちが放っておかないでしょう。いまや慧焔都じゅうの女性が、彼に夢中だといってもいい」

「しかし……あまりに影響力が強すぎると、総督にとっては目障りだろうな。そうでなくても、あそこは未だに独立運動の火種が燻っている」


 慈衛堵の言葉にルイがうなずいた。


「そのとおり。現に慧焔都エメラドの夷修羅人の多くが、彼に六星王荒弩(アラド)の再来を期待しているようです。奥尔罕に虐げられている自分たちを救い出し、再び千年王国へと導いてくれるのではないかと」


 あの周辺で大規模な内乱が起これば、それは必ず染料の供給に響いてくる。慈衛堵の心中は穏やかではないだろう。


「総督の旗覇ファハタも、本音じゃ、適当な罪状で牢獄送りにしたいところですがね。なにぶん、人気がありすぎるんですよ。安易に逮捕しちゃ、暴動が起きかねません。総督の任務を無事終えて、帝都に戻って出世したい彼にしちゃ、下手なゴタゴタは起きてほしくない。だから手を出しかねているのです」


 嘉南州は帝国の直轄州である。そのため州知事ではなく、帝から勅命を受けた総督が収めた。代々、中央で手腕を認められた執政官や法務官がその座につき、十年の任期を終えると帝都に戻る。戻った後は、宰相の地位が約束されていた。

 聞けば旗覇ファハタは宦官で、宦官長から執政官へ上り詰めたやり手らしい。藍那はなんとなく、晴夫セイフ野明ノアのことを思い出す。


「それだけじゃない、慧焔都はいまかなり物騒でしてね。他にも髑髏党ゴルゴタと呼ばれている過激派が、あちこちで暴れまわっている。そっちを抑え込むのに必死なのも、安慰メナヘムに手を出せない、もう一つの理由です。私が滞在していたひと月の間に、警邏の人間が六人も殺されました」

「六人……」


 藍那は呆然と呟いた。もともと剣呑な地域だが、それにしても多すぎる。藍那の反応に、塁も暗い表情になった。


髑髏党ゴルゴタの党員は皆、優れた武術の使い手で、暗殺の名手という噂です。それ以外は一切が不明で、何人いるのか、党首が誰なのかも分からない。調べようかとも思ったのですが、危険を感じたので深入りは避けました」

「実に懸命な判断だ。それでいい」


 慈衛堵の言葉に、塁は頭を下げた。


「ご配慮痛み入ります。髑髏党ゴルゴタのことは分かりませんでしたが、警邏に根気よく聞き込みを続けているうちに、面白いことがわかりましたよ。

 実は、警邏の一人が、安慰メナヘムと同郷、為異喇ナスィラの出身でしてね。名前は出さないという条件で、実に興味深いことを教えてくれました。安慰こと芳也ヨシュアには、双子の兄がいたそうです」

「双子の……」

「兄……?」


 慈衛堵と藍那が同時に反応した。


「奥尔罕や華羅じゃ、双子はたいてい、生まれると同時に里子に出されます。ですが夷修羅人たちは、それほど双子をまないそうです。慧焔都でも何度か見ましたな。芳也にも劉哉ユダという、瓜二つの兄がいたとか」


 耳の奥で血の沸き立つ音を聞いた。心臓の鼓動が早い。いま直ぐ駆け出したい衝動をこらえ、藍那は辛抱強く、塁の言葉に耳を傾ける。


劉哉ユダは近所でも評判の暴れ者だったそうですよ。穏やかな芳也とは大違いで、いつも棒切れを振り回しては、誰かと喧嘩ばかりしていた。先程行ったとおり、育ての父親は大工でしたが、家業を継ぐ気はとうていなく、この街を出たいと常日頃ぼやいていたらしい」

「育ての父親?」

「芳也と劉哉ユダの母親、真莉愛マリアは再婚で、彼らは連れ子でした。真莉愛と兄弟が街に来たのは、まだほんの幼い頃だったようですが」


 塁はそこで軽く咳をした。銚子さしなべを手に慈衛堵が立ち上がって、塁の茶器に茶を注ぐ。一礼し、塁は言葉を続けた。


「この話をしてくれた警邏の男も、幼いときから劉哉ユダにはさんざんいじめられたそうです。それなのにいじめた後はまるで別人のように優しくなって、自分がつけた傷を手当したり、涙を流して謝罪したり。

 かと思えば、えらくたちの悪い悪戯をする。ずいぶん振り回されたけど、どうしてか、不思議と嫌いにはなれなかった――と言ってましたね」

「その……」


 藍那は大きく息を吸って吐いた。


「その劉哉ユダは、今はどこに?」

「十二のときに家出して、それきり行方不明だとか」

「家出? 一人で、ですか?」


 塁は首を横に振った。


「彼が家を出る少し前ですが、近くの長屋に画家が住み着きましてね。警邏の男も名前は覚えてないそうで。あちこちを旅して巡っていた流れ者ですが、その絵描き、なかなかの武芸の達人で、近所の少年たちにただで剣術を教えていた。劉哉ユダもそのうちの一人でしたが、剣筋が飛び抜けて優れていたようです」


 ですが――と、塁は若干暗い表情になった。


「剣術を習うのは父親が反対だったようで、何度か画家のもとへ怒鳴り込んで、この街から出て行けと通告したらしい。

 そしてある日、何の前触れもなく、画家はいなくなった。それと同時に、劉哉ユダも姿を消したそうです。今じゃ、生きてるか死んでるかまるで分からない」

「つまり……この姿絵と同じ男が、もう一人、どこかにいる」


 藍那の言葉に、ルイが深くうなずいた。



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