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破局の足音

「こんな朝早くに? 一体何の用件だ」


 杷萬ハマンの言葉は、その場にいた多方の総意であった。しかし藍那だけは違う。思いがけぬ来訪の知らせに、血の気が引く思いで足元を見つめた。


(もしや柴門が、紫園のことを警邏に?)


 まさかそこまでするとは――。

 瞬時に頭に血がのぼって、腹の底から怒りがこみ上げる。しかし落ち着けと己に言い聞かせ、こちらの出方に素早く考えを巡らせた。

 たとえ紫園の過去を知ったとしても、その柴門にだって確たる証拠があるわけでもない。全ては韋蛮イヴァンから聞いたことに過ぎないのだ。放火や龍三辰ルシダの盗難だって、全ては憶測だ。ここは自分が警邏に応じて、そのことを説明するしかない。

 だから、誰よりも冷静にならなければ。


「それが、し、紫園さんのことで話があるそうで」

「紫園ね、ふん、なるほど」


 杷萬は面倒そうに答え、


「ま、追い返すわけにもいかないでしょう。よろしいですか、先生」


 と藍那へ顔を向けた。もしかしたら杷萬は、いつかこういう日が来ることを、どこかで分かっていたのかもしれない。藍那もうなずき、踵を返した吾力アリを見送りながら、拳を握りしめた。

 大丈夫、上手く切り抜けられる。幸いなことに、この場にお嬢さまと龍三辰ルシダは不在だ。いまは絶対に、龍三辰を警邏たちに見せてはならない。彼らがあれを目にしたら必ず――。


「先生……」


 気がつけば、由真が怯えた瞳で見上げていた。


「紫園さん、連れて行かれちゃうんですか?」

「ううん、大丈夫だよ。ちょっと誤解があるだけ。私がちゃんと説明するから、由真は心配しないで」


 言い終わると同時に、すばやく紫園と視線を交わし合う。蒼白の面持ちではあったが、その目には藍那へのいたわりがあった。


 ――大丈夫です、璃凜、僕は大丈夫。だから、どうか安心して。


 無言のうちに、そんな言葉を聞く。やがて腰の長剣を鳴らしながら、警邏が二人、表口から入ってきた。大股で近寄ると、尊大な目つきで藍那たちを眺める。その顔に見覚えがあった。


「あなた方は」


 なんとつい先日、晴夫セイフの工房で会った連中だ。その一人は、香良楼で藍那を捕らえた男である。


「これはこれはお役人さま、お勤めご苦労さまでございます」


 杷萬は余裕の笑みを浮かべ、丁重にこうべを垂れた。


「こんな朝早くにご足労いただくとは、さぞ急を要するご用件なのでしょうな」

「楼主、我等とて役目のこと。非礼は重々承知であるが、こちらで奉公している柴門シモンとやらに、文で呼び出されてな。なんでも泉李イズミルの大火を起こした重罪人が、このうちにいるとか」


 金亀楼の常連には上級法吏(ほうり)もいて、楼主・杷萬は彼らに顔が利く。下手に言いがかりをつければ、首が飛ぶのは警邏の方だ。だからこそ慎重に言葉を選んでいるのが分かった。


「ほう、柴門が。その重罪人とは、ここにおります紫園でしょうか」


 杷萬の後ろで皆が息をのんだ。由真が藍那の手をギュッと握りしめる。藍那は息を吸って、吐いた。

 落ち着け、ちゃんと彼らに説明しろ。なにも証拠はないのだから――。

 杷萬はふんと鼻を鳴らす。


「私は柴門からなにも聞いておりませんな。しかし、下働きのものを連れて行かれるとなると、この金亀楼の評判にも大きく関わること。罪人だという動かざる証拠はあるのでしょうな」


 証拠という言葉に警邏たちが怯む。


「証拠などない。しかし、泉李で手配されている迭戈ディエゴという絵かきが、この紫園に瓜二つというではないか。迭戈は世話になっていた屋敷に火をつけ、宝物庫から剣を盗んだかどで、州知事から死刑を宣告されている大罪人だ」

「そんな! それは紫園さんじゃない!」


 由真が叫んだ。


「違います! 紫園さんは、そんなことが出来る人じゃありません!」

「由真……」


 握られた手を握り返しながら、藍那は紫園を見た。呆然と警邏たちを見つめる顔は土気色で、唇が小刻みに震えている。

 最悪だ。まさか、こんな形で彼に知られてしまうとは――己の無力さに歯噛みし、それでもまだ反撃の余地はあると、警邏に向き直った。


「実はその話は、私もある者から聞かされておりました。しかし、お役人さま、迭戈ディエゴが屋敷から剣を盗み出したというのも、屋敷に火をつけたというのも、全て証拠のない憶測と聞いておりますが」

「貴様、州知事の宣告に異を唱えるか!」

「庇い立てするならお前も同罪だ!」


 声を荒げた警邏たちに杷萬が


「まあまあ、お役人さま、所詮は用心棒の戯言です」


 と割って入った。


「たしかに、紫園は泉李イズミルで焼け跡に倒れていたところを、縁あって金亀楼で面倒を見ております。しかしですなあ、彼がその迭戈ディエゴだと、どうして言い切れるのです? よく言いますな、世の中には似た人間が三人いると。

 他人の空似というだけでうちの評判に傷をつけられては、こちらとしても困ります。紫園がその絵かきだという確たるあかしがあれば、私も心おきなく、そちらへこの男を引き渡しましょう。そうなれば、お二人は大火の犯人をあげて大手柄ですな」


 ああ、そのときは――杷萬は濃いあごひげをなでつけた。


殿盤ドノヴァンさまに、お二人の働きをお耳に入れておきますよ。先日もここにいらしてくださったのでね。きっと、刑部から良い知らせがありますでしょうな」


 殿盤ドノヴァンさま――その名前に二人が動揺をあらわにする。

 刑部長官は、彼らにとっては雲上人である。もしここで無理矢理にでも紫園を引っ張っていけば、杷萬から苦情がいくのは火を見るより明らかだ。その雲上人から二人に、どのような沙汰が下されるか分かったものではない。

 警邏の職務をまっとうするか、おとなしく一度引き下がるか。


「し、しかし、柴門シモンという男に呼び出された以上、こちらも手ぶらで帰るわけには行かない」


 葛藤を押し隠すように、片方が杷萬を睨みつけた。


「ならば柴門という男に会わせてもらおう。彼を警邏所へ連れていき、じっくりと話を聞きたい」

「それならよろしいでしょう。誰か、柴門をここへ」


 杷萬がそう言ったとき、後ろで声がした。


「俺なら、ここにいますよ、逃げも隠れもしません。誰かさんと違ってね」


 いつの間にか柴門が一同の背後に立ち、紫園から藍那、そして警邏へと視線を移した。圓湖マルコ苫栖トマス、他の男衆や女たちが怯えたように退く。そのせいで最初は首だけ出ていた柴門の姿が、全身(あらわ)になった。その右手にあったのは――。


 目の錯覚だと思った。

 なにかの間違いではないかと。

 あの布包み。あの形と大きさ。間違えようがない。

 秧真に預けてあったはずの、龍三辰ルシダではないか。


 ***


「俺は逃げも隠れもしませんよ、誰かさんと違ってね」


 柴門シモンは繰り返しそう述べると、薄ら笑いを浮かべながら紫園の顔を覗き込む。その目には熱に浮かされたような、どこか狂気すら感じさせる、ただならぬ光が浮かんでいた。

 だめだ、あれを、なんとか取り返さないと――。あえぐように、藍那が口を開く。


「柴門、待って。あなたは……」

「先生、先生はこいつに騙されてる!」


 右手の人差し指を紫園の鼻先に突きつけ、口を歪めて怒鳴った。


「先生だけじゃない、旦那さまもみんなも、騙されてるんですよ! こいつは旦那さまや先生の人の良さにつけ込んで、まんまと金亀楼に潜り込んだ。

 放火の大罪人がずうずうしいこった。おまけに宮廷画家になりたいだあ? なんもかも手に入れようとしやがって。だが、そうは問屋が卸さねえんだよ!」

「柴門、ちがう、おねがい、話を聞いて」

「惚れた男だから、かばいたくなるのも分かりますがね、先生、こいつにそんな価値はない。お役人さま、この剣をご照覧下さい。これこそ、こいつが屋敷から盗み、巡り巡ってこの金亀楼に隠されていたもの。すべてはこの男の、さかしらな策略にございます」


 だめだ、その布を外しては――。

 そう告げたかったのに、どうしてだか言葉が出てこない。眼前で柴門の左手が荒々しく包み布をはがし、粗末な木鞘があらわになった。

 天井を指すのは、真鍮の剣首。黒檀の柄に、龍を彫り込んだ剣格。藍那が最後に見たのは大尊ダイソンで、卯夏ウゲと席を共にしたときだ。そして……。


 藍那は愕然とし、己の目を疑う。

 なかった。

 あるべきものが、漆で留められていたはずの霊符ふだが、ない。


「ほほう、では検めさせてもらう」


 大股で歩み寄った警邏が、柄を手に掛け、一気に引き抜いた。輝く燈火を照り返し、冷たく光る剣身がさらされる――と同時に、禍々しい勁が周囲へと立ち込めた。息苦しいほどの瘴気に、藍那の全身が総毛立ち、冷たい汗が背中を伝う。

 今直ぐにでもアレを取り返さなければ。だが身体がまったく言うことを聞かないのはどういうわけだ……。

 警邏たちは、そんな藍那の様子に気がつかないようだった。無頓着に剣身に顔を寄せ、ためすすがめつ眺める。


「ふん。日輪と月と七つの星、それを囲む雌雄の龍。確かに、探されていた宝剣に相違ない――」


 そのとき影が――。

 藍那の眼前をよぎった。


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