表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/72

旅立ちの朝

 浅い眠りから覚めたのは、まだ暗いうちだった。すでに彼の姿はなく、かすかに残るぬくもりを惜しむように、枕へ顔を埋める。

 部屋の空気は驚くほどに冷えていた。感謝祭の終わりは寒季の始まりでもある。掛布のなかでしばらくぐずぐずしていたが、いつまでもそうしてはいられない。暗闇に目がなれた頃合いを見計らい、思い切って上体を起こす。


「ううっ、さむっ」


 一糸まとわぬ素肌が総毛立った。

 震えながら慌てて下着をつける。毛織の下履きを履いて、旅仕様の細袴と長衣をまとった。帯革をつけると、身も心も引き締まる。

 寒さで着替えを急かされたのは、かえって良かったかもしれない。そうでなければ、肌に赤く印された昨夜の名残に、羞恥で身悶えたであろう。


(これだけは、ちゃんとしておかないと)


 寝台から敷布をはがし、まるめてから抱えて部屋を出た。足音を忍ばせながら廊下を歩いて、裏口の扉を開ける。露を含んだあしたの空気が、骨にしみるほど冷たい。十九夜の月はこずえの向こうに輝き、水場を明るく照らしていた。


 今はまだ、下働きの者たちも眠りの最中だ。なるべく音をたてぬよう、顔を洗ってから、敷布についた血の染みを水に浸して揉んだ。

 流れる水は氷のようだった。洗っていると指先が痛くなるし、血のシミはなかなか落ちない。諦めて自室に戻ったときは、すっかり体は冷えてしまっていた。


 とりあえず麻ひもを張って干し、考える。

 月のものだと言っても、変に勘ぐられるだけだろう。それなら言い訳めいたことは一切なしで、このまま出立したほうがまだましだ。


 天星羅アストラを佩いてから、厚い毛織の外套を体に巻き付け、布留ブロスを留めた。柔らかな革靴を脱ぎ、冬用の長靴ちょうかを履く。これを最後に履いたのは、初めて金亀楼の敷居をまたいだ時だ。あれからすっかり旅とは縁遠くなったせいで、ずっと長持ちにしまいこんだままだった。


(なんだか、不思議な心持ちだな)


 これまでの自分にとって、旅とはあてがなく、帰るということを想定しないものだった。帰るべき場所を持たない、浮き草のような旅暮らし。しかしこの二年で、状況はなんと変わったのだろう。今の自分には帰るべき場所が、この金亀楼があるのだ。そして自分を待ってくれている人々が。


 外套の裏に留めた布留ブロスを、手のひらでそっと押さえた。昨夜のことを思い出せば、後ろ髪を引かれてしまう。

 今は己の使命を果たさねば――。

 名残惜しさを振り切るよう、顔を左右に振った。


 室内は藍色の闇に満ちている。窓を上げ、鎧戸を開いて天を見上げた。すみれ色の空高く月は輝いていたが、迫りくる夜明けの明るみに、その姿を薄っすらと溶け込ませている。

 周囲に漂うのは、水気を含んだ青臭い葉叢はむらの匂い。やがて、風のなかにかすかな煙くささをかいだ。亜慈アジーが、厨房でかまどに火を入れたのだろう。そろそろ他の使用人たちも目を覚ますころだ。

 文机においた手鏡を懐に入れ、背嚢を肩から背へと負った。


「そろそろ行こうか、藍那」


 そう自分に語りかけ、部屋を出る。


 ***


 まずは、一番気がかりなことを確かめておきたい。藍那は秧真の部屋へと向かい、扉を叩いた。


「お嬢さま、藍那です」


 しばらくして、開いた隙間から節が顔をのぞかせた。きちんと身支度はしていたが、髪は結わずにおろしたままだ。旅装の藍那を一瞥して、眠たげな表情を一変させた。


「あらまあ、先生、もうお支度が出来たのですか。出立はもう少し遅いのかと」

「いえ、直ぐにというわけではないのですが……賄い方にも顔を出さないといけませんし。それより、お嬢さまは?」

「さきほどお目覚めになられましたわ。先生のお見送りをするのに綺麗にしないとって、張り切って身支度されてますよ。ええ、それはそれは張り切って」

「そうでしたか。では『例のものをお願いします』とお伝え下さい」

「はい、分かりました。先生、どうか、お気をつけてくださいね。どうか……」


 そう言って、節はなにかに急かされるように扉を締めた。出立に涙は不吉だと言っていたので、泣き顔を見られたくなかったのだろう。とりあえず、これで龍三辰ルシダのことは大丈夫。

 薄闇のなか、金亀楼の賄い方へと向かった。見慣れた寄木細工タラセアの廊下ともしばらくお別れだ。


「ああ、先生、おはようございます」


 顔を洗いに行くのだろう、起き抜けの安瑛アンデレがひどい寝癖で、賄い方そばの階段から降りてきた。頭をかくと握った手ぬぐいを背に回し、笑みを浮かべる。


「お早いですね先生、俺は忙しくて見送れませんが、どうぞお気をつけて」

「そういえば、柴門は帰ってる?」

「真夜中過ぎに帰ってきましたよ。ですが、さっき起きて、どっか行ってます」

「どっかって……何処?」

「分かりません。ひょっとして厠かもしれませんが。野郎、もしかしたら先生が出かけるまで、そこに籠もってるつもりなんじゃ」

「厠に? どうして」

「あいつ、いささかガキ臭いところがありますからね。しばらく先生が留守にするんで、やっぱり寂しいんすよ。先生にそんな自分を見られるのが、嫌なんじゃないですか」


 たしかに子供じみている。苦笑して


「もし厠に行って柴門を見つけたら、見送らなくていいから出るように言っておいて」


 と言った。


「伝えておきますよ。こんな時間に長グソされちゃ、他のみんなにも迷惑すからね」


 ニヤリと笑い、ひらひらと手を振りながら裏口へと去っていく。そんな安瑛を見送ってから、賄い方の扉を開けた。


「あ、先生、おはようございます」


 かまどまきをくべていた由真が振り向く。亜慈アジー


「先生、もうご出立ですかい。ほんにもう、先生がいなぐなると、金亀楼は火が消えたように寂しいすわ。紫園ももうすぐ出でぐし、なんがなあ……やっとここにも慣れたってのに。ま、仕方ないことですがね」

「なにも戻ってこないってわけじゃない。それよりお願いしたものは」

「ああ、ほれ、ちゃんと包んでおきました」

「ありがとう」


 革袋に詰められたのは、固く焼き締めた菓子に、燻製肉、干酪ペイニルと干した果物だ。果物は胡桃にナツメ椰子、杏。


「こんなに詰めなくても良かったのに」


 革袋を持ちあげると、ずっしりと重い。


「いんや、食いもんはあったほうがええ」

「これでも減ったほうなんですよ、最初はこれの倍くらいあって、さすがに重すぎて先生が大変だからって、私が止めたんですから」


 由真が呆れた表情でいうと、亜慈は照れくさそうに頭をかいた。


「そうだったのか。でもありがとう、亜慈、由真。ありがたく頂戴するよ」

「なんも礼なんか、先生のお戻りを、首を長ぐして待っておりやす」


 紫園は今ごろ水場だろうか。昨夜の今朝のこと、改めて顔を合わせるのが、なんだか気恥ずかしい。そんな藍那に


「もう、先生ったら」


 由真がからかうように言った。


「紫園さんは裏に薪を取りに行ってます。戻ったら、すぐにお見送りに行きますから」

「べ、べつにそんなつもりじゃ……」

「先生、ここはあっしがやるので、由真と紫園に見送らせてやってください。あっしは見送りとか、湿っぽいのはどうも苦手で」

「そうそう、亜慈さん、絶対泣いちゃうよね」

「こら、由真。大人おどなをからがうんじゃね」


 藍那はそこで懐の鏡を思い出した。渡すなら今が良いだろうか。しかし由真の両手は、竈の墨で真っ黒になってしまっていた。そこに下女の一人が顔を出し、


「ああ、先生、ここにいらしたんですね。旦那さまや他のみんなが、先生のお出ましを待っていますよ」

「ああ、そうですか。じゃあ由真、手を洗っていこうか」

「あ、でも旦那さまをお待たせするのも悪いので、先に行っててください」


 裏口に行こうとすると下女が笑った。


「先生、そっちじゃないですよ。みんな、表口で待っています」

「表口?」

「ええ、旦那さまがね、表口からお見送りするようにって」


 つまりそれは、杷萬ハマンが藍那を《雇われ用心棒》としてではなく、《友人》として扱っているということだ。


「先生、よがっだじゃねえすか」


 振り返れば、賄い方の入り口から身を乗り出した亜慈が、目尻を下げて言った。


「もう先生は、ここになぐちゃならねえお人だ。あっしもここから、旅の無事を祈ってまさ。ほら由真、さっさと手え拭いて、先生と一緒に行げ」

「は、はい。先生、私も」


 表口では燈火が灯され、杷萬の他に圓湖マルコ苫栖トマスら男衆たち、世話になった下女たちが揃っていた。意外なことに璃娃リーアもいる。藍那の顔を見ると、恥ずかしそうに頭を下げた。


「こんなに大勢で見送らなくても……」


 困惑する藍那に圓湖が言った。


「先生はご存じないかもしれませんがね、ここら辺じゃ、大勢で見送ると無事に戻ってこられるって、縁起担ぎがあるんでさ」

「先生の変わりの用心棒を、いま口入れ屋に探してもらっていますよ。ま、見つかるまでは柴門や安瑛に頑張ってもらいますわ」


 杷萬はそう言って眉根を寄せ、片手に掴んだ袋を差し出す。


「お預かりしていた路銀、たしかに渡しましたよ。それとこれを」


 懐から出されたのは、丸められた羊皮紙の書簡である。路銀をしまうついでに開いてみると、両替商あての紹介状であった。杷萬の署名とともに、藍那が希望する金を用立てする旨が書かれてある。


「これは」

「もし金に困るようなことがあれば、これを両替商へ。言い値で貸してくれるはずです。名だたる金亀楼の楼主が保証人なら、断る相手はおらんでしょうな」

「そんな、そこまでしてもらっては」

「もちろん、借りた金は先生に返してもらいますがね」


 杷萬の返しに周囲がどっと笑う。そのとき


「あ、紫園さん、早く」


 由真の呼びかけに、つい反応してしまった。賄い方に続く廊下から、紫園が小走りに駆け寄ってくる。意識しているつもりもないのに、頬が熱くなるのを覚えた。


「先生……」

「あ、ああ、うん。い、行ってくる……から……」


 伝えたいことはたくさんあるはずなのに、一握りほどの言葉すら出てこない。そんな二人をからかうように


「もう、紫園ったら、そんなに名残惜しいんなら、一緒に行けばいいのにさ」


 下女の一人が言うと、もう一人も


「そうそう、留守ちゅう先生のことばかり考えて、使い物にならなくなっても困るしねえ」


 訳知り顔でうなずいた。からかわれた紫園の顔がみるみるうちに赤くなり、それを見ていた藍那もうつむいてしまう。


「大丈夫ですよ、先生。紫園さんのことは、私たちがちゃあんと面倒見ますから」


 由真が明るい口調で助け船を出し、手のひらで胸元を叩く。


「だから、安心して果たしてくださいね。蔵人さんとのお約束」

「うん」


 しかし、肝心のモノがまだ来ていない。いや人というべきか。杷萬の方へ向き直り、訊ねた。


「その、お嬢さまは、見送りには?」

「ああ、どうも支度で手間取っているようですわ。たかが見送りなんですがねえ。申し訳ないですが、待ってやってください。まもなく来るはずです」

「そうですか」


 それならばと、懐に忍ばせた油紙の包みを取り出し、由真に差し出した。差し出された方の由真はキョトンとした表情で、藍那と包みを交互に見る。


「先生、これは?」

「ああ、由真、これね――」


 そのとき、表口の扉がはげしく叩かれる。杷萬の目配せで圓湖が声をかけると、答えたのは門番の吾力アリであった。

 鍵を開けると、血相変えて飛び込んでくる。


「だ、旦那さま、大変です!け、警邏の方々が、旦那さまにお会いしたいと……」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ