表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
61/72

祭りの終わり

「なんだか全く実感が湧きません。そう言われても、まるで、他人のことみたいで」

瑚々(ココ)のことも、なにも思い出せないんだね」

「ぜんぜん、なにも……。たしかに僕は絵が得意ですが、でも……だけど……」


 そう言って首を振った。


「紫園、やっぱりあなたは金亀楼にいるべきじゃない。前にあなたに言ったね、人には才に応じた道があるって。でも今はそれだけじゃないの。このまま金亀楼にいれば、いつかあなたの過去を知る人間が、せっかく築いてきた全てを壊してしまうような気がする。だから……」

「先生……」

「学校に入ってしまえば、少なくとも、播帑ハリドと関係のあったやからと出会うことはない。もちろん、まるきり安心とは言えないけど。迭戈ディエゴは画家だったから、同業で知っている人間はいるかも。でもね、それでも……紫園が紫園として生きていくには、これが一番いい方法だと思う」


 いつまで紫園が紫園でいられるか。そのことすら分からない。由真の言ったとおり、ある日すべてを思い出して、なにも告げずに消えてしまうのかもしれない。

 だけど、それでも――。


「絵の修業をして、そこで才を思うままに発揮できれば、もう誰も紫園の過去など問題にしない。そうして初めて、迭戈ディエゴではなく紫園として、本当の意味で生き直せるんじゃないかって――」


 藍那は紫園から視線をそらし、紅籠街のある方へと顔を向けた。


「上手くやれるかなんて心配しなくていい。辛くなったら、私のところに戻ってくればいいだけだもの。前にも言ったよね、私は紫園の帰る場所だって」


 もし、本当に迭戈ディエゴが剣を盗んだ犯人だったとしたら。屋敷に火を放ち、大火の原因を作ったのだとしたら。

 そしてその事実を、紫園が知ってしまう時が来たら。

 罪と贖罪がどれほど大きく辛かろうが構わない。ともに背負いたいのだ――藍那は心のなかで、紫園にそう告げた。


「僕は……」


 声がかすかに震えていた。


「僕は先生のことが好きです。心からお慕いしています……金亀楼の中庭で、僕を助けてくれたときから、ずっと……。でも今の僕はとてもじゃないけど、先生と釣り合いなんて取れない。過去も、本当の名前もなくて、取り柄っていえば、絵がすこしばかり上手く描けるくらいで」


 紫の瞳が、こちらをまっすぐに見つめる。真摯な視線を受け止め、藍那は欄干をきつく握りしめた。そうしないと、どこかへ飛ばされていきそうだった。心臓がうるさく鳴って、足元がふわふわと覚束なくて。


「だから、先生のお傍にいられるだけでいい、それ以上は何も望まない――そう思ってました。画学校のお話も嬉しかったけど、怖かった。先生と離れているうちに、先生が僕のことを忘れてしまうんじゃないかって……。そんなことになるくらいなら、一生、このまま金亀楼の下働きでいいって――」


 でも、と紫園は続けた。


「噴水でひっぱたかれた時、分かったんです。もうひとりの僕は、そんな僕の臆病さを笑っているんだって。僕が本当に言いたいことやしたいことを、あいつは先生に……」


 噴水で交わした口づけが、まざまざと記憶によみがえる。触れ合った舌の感触と、交わした唾液の甘さ。体の奥が熱くなり、藍那は無言でうつむいた。


「先生に由真を誘うように言われた時、ちゃんと伝えるべきでした。僕が好きなのは、先生なんだって。でも拒絶されるのが怖かった。そのことで由真まで傷つけてしまって……。由真にさんざん叱られて、それでようやく目が覚めました」


 紫園の怯懦きょうだを笑うことなど出来なかった。卑怯なのは、自分も同じだったのだから。


「だから決めました。僕は……もう逃げません」

「紫園……」

「必ず、先生にふさわしい男になってみせます。だから昨日、慈衛堵ジェイドさんにお願いしたんです。画学校に入るために、どうか保証人になってほしいって」


 驚きのあまり言葉を失った。

 そうだったのか。昨日、紫園の姿がどこにもなかったのは、慈衛堵の屋敷を訪ねていたせいだったのか。藍那はようやく全てを理解した。

 愛紗は知っていたのだろう。おそらく上良と由真も。


「慈衛堵さんは、なんて?」

「驚いていましたが、快く引き受けてくださいました。僕が描いた絵をたいそう褒めてくれて、できる限りの応援をしてくださるって。明日、慈衛堵さんと王宮へ出向く約束になっています。先生の出立を見送ったら、すぐ」

「試験を、受けるんだね」

「はい」

「そうだったんだ……。なんか、すごく安心した。でも杷萬ハマンは?」

「旦那さまは『まあそれがお前さんの、一番の落とし所だろうな』って」

「そうか。なんか杷萬らしいね」


 笑ってから、指先で目尻を拭う。どうしてか涙が滲んでいた。


「良かった。これで私も心置きなく荒羅塔アララトに行ける。蔵人との約束を果たせるよ」

「先生がお戻りになったときには、僕はもう金亀楼に居ないでしょう。今度いつお会いできるか分からないのに、こんなことを言うのは、無責任かもしれませんが」


 欄干に置かれた藍那の手に、紫園の手が重なった。


「僕がはれて宮廷画家になれたら、その……僕の妻に、なってくれませんか」


 * * *


 湧き上がる歓喜が、全身を震わせる。言うべき言葉が見つからず、紫園の手を握り返したまま、無言でまばたきを繰り返した。


「先生、あの……」

「わ、わたし……」


 ようやく吐き出した言葉が、紫園のそれに重なる。


「私、これは内緒だったんだけど……杷萬に金亀楼を継がないかって、言われてたの」


 今度は紫園が息をのむ番だった。


「先生が、金亀楼を……ですか?」

「返事は、旅から戻ってからでいいって。でも話を受けようと思っている。由真や紫園やお嬢さまの、帰る場所になれるしね」

「先生……」

「だから、私は……ずっと金亀楼で、紫園のこと、待ってるから」


 握りあった手のひらがほどかれる。きつく藍那の身体を抱いた紫園が、髪に顔をうずめて頬ずりする。目を閉じた藍那の耳に、紫園の鼓動が聞こえた。重なり合うように響く、自分の鼓動も。

 遠くで夕礼拝の鐘が鳴った。抱いた腕をゆるめ


「先生……」


 口づけようとした紫園に、藍那は笑う。


「そこは名前で言ってほしい」

「あ……そうですね」


 照れ笑いを浮かべたあと、こほんと咳払いをして、真面目な面持ちになった。


「藍那、その……愛してます。それと、これ……」


 懐から、手のひらほどの包みを出し、渡した。

 包みを開くと、なかから現れたのは小さな布留め(ブロス)だった。銀で鬱金香ラーレを型どり、花びらには赤の、葉には緑の、七宝細工がきらめく。


「これ……」

「どうか旅のあいだ、これを見て、僕のことを思い出してください」


 手のひらにのせて眺めた。赤や緑の硝子が光を受け、宝石のように輝く。わずかにかしげるたび、鮮やかな色をまとった光が、水面みなものように揺らめいた。


「ありがとう……」

「今のところ、僕が先生に……じゃなくて、藍那にあげられるのはこれくらいで、」

「璃凜……」

「え?」

「璃凜っていうの、私の、本当の名前……」


 思い出した。赤い鬱金香ラーレの花言葉は、《愛の告白》だ。


「訳あって故郷を飛び出したとき、本当の名前は捨てたの。藍那は死んだ母の名前。それからずっと、藍那として生きてきた。元の名前なんて、自分ですら忘れかけていた。でも紫園……、あなただけには、本当の私を知ってほしい」


 閉じた眼裏まなうらに、赤と緑の閃光が尾を引いた。


 愛しています璃凜――。


 口づけのあとで囁かれた言葉を、至福のなかで聞く。吹きすさぶ風が、二人の長衣をはためかせる。それなのに少しも寒くはなかった。


 * * *


 藍那が先に金亀楼に戻ることにした。裏口から入ると、圓湖マルコとばったり出くわす。見慣れぬ女の姿に警戒し、いったいここになんの用かと訊ねてきた。

 二言三言、言葉をかわして、ようやく藍那だと分かったらしい。愕然としたあと、


「こ、これは、先生でありましたか」


 慌てて姿勢を正した。


「柴門は帰ってる?」


 なにより訊ねたいのはそれだ。しかし圓湖は首を横に振った。


「いえ、奴さん、今日は真夜中まで戻ってきませんよ」

「そうなの?」

「最近、ほかの妓楼みせで、馴染みの娘が出来たらしいんすよ。今日はやっと取れた休みですからね。終祭の鐘をその娘と聞くらしいんで」

「あ……そう……」


 なんだか拍子抜けしてしまった。終祭の鐘が鳴るのは、真夜中の十二時。好いた相手と一緒に聞くと、めでたく結ばれるという言い伝えがある。


「分かった。ありがとう」


 そう言って踵を返し、自室へと向かう。


(やっぱり、いつもの姿に戻ってから帰楼すべきだったかな)


 後悔してももう遅い。

 裏口から自室まではそれほど距離はないが、誰かと顔を合わせるたび、不審がられたり、驚かれたりする。ようやく部屋に戻れると、安堵のため息をついた。


 ふと寝台に目をやると、畳まれた服が置かれてある。

 あらためると、愛紗のところに置いてきた麻の長衣だった。どうやら由真は先に戻ったらしい。それならこの結髪けっぱつも、由真に解いてもらうとしよう。慣れない自分がやると、ひどいことになりそうだった。


 外はすでに夕闇が迫っている。

 祭りも最終日を迎えると、日が落ちるのが目に見えて早い。寝台に腰掛けて、考えた。


柴門シモンのことは、やはり考えすぎだったのか)


 尾行した男が韋蛮イヴァンという確証もなかった。火傷の痕が目印だが、顔に火傷をおった男など、他にもいるだろう。ましてや大火のあと、泉李から帝都へと、多くの難民が流れ込んだという。


(そういえば……)


 ふと気がついた。そろそろ由真が夕餉を運んでくる頃合いだが、あいにく外で済ませている。賄い方へ出向いて、そのことを伝えなければならないだろう。由真に懐の鏡も渡したかった。


(あとは、お嬢さまがこっちに戻ってきているかどうか……)


 寝台から立ち上がったところに、扉が三度叩かれる。てっきり由真かと思い、


「ああ、お入り。ごめんね、実は――」


 しかし扉を開け、顔をのぞかせたのはセツであった。驚いたことに、由真に預けたはずの天星羅を持参している。他に小脇にひとつ、包みを抱えていた。

 藍那の姿を見るなり、嬉しそうに顔をほころばせる。


「こんばんは、先生。おやまあ、本当にお綺麗ですこと、ほんとうに」

「あ、ああ、こんばんは……。なにか、御用ですか?」

「由真は賄い方が忙しくて、今日はこっちに来られないそうですよ。これを先生に渡してほしいそうです。それからお嬢さまに、先生の御髪おぐしを解くよう、仰せつかっておりまして」

「お嬢さまが?」

「はい。お嬢さまは、さきほどお戻りになりまして。旦那さまと一緒にお出かけになりました。祝福をいただきに、《曾妃耶さま》へと。そのあと観劇をされるそうで、お戻りになるのは、真夜中近くになりそうです」

「そう……」

「お嬢さまから言付けを預かっておりますが、『例のものは明日の朝に。どうかご安心を』とのことです」

「そうか。ありがとう」


 祭りが終われば慈衛堵の屋敷に戻り、行儀見習いののち、後宮へと上がる。父親とゆっくり過ごせる時間は、しばらくないだろう。普段は父を疎んじていながら、心底では慕っている。そんな秧真ナエマを微笑ましく思えた。


「杷萬ともしばらくお別れだものね」

「ええ、お嬢さまも先生も、いっぺんにお屋敷からいなくなってしまうなんて」


 袖口で涙を拭った節に、藍那は笑う。


「大丈夫です。お嬢さまはともかく、私は用事を済ませたら、すぐに戻ってきますから」

「首を長くして待っておりますわ。ささ、いま御髪をほどきますわね」


 抱えた包みを文机に置いて、広げた。なかには櫛と刷毛が一揃い、


「普段お嬢さまがつかっているお道具ですが」


 そう言いながら、椅子に座らせた藍那の髪をほどき始める。なんだか懐かしかった。昔はこうして毎晩、寝る前に圓奼マルタに髪をすいてもらったものだ。


「では先生、おやすみなさい。私は明日、お見送りはしませんよ。出立に涙は不吉ですからね。ではでは」


 髪をすき終わると、節はそう言って出ていった。夜着に着替えると、寝台の下から背嚢と旅装一式を取り出す。準備はすでに万端。あとは、杷萬に預けた路銀を受け取るだけだった。


(それと、これね)


 手のひらに収めた銀の布留め(ブロス)を、外套に載せた。目を引く装飾品をつけることは、旅では禁物だ。しかし外から分からぬよう、外套の裏に留めればいい。


 それらを寝台の下へと再び押し込んだ。今度はずっと奥の方から、黒い木箱を取り出す。この金亀楼の楼主に収まれば、身だしなみも仕事のひとつとなるだろう。無用の長物としか思わなかったが、今となってはありがたい。


 蓋に積もった埃を払い、文机の上、由真に贈る包みの隣へと置いた。そのついでに、卓上の油燈ラムバを消す。

 あと数刻で祭りは終わる。金亀楼も宴が終わり、客が娼妓たちと部屋へ引き上げていく。そして……。


 鼓動がはやさを増した。寝台に腰を下ろし、その時を今か今かと待つ。

 もう少し、あと少し――。

 寝台脇の燭台が、炎を揺らす。短くなってしまった蝋燭が、最後の輝きとばかりに、大きくなった炎であたりを照らした。


 やがて扉の向こう、廊下の端から、こちらへと向かう足音を聞く。

 慎重な足取りで、彼は寄木細工タラセアの床を一歩一歩踏む。

 約束のとおり、扉が五回叩かれた。


「入って」


 声が震える。細く開かれた扉から、すべるように紫園が入ってきた。

 期待と不安、喜びと怖れ。相反あいはんする感情がもつれた面持ちで、紫園は眼前の女を無言で見つめる。

 かたわらの燭台を璃凜は吹き消した。


「こっちへ来て」


 まもなく終祭の鐘が時を告げた。

 しかし紫園と璃凜の耳に、そのはもはや届かない。



 第一部最終章へと続く



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ