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藍那

 由真は明らかに怒っていた。両手を腰に当て、藍那を無言で見上げる。全身に憤怒ふんぬをまとう姿は、まるで狂乱の戦女神《死屍神(シシガミ)》だ。こんなに怒った由真を見るのは初めてだった。


「どうして私がここに来たか、先生、もうお分かりですよね」


 たじろぐ藍那を見据え、由真が口を開く。


「どうして……って」

「とぼけないでください。紫園さんに、私をお祭りに誘うように言いましたよね」

「う……うん……」


 ではやはり、紫園は由真を誘ったのだ。ぎこちなくうなずくと、由真は大きなため息をついて、かぶりを振った。


「どうして……」


 怒りで震えた語尾を、いったん飲みこむ。それから息を大きく吸って


「どうしてそんな勝手なことするんですかっ!」


 大声で怒鳴った。


「わたし、先生にお願いしました? 紫園さんに誘うように言ってくださいって。言ってませんよね? それなのに、なんでそんな余計なことをするんですか?」

「で……でも……」

「私が紫園さんに誘われて喜ぶとでも? 言っておきますけど、私はお二人のあいだのやりとりなんて知りません。でも紫園さんが私を誘うなんて、どう考えても先生が一枚噛んでいるに決まってますよね。わたし、それほどバカじゃないです」

「由真……」

「紫園さんは、ずっと先生のことを誘いたいって思ってたのに。それなのに……」


 由真は藍那を睨みつける。


「そんな紫園さんの気持ちに向き合うこともしないで、逃げるどころか、私を代わりにあてがうなんて、先生は卑怯です」


 思い切り頬を叩かれた気分だった。全身から血の気が引いて、足が小刻みに震える。

 由真の言葉は正鵠せいこくを射ていた。結局自分は逃げていただけなのだろう。紫園からも自分からも。逃げた先が、由真の幸せを願うという偽善だったのか。


「私は……紫園さんのことが好きです」


 こぶしを握り、由真は視線を足元へ落とした。


「最初はお兄さんみたいでした。でも今は……一人の男性としてお慕いしています。だけど、だけど……好きだからこそ、分かっちゃうんです。紫園さんが先生しか見ていないって。私の入る隙間なんて、これっぽっちもないって。

 でもそれでも良かったんです。だって、私は先生のことも大好きで、できればお二人に幸せになってほしかった。それなのに……」


 顔を上げた目には、涙がいっぱいに溜まっていた。


「先生にそんな真似されて、屈辱ですし、迷惑です。私は紫園さんのことも好きだけど、先生のことも好きなのに。それなのに、わたし……どうしたらいいか……」


 顔を両手で覆い、肩を震わせて泣き始める。

 泣きじゃくる由真を前に、藍那は情けなくていたたまれなかった。穴があったら入って、そのまま由真に埋めてもらいたいくらいだ。


 何のことはない、今でも自分は世間知らずのままであった。秧真のことを笑えない。苦労もして、人の心の機微にも、すこしは通じていると思っていた。それもとんだ勘違いだったというわけだ。


「ごめん由真、本当にごめんね」


 由真の肩を抱きしめる。泣きじゃくるたび震える頭に、額を寄せた。


「由真の言うとおりね、私は卑怯だった。だからもう泣かないで。お願いだから」

「でも……せんせい……が……」

「馬鹿だったね。由真の気持ちも、もっと考えるべきだったのに。だから許してほしいの。ね、お願い、由真の言うこと、何でも聞くから」

「本当ですか?」


 泣きじゃくっていたのが嘘のように、由真がすかさず顔を上げる。泣きはらし赤くなっていたが、目には不敵な光が浮かんでいた。


「ほんとうに、私の言うこと、なんでも聞いてくださるんですよね」

「う、うん……」

「それじゃあ、明日、朝ごはん食べたら一緒に出かけてもらいますから」

「出かけるって……お祭りに?」

「それは内緒です。では先生、おやすみなさい。明日が楽しみですね」


 さっきまでの泣き顔が嘘のように、由真は笑って部屋を出ていった。なにやら狐につままれたような心持ちで、その場にしばし立ち尽くす。

 その翌日。

 朝食を済ませ、泊まった客たちを送り出して、由真とでかけた。連れて行かれた先は、あろうことか慈衛堵ジェイドの屋敷である。


 あらかじめ来訪を告げてあったのだろう。守衛は由真と藍那を見て、にこやかに門扉を開いた。広い階段式の前庭ぜんていを通って、まっすぐ表玄関へと向かう。


「すごいですねえ、先生からお話を伺ってましたけど、とてもご立派な……」


 由真は目を丸くして、そう感心する。来客用の扉をくぐった先で、上良カミラが待ってくれていた。二人を見ると嬉しそうにほほえみ、


「いらっしゃい、由真。懐かしいわ。しばらく見ないうちに、ずいぶんと背が伸びたわね」


 そう言って由真の手をとる。


「お久しぶりです、上良さん。今日は例の件で、先生をこのとおり」

「ええ、分かっているわ。先生、お部屋で愛紗さまがお待ちでございます」


 部屋へ向かう途中、回廊から自慢の庭園を眺めることができる。金亀楼にも劣らない見事な噴水と、手入れされた季節の花々。涼やかな風にのって、秋バラの芳香が鼻先をくすぐる。色を変え始めた葉むらの、朱紅あかや黄色が目に鮮やかだった。


「きれいですねえ。まるで王宮にいるみたい」


 由真は目を輝かせ、うっとりする。いっぽう隣で歩く藍那はそれどころではない。由真が上良に告げた《例の件》という言葉が、気になって仕方がなかった。なんだか嫌な予感がする。


「あら、いらっしゃい、藍那、由真」


 女部屋に入ると、長椅子に寝そべる愛紗が右手を差し出した。


「由真、ほんとうに久しぶり。もっとこっちへ来て、よく顔を見せて。なんだかとっても綺麗になって」

「愛紗さま、お久しぶりです。この度はご懐妊おめでとうございます」


 手を握りあい、再会を喜び合う。由真に微笑む愛紗は、相変わらず美しい。以前会ったときより少し痩せたようだ。それには由真も気づいたらしく、


「愛紗さま、お痩せになったのではないですか?」


 と訊ねた。


「ええ、ここ最近、すこし具合がすぐれないの。ただの悪阻だけど、旦那さまがとても心配なさって……。お医者さまが言うには、なるべく安静にするようにって」


 下腹を愛おしそうに撫でると、愛紗は視線を上げた。


「それじゃあ藍那、さっそく準備に取り掛かりましょ」

「準備?」

「先生、先生は私の言うことをなんでも聞いてくださるって、そうおっしゃいましたよね」


 怪訝な表情の藍那に、由真は言った。


「これから愛紗さまに、先生を見違えるくらいお綺麗にしていただきます。そして紫園さんと、二人でお祭りに行ってください」

「は?」


 間の抜けた返事が出た。視線を向けると、愛紗は楽しそうに首を傾げる。


「良かったわねえ、藍那。あなたにもようやく春がきたわね」

「で、でも……わ、わたしは……」

「約束ですよ、先生。では愛紗さま、よろしくおねがい致します」

「ええ、大船に乗ったつもりで任せてちょうだいな」


 嬉々と話し合う二人を前に、絶句した。呆然としていると、上良カミラに黙って腕を取られる。


 ――こうなったら、もう観念してくださいな。


 無言のうちにそう言われ、そのまま浴場へずるずると引きずられていった。


 * * *


 浴場では垢すりの女が待ち構えていた。まくりあげた袖からにょっきりと、丸太のような腕がのびる。帷子かたびらに着替えた藍那を見てニヤリと笑った。


「さあ先生。さっぱりと、垢ひとつないよう、きれいにして差し上げますからね」


 そう張り切る彼女に、ふやけるほど湯にけられた。それから全身を力強くこすられる。気分はまさに、羽をむしられる鶏だ。再び湯にひたされ、次は髪や爪をごしごしと洗われた。


 三度みたび湯から上がると、全身に香油を塗られ、ようやく浴室から開放される。だがこれで終わったわけではない。湯帷子ゆかたびらを着せられ、隣室で待機していた上良と若い次女二人に、化粧を施された。


 上良は愛紗に対するのと同じ、職人的熱心さでことにあたった。

 眉は余分な毛を抜き、眉墨をひく。まなじりと頬と唇に、紅を入れる。そのあいだ、水気をぬぐわれた髪は徐々に乾いて、丹念に櫛でかれた。


 そのかん、藍那はようやく置かれた状況を理解し、おののいていた。上良が


「先生の御髪おぐし、いちど結って差し上げたいと思っていたのですけど。まさかそれが本当になるなんて。由真に感謝ですわね」


 などと言っているが、冗談ではない。これから紫園に会わなくてはならないのだ。いったい、どんな顔をすればいいのだろう。彼は化粧をした自分を見て、なんて思うのだろうか。


 考えれば考えるほど、鼓動が早まり、身体の芯が熱くなる。そしてここ数日の出来事が、走馬灯のように、次から次へと頭をよぎった。

 あの夜の口づけと、触れ合った舌先の感触。手のひらにのこった痛みと、見開かれた紫の双眸。そして、由真を誘うよう告げたときの……。


 ――それが先生の望むことでしたら、仰るとおりにします。僕は……先生の、弟子ですから……。


 全てがぐるぐると脳裏を駆けめぐって、握りしめた手に汗がにじんだ。

 そんな藍那をよそに、上良の器用な手は勤勉に動き続けた。こうがいを使って後ろ髪のひと束を高く結い上げ、その他は長く垂らす。ちかごろ、若い娘たちが好んでいる《噴水チェシュメ》という型だ。


「さあ、出来上がりましたよ」


 上良がそう言って、藍那を椅子から立ち上がらせた。背後に控えていた侍女二人が、長衣と袴をそれぞれ抱えて膝をつく。

 鬱金ウコン色の長衣と白袴は、花蓮が祭りのためにと仕立ててくれたものだ。そして、刺繍のほどこされた白帯も。


 湯帷子を脱いで下着をつけ、白袴と長衣をまとう。絹地の長衣など、身につけたのは何年ぶりだろう。最後は母のための喪服だったか。

 白帯の紐を背後で上良が結んだ。愛紗が用意してくれた靴を履くと、完成である。


「ほんとうにお綺麗ですわ、先生」


 頭のてっぺんから爪先まで眺め、上良は満足そうに言った。


「このご様子だと、街で誰かに会ってもわからないですよ。紫園はさぞ驚くでしょうね。そうそう鏡をご覧になります?」


 どうしようかとしばし迷ってからうなずいた。銀色の手鏡を受け取り、腹を決めて覗き込む。


「……」


 絶句した。

 言葉を失った。

 そう――。


 鏡に見たそれは、記憶のなかの母、《藍那》の面影そのものであった。




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