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璃凜

 寝台に横になっているうち、眠っていたらしい。

 誰かが部屋に入る気配で目が覚めた。はじめは由真かと思いきや、紫園だと気がついたときには、ガバと跳ね起きていた。


「せ、先生、目が覚めたのですか?」


 油燈ラムバの明かりのなか、紫園は目を丸くした。両手に夕餉の膳を抱えている。温かな香辛料と魚介の匂い。しかし、なぜか食欲を全く感じなかった。

 眠っている間に由真が灯を入れてくれたらしい。窓の外は闇が濃くなり、夕刻をとうに過ぎているようだった。


「今、何時?」

「さっき八時の鐘がなりました。由真が先生の様子を見てきてほしいって。あいにく、急ぎの手伝いが入って来られないんです」

「そう……」


 紫園が床に、食事用の敷布を広げた。膳を置くと、心配そうに見上げる。


「先生、なんだか、お疲れになっているようですが」

「そうかな」

「顔色が優れません。具合が悪いのでしたら、旦那さまに言ってお薬を」

「いや、いいんだ。原因は分かっている」


 怪訝な表情の紫園に、藍那は力なく笑った。


「少し、無理をしすぎたようだ。仕方ないことだったのだけどね」


 紫園は立ち上がり、寝台へ歩み寄ると遠慮がちに腰掛けた。思慮深い眼差しで、藍那の目を覗き込む。


「話してくれませんか? もし僕にできることがあれば――」


 藍那は晴夫セイフの工房であったことを話した。

 工房が、以前自分たちを襲った連中に踏み込まれたこと。彼らの狙いは、藍那が研ぎに出した天星羅。そのために野明ノアが命を落としたこと。彼らに偽物の天星羅を渡したこと。

 そして身を守るため、晴夫が水蛙功の奥義で仮死状態になったこと。それを、自分の内勁で目覚めさせたこと。


「どうやらその時、自分の限界を超えてしまったようでね。晴夫を目覚めさせるには仕方がなかったが、今になって、身体にきているってわけだ」

「それで……晴夫さんはどうしたんです?」

「連中に渡した偽物だが、ある仕掛けが施してあってね。昼間、萬貨バンカ通りで爆発があっただろう? あれは晴夫の仕掛けが起こしたことなんだ。それで時間稼ぎをしている間、弟子と一緒に、さっさと帝都を離れたよ。今はもう、城壁のはるか向こうだろうね」

「そんな……そんなことがあったなんて」

「お前も連れて行こうか迷ったんだけど。でも晴夫を襲った奴らが、私が居ない間に金亀楼に来るかもしれない。そうなったらお前を頼るしかない……そう思ってね」

「そんな……僕は……」


 困惑する紫園に、藍那は微笑む。


「一度、私を助けてくれたんだ。いざとなったらお前は誰より強い。だから……」


 突然激しいめまいに襲われた。ぐらぐらと視界が回り、一瞬、意識が飛ぶ。

 気がつくと、紫園に肩を抱かれ、きつく左手を握られていた。


「先生……。先生に足りない内勁を僕が注ぎます。上手くできるか分からないけど」


 肩を抱いた手が、思いのほか力強かった。

 温かく、大きなものに包まれている感触が心地いい。目を閉じたまま、すべてを彼に委ねる。昔、怖い夢を見て泣いた夜、圓奼マルタに抱きしめてもらった。そのときと同じ安堵を覚えながら。


 重ねた手のひらが熱を帯びた。

 紫園から伝わる勁が、優しく藍那の内側を満たしていく。活力が身体の隅々へと流れ、冷たくなっていた全身を温めた。


 ふいに。


 みぞおちの奥から、寂寞とも苦しみともつかないものが湧き上がる。

 堰を切った感情の波に、抗うことが出来なかった。なにが辛いのか、なにが苦しいのか。それすら分からないまま、藍那の目から涙が溢れ出し、紫園の指へと降りかかる。

 冷たい感触に、彼がはっと息をのんだ。


「先生……お辛いのですか?」


 訊ねた紫園にだまって首をふった。大きく息を吸って吐き、


「大丈夫、辛くない……」


 そう答える。


「なんだろう。紫園の内勁に満たされると、とても安心する。だから、なんだかホッとして、それで涙が出てしまったんだ。……おかしいね」

「おかしくなんかないです。僕は先生の弟子ですから……だから……」


 肩を抱く手のひらに、力がこもった。


「先生が辛いときも、誰にも見せない涙を見せるときも、こうして傍にいたい――そう思っています」

「紫園……」


 目を開け、顔を上げる。紫色の双眸と視線があう。刹那。

 自分と紫園の時間が混ざり合い、小さな粒となって、手のひらからこぼれ落ちていくのが分かった。

 小さな粒たちは、温かな光の世界へ吸い込まれていく。まるでずっと以前から約束されていたかのように。


 そこでは言葉などなくとも、全てを分かり合えた。過去も未来も無意味だった。

 二人は手のひらを握り合い、戸惑い、息を潜めながら、そんな場所に立っていた

 無言の時間がすぎるなか、どちらからともなく、ゆっくりと唇が近づいて――、


 ぐうううー。


 藍那の腹の虫が大きな音を立てた。

 慌てて紫園から身体を引き剥がす。両手で抑えたがすでに遅い。顔に血がのぼるのが分かった。恥ずかしくてたまらず、今すぐどこかへ消えてしまいたいくらいだ。

 それなのに


 ぐうううー。


 腹の虫は派手に主張を続ける。


「ちょ、ちょっと、ばか!」


 本気で腹を立てた。紫園はそんな藍那にあっけにとられ、やがてくすくすと笑い始める。


「良かった、先生が元気になった証拠です。そうだ、晩ごはんを食べたほうがいいですよ。さ、横になってください。僕がお手伝いしますから」

「いいよ、自分で食べられる……」

「まだ無理はなさらないほうがいいです。いま倒しますから」

「う、うん」


 紫園は藍那を横たわらせ、掛け布で覆う。夕餉の煮込みを手に、脇に椅子をおいて腰掛けた。さじですくったものを


「ちょうどいい具合に冷めてますよ」


 そう言って、藍那の口元へ運ぶ。まるで子供扱いだが、それが不思議と心地いい。

 ひとさじ、またひとさじと口元へ運ばれた。結局皿を空にして、ほどなく、急激な睡魔が襲ってくる。


「先生がおやすみになるまで、僕が傍にいますから。どうか安心なさってください」


 そう告げた紫園の声も、どこか夢のよう。

 いつのまにか、藍那は深い眠りに落ちていった。


 * * *


 互いに一糸まとわぬ姿だった。触れ合う肌はなめらかで温かい。細い体は一見華奢であったが、皮膚の下は、しなやかな強さに満ちていた。


 肩に彼の指先がふれ、胸元へと降りていく。おずおずと、慎重に。

 遠慮がちな仕草に、まぶたを閉じていても表情が分かる。まるで壊れ物を扱うような、真面目くさった顔だ。それでいて、湧き上がる官能の喜びに頬は紅潮し、紫色の双眸は潤んでいる。


 伸ばした指先が絡め取られた。唇を押し当てられ、舌先でくすぐられる。それだけで甘い衝動に貫かれ、熱い吐息が喉の奥から漏れた。

 耳元で囁かれる。


《先生、きれいです》

《やだ……》


 羞恥心で顔を背けた。心臓が早鐘をうち、肌が燃えるように熱い。そんな火照る身体のあちこちを、彼の唇が愛撫した。

 耳たぶ、首筋、胸元から乳房、それから――。戸惑いながら、肉体は正直に反応する。押し流されることが怖くて、必死で彼の手を求め、握りしめた。


《紫園……》


 名前を呼んだ。こうなることをどこかで分かっていた。いつの日からか、彼を弟子ではなく、一人の異性としてみている自分がいた。そんな感情を自分に許せなかった。だから、あくまで師であり続けようとした。だから……。

 暗闇のなか、彼が微笑む。大きな手のひらが頬を包んだ。


《先生、好きです。心から愛してます》


 身体が寄せられ、肌が再び隙間なく合わせられる。互いに唇を求め、舌先を触れ合わせた。


《お願い……名前で読んで……》


 喘ぎながらささやき返す。耳たぶが舌先でなぞられた。くすぐったくて藍那は笑ってしまう。そして吐息とともに、優しい響きが流れ込んでくる。


《藍那……愛してる……》

《そうじゃない……私の……本当の名前……》


 故郷を出たときに捨てた名前だった。もう二度と誰かに呼ばれることもないと思っていた。

 たとえ自分を含めた世界が、この名前を忘れ去ったとしても。

 今は……今だけはこの名前で呼んでほしい。

 彼に、初めて自分が愛した――、

 

 ――璃凜。


 聞き覚えのある声に身がすくんだ。

 顔を上げると、衝立の影に立ち尽くしている自分がいる。

 寝台脇の燭台が照らすのは、全裸で男にまたがっている母の肢体だ。あのときと同じ、こちらに背を向けている。


 母の下に組み敷かれた男の、濃いすね毛に覆われた足。だが男はぴくりとも動かない。皮膚の色が青白く、まるで死んでいるようだ。


 いや――確実に死んでいる。


 母の頭がゆっくりと動いた。からくり人形のように、少しずつ、おもてがこちらへと向けられる。たじろぎながら、それでも目をそらさずにいると、記憶そのままの美しい母と視線があった。


 ――璃凜。お前も私と同じ過ちを犯すのかい。


 形の良い唇が歪んで、笑った。

 璃凜の答えを待たずに、再び背を向けた母が動き始める。昔はそれの意味するところがわからなかったが、今は違う。


 母は死体を犯しているのだ――。


 理解した途端、言いしれぬ嫌悪が腹のそこからせり上がった。


 ――母さま、やめて……どうかやめてください。


 あえぐように言ったのに、声が出てこない。白い肌が紅潮し、全身を忌まわしい歓喜に震わせている母。やがてその唇から、獣じみた声が溢れ出した。禁忌に酔いしれた、人ならざるものの咆哮だった。


 母の指先が男の太ももに食い込み、肉を裂いていく。男へと身体を倒し、そのまま狂ったように、動くのをやめない。その姿は、屍肉を食らう夜叉そのものだ。


 ――お願い母さま! やめてください! もうやめて!


 自分の悲鳴で目が覚めた。


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