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百年の眠り

「ごめんよ、ちょっと通しておくれ」


 人混みをかき分け、隙間を縫うように、ようやく入り口へとたどり着いた。木戸を叩くと、のぞき窓が開く。明るい栗色の瞳が藍那を認めると、すかさずかんぬきが外される音がした。ひと一人通れる隙間が開けられ、


「先生、急いで入ってきてください」


 波群ハムの声が扉の影から促した。藍那がすべりこむと、急いで扉が閉められる。


「すみません、さっきから野次馬がひどくて。こんな物騒なこと、ここらじゃ珍しいんですよ」

「まあ、そうだろうね。そういや役人は来たのかい」

「今、師匠のところです。お役人も、まず間違いなく死んでいる……って」

「知らない人がそう考えるのも無理ないさ。作業場を見てもいいかな」

「はい」


 作業場は工房の奥、北の裏通りに面している。なかは聞いたとおりの惨状で、素焼き煉瓦を敷き詰めた床に、晴夫が使っていた道具が散らばっていた。


 大槌に小槌、火箸、研ぎ舟に砥石、タガネにヤスリ。室内を見渡すと、左の壁際だけが物が散らかっておらず、その代わり、床が黒く変色していた。どうやら、ここに野明ノアが倒れていたようだ。


「ここは野明を動かした以外、誰も触っていないんだね」

「はい」

「作業場からなくなっていたものは?」

「床に落ちていたものをざっと見てみましたが、なかったです」

「つまり、物盗りが目的ではない」

「ですが、お役人は、師匠が貯めていた金が目当てだろうって」

「そのとおり」


 声のした方へと振り返った。

 見ると、現場に駆けつけた警邏の役人が二人。いずれも藍那に厳しい視線を投げている。片方はつい先日、香良楼が倒壊した現場で藍那を捕らえた男だ。


 帝都の警邏隊は屈強、かつ勇猛果敢で知られている。その強面二人が、苦虫を噛み潰した表情で、仁王立ちになっていた。

 口を開いたのは、先日も世話になったほうだ。


「金亀楼の藍那、またあんたか。最近、随分と物騒な厄介事に縁があるようだな」

「お役目お疲れさまです。別に好きで縁付いているわけでもないのですが」

「ふん、お役目でもないものが、現場をうろうろされてもらっては困るな。ただでさえ、最近のお前はどこか胡散臭い」


 そこに波群が口を挟んだ。


「しかしお役人さま。先生はきのう、師匠に剣を預けなさったんです。ですが、工房じゅうを探しても見つからなくて。ですから先生が、自分で探すためにこうして……」


 波群を役人がにらみつける。その一瞥で縮み上がったらしく、しょんぼりとうなだれてしまった。


「この弟子によれば、晴夫は随分と金を溜め込んでいたらしいな。その金が目当ての強盗だと、こちらでは考えている」

「たしかにそうかも知れませんね。その金は見つかったのですか?」

「台所の床下に隠し場所があったが、埋めていたはずの壺がなかった。これで間違いないだろう?」


 そうなのかと藍那は波群ハムに目で訊ねた。弟子は無言でうなずき、再びうなだれる。


「そうですか。ではおそらく物盗りの線で間違いなさそうですね。もしかしたら、私の剣も盗られてしまったのかもしれません」

「お前の剣が盗られたとは、なんとも気の毒なことだな。盗品が見つかれば、そのなかにあるかもしれん。気を落とさずに待つことだ」


 興味なさそうに髭をなでつけた男へ、藍那は続けた。


「ところで、さきほど医者の填土ハメドのところへ行ってきたのですが、遺体をあらかた調べてしまったので、来てほしいとのことでした。それから、盗られたかもしれない私の剣を、探す許可を頂きたいのですが」

「この弟子のほかは、しばらく立ち入りを禁じているんだがな」


 藍那は懐から小さな袋を取り出し、役人の鼻先へと差し出した。彼は眉をひそめ、面倒そうに受け取り、中身をしらべる。とたんに彼の表情が一変し、満足そうな笑みを浮かべて、懐へと忍ばせた。

 晴夫に支払うはずだった銀鈔十枚。しかし決して無駄にはならないはずだ。


「よかろう、特別に許可してやる。だが剣を探すだけだ、いいな」

「お気遣い痛み入ります」


 役人たちは出ていった。おそらくしばらくは戻ってこないはずだ。


「よし、じゃあ晴夫のところへ行こう」


 波群の返事を待たずにきびすを返し、《診察所》へと向かう。

 昨日剣を交えた場の中央に、彼はいた。服は汚れた長衣のまま。瞑目し、両手のひらをぴったりと、素焼き煉瓦の床に這わせていた。


「これはまた、役人たちは驚いたろうね」

「あの二人で師匠を動かそうとしてましたが、びくともしませんでしたよ」

「水蛙功は内勁で自重を増して、身体を沈墜させる技だ。内勁の達人でなければ、晴夫を動かすのは至難の技だろうね。どれ」


 背中に耳を当てても、心音が聞こえない。四肢は硬直し、触れた皮膚は冷たくなっている。役人や医者が遺体と断じるのも、無理はなかろう。


「しかしおかしいとは思わないかい。昨夜死んだのなら、そろそろ匂い始めてもいいころだ。今日はこのとおり、秋にしては暑いくらいだからね」

「た、たしかに……じゃあ、やっぱり師匠は」

「死んでいないなら、勁の動きがどこかに感じられるはずだ。おそらく体内のどこか一点に、勁を集中させているんだろう。そこを探り当て、目覚めさせるための勁力を注いでやれば――」

「どこか一点って、心臓とかですか?」

「人の身体には、七つの経穴けいけつがある。気の流れる道のことを経絡というんだが、経穴はその要点にあたるのさ。勁を集中させているのは、そのうちのどれかだね。そこを聴勁でさぐり当てる」

「は、はあ……俺にはよく分かんないすが」

「とりあえず、そこにいてくれ。聴勁に意識を集中させるあいだ、どうしたって無防備になるからね。余計な邪魔が入らないよう、それだけ頼むよ」

「分かりました」


 波群が表情を引き締めた。

 藍那は晴夫の背後に回り、膝を折って、背中に手を当てた。目を閉じ、意識を手のひらから晴夫のなかへと潜り込ませる。勁のわずかな気配も漏らさぬよう、極限まで感覚を研ぎ澄ませた。


 息づいているはずの勁の動き。まずは心臓の裏を探った。次に丹田。そこから恥骨、尾骨へと下がったが、何の動きも見られない。


(だとすると、喉から上……)


 喉から眉間、そして頭頂部。この三つの経穴も外れであった。一度意識を引き上げ、背中に当てていた手を外す。立ち上がり、大きく息を吐いた。


「どうですか?」

「経穴を探ってみたけれど、それらしいものは見つからなかった」

「そ、それって……やっぱり死んでるんじゃ」

「さてね。ちょっと試してみようか」


 藍那は佩いていた剣を抜いた。


「先生、な、なにを――」


 驚く波群を尻目に、両手で握りしめたつかを振り上げる。そのまま晴夫の後頭部めがけ、一気に振り下ろした。切っ先が、晴夫を貫くかに見えたその瞬間――


 カッ――――!!!


「――!?」


 波群が息を呑んだ。

 剣尖けんせん禿頭とくとうの手前、紙一枚もない寸前でぴたりと止まっている。まるで、薄い鎧に覆われているように。


「こ、これは?」

「どうだい? これでお前の師匠が生きているって分かったろう」

「は、はい」

「私も今ので分かったことがある。水蛙功の奥義は百年の眠り。勝手に目覚めさせられないよう、こごらせた勁を経穴に隠している。おそらく、晴夫の勁は恥骨のあたりに隠されているはずだ。勁力をぶつけた時、そのあたりに、かすかな動きを感じた」


 波群ハムへ剣を差し出し、再び晴夫の背後へと回った。膝を折って手を腰に当て、目を閉じる。聴勁をつかい、意識をなかへと沈ませた。


 恥骨の経穴は、性器と関連している。だが晴夫はまだ少年の頃に宦官になり、男性器を切り取られた。

 肉体的損傷が経穴に与える影響については、分からないことが多い。経穴に多大な影響を与えるほどの傷を負ったものは、その欠落を補うため、常人とは違う働きをすると聞いたことがある。


 しんと静まり返っていた。

 息を吐き、手のひらから勁を注ぎ込んだ。ゆっくりと、慎重に。凍えた鳥を息で温めるように。経験上、こういうときは焦らないのが一番だ。

 恥骨の経穴が、ほんのかすかな熱を帯びてきた。それはほどなく、規則正しく脈打ち、確かな生命力を伝えてくる。


「よし」


 目を見開き、すかさず立ち上がった。


「今度こそ目覚めてもらうよ、晴夫。ちと荒っぽいけどね!」


 握りしめた右手は平拳。

 地面を穿つほどの勢いをつけ、ありったけの勁を突きに込めた。


 はっ――――!


 一瞬。

 まばゆい光が晴夫の身体を覆う。それはすぐに消え、


「し、師匠!? せ、先生! 師匠が目を――開けて――」


 波群が声を震わせた。

 眠たげな視線が波群と藍那から、天井、床を舐める。


「晴夫、私の声が聞こえる?」


 分厚い唇がにやりと笑った。そして這っていた上体を起こし、


「まったく、ずいぶんと荒っぽい起こし方じゃないか」


 床にどっかりと腰を下ろした。


「師匠!」

「おう波群かい。悪いが水を一杯、持ってきとくれ」

「は、はい」


 波群が《診察所》を出ていくと、藍那は腕を組み、晴夫を見つめる。


「晴夫、ゆうべ、一体何があったのです」


 藍那の問いかけに、晴夫の表情がつかの間消えた。そして引きつったような笑いを、口元に浮かべる。


「は、何があったって? それはそうと藍那、おまえさん、最近妙に物騒だと思ったら、いつの間に花郎党ファランドなんて連中と関わってたんだ?」



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