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晴夫(セイフ)

 新月斎ヒラルの翌々日、この季節には珍しく帝都に激しい雨がふった。乾いた時期に恵みの雨と言いたいところだが、三日たっても降り止まない。目抜き通りの石畳は濁流で、歩くにも難儀するほどだった。

 あちこちで川の水が溢れ、とくに南の貧民街は低い窪地にあるため、水が腰まで浸かったらしい。


 このような天候ではしぜん、妓楼も客足が遠のいて閑古鳥がなく。

 男衆たちも下女たちも、みな暇を持て余しているせいか、顔を合わせれば不安な表情で囁き交わした。


 この季節外れの大雨は凶兆、良からぬことの前触れなのではないか――と。


「最近そんな話ばっかりですよ。最初は笑い飛ばしていた亜慈アジーさんまで、不安がるようになっちゃって。お天気のせいで、野菜やお魚が入ってこないせいだと思うんですけど。紫園さんがもうしばらくすれば晴れるからって、あれこれと慰めてます」


 四日目の朝には、由真がそう言って苦笑した。

 もっともそんなことが杷萬ハマンの耳に入れば


 ――そんな下らない話をするくらい暇なら、給金を下げるぞ。


 などと言われるに決まっている。

 だが同じような不安を秧真ナエマも感じていたらしい。


「この季節にこんな長雨なんて、なんだか不吉ですわ。ですから私、思い切って、お天気が良くなる願掛けをしてみようと思いますの」


 昼下がり部屋を訪ねてきてそう言った。ちょうど由真も勉強のために部屋にいて、


「晴れの願掛けですか」


 と訊ねる。秧真はうなずき、胸を張った。


「ええ、そうよ。ちょうどいいわ、由真、あなたもいらっしゃい。祈りを捧げる人数が多いほうが、効力があるらしいの。ささ、先生もご一緒に。由真の勉強はあとでもよろしいでしょ」


 そのようなやりとりで、由真ともども強引にハレムへと連れて行かれてしまった。


 願掛けは麦穂や塩などと一緒に、羊皮紙に書かれたまじない札を使って行われる。

 萬和マナ教は生贄を捧げる呪術を邪教とみなし、厳しく禁じたが、こうした罪のない願掛けは日常茶飯事だ。


 雨のなか、まじない札を買いに行かされた寧々《ネネ》によれば、これを買い求めた巫術屋には、同じような晴天を願う客たちで賑わっていたそうだ。このうんざりするような長雨も、少なくとも巫術屋には《恵みの雨》だったらしい。


 秧真の部屋に簡単な祭壇が拵えられた。

 壇上には麦穂と岩塩と月桂の葉、そしてまじない札が置かれ、秧真が巫術屋に教えてもらった呪文を唱える。その背後で節と寧々、由真と一緒に藍那も、神妙な顔で手を合わせた。


 もっとも、藍那はこうしたまじないなど、毛ほども信用していない。

 あの龍三辰ルシダを封じた札を見れば分かる。巫術とは、深い知識と正式な手順が必要だ。このような量産されたまじない札など、気休めにしかならない。

 秧真の気が済めばそれでいい――手を合わせたのも、そんな了見であった。


 しかし、あろうことか、その夜から東風とうふうが吹き始めた。どんよりと帝都を覆っていた雨雲は西へ西へと流れ、切れ目から久しく見なかった星が輝いた。そして翌日は、雲ひとつない快晴である。

 秧真の喜びようといったら、ちょっとした見ものであった。朝一番、藍那の部屋に駆け込んで


「先生、すごいですわね。こんなに効くなんて思ってもいませんでした。ね、ね、これは、あの巫術屋のお札がすごいのでしょうか。それとも、私が真剣にお願いしたから――どちらだと思いますか?」


 とはしゃぐ。

 冷静に考えれば、四日も雨が降り続けば、そろそろ晴れる頃合いである。伝説の大洪水でもないかぎり、止まない雨などないからだ。

 つまり単なる偶然であるのだが、それを言うのは野暮というものだろう。だから


「もちろん、お嬢さまが真剣にお願いしたからでしょう。お嬢さまの祈りが、萬和に届いたのでしょうね」


 と答えた。


「本当に不思議ですわ。今まで叶わなかったのは、きっと真剣さが足りなかったのですね。ねえ先生。真面目にやれば、他のお願いも叶うのでしょうか」

「他のお願いって……なんですか?」


 訊ねると秧真は顔を赤らめた。


「た、例えば……後宮で、たくさんいいお友達ができますように……とか」

「そうですね……。お願いが叶うかは、それこそ萬和マナの御意思ではないでしょうか。萬和が願いを叶えるべきと判断すれば、きっと叶うでしょうね」


 秧真がまじないに凝るのは考えものだ。こうした分野に素人が深入りすると、ろくなことにならない。

 しかし後宮入りを控えた秧真が、巫術に頼りたくなる気持ちも分かる。

 慈衛堵ジェイドの後ろ盾があるとはいえ、理不尽なこともあるだろうし、嫌な思いだってする。そんな不安を少しでも和らげれば、決して無駄な行為ではない。

 藍那は顔をほころばせ、言った。


「ですが、本当に叶えたいと熱心にお願いすれば、萬和もきっと聞き届けてくれるはず。お嬢さまのお幸せを、萬和も望んでいます」

「そ、そうです……よね」


 なにやら嬉しそうに、軽やかな足取りで秧真は出ていった。

 五日ぶりの晴天とあって、金亀楼は眠りから覚めたように活気づいている。男衆たちが魚介や小麦を運び入れ、下女たちが床や手すりを、顔が映るくらいに磨き上げている最中だ。


「さてと、今日は私も出かけなくちゃね」


 寝床から天星羅アストラを取り出し、鞘を引いて剣身を眺めた。

 こうして傷の一つ一つをあらためていると、蔵人クロードとの戦いが鮮明に蘇ってくる。


 どちらが死んでもおかしくない真剣勝負だった。いや本来なら、どちらかが死ぬまで決着のつかない戦いだった。それをああいった形で幕引きができたのは、蔵人の《年の功》のおかげだった――今ではそう思う。


 蔵人は蔵人の仁義があり、藍那には藍那の仁義があった。

 敵ではなく友として、しかし互いに譲れぬものがある故に剣を交えた。

 それだけのことだ。


 藍那は蔵人と花蓮カレン、そして申武サリムに思いを馳せ、彼らの旅路の無事を祈る。それから天星羅を鞘に収め、顔を洗うために部屋を出ていった。


 * * *


 華羅人街は主に華羅出身、ならびにその周辺地域のものが居を定めるが、研ぎ師の晴夫セイフはそのどちらにも属さない。

 彼の出身は黒曜大陸で、白海ベヤズ沿岸地域だった。

 奴隷として売られたのち宦官となり、宮廷につかえ、先帝の崩御で特赦を得て、晴れて自由になった。研ぎ師になったのは二十代の後半だったという。


 なんとも波乱万丈な経歴の持ち主だ。おまけに右耳が削がれて失われ、穴を焼いて潰した痕があった。見るたびに痛ましく思うほどの傷跡である。つけられたときの苦痛は、いかばかりだったか。

 しかし当の本人は藍那の視線などおかまいなく、目をすがめて、天星羅の剣身に見入っていた。


「こいつはなんとも……派手にやりなすったねえ」


 宦官特有の高い声で言った。目尻のしわを一層深めて笑い、


「おうおう、そうかそうか。おまえさんも頑張ったなあ」


 と天星羅に話しかける。

 彼の正確な歳を蔵人すら知らなかったが、先帝の崩御が三十二年前だ。そのとき二十代の後半だとしても、まだ六十ちょっとのはずだ。しかし漆黒の肌に刻まれたしわのせいで、七十すぎに見える。

 痩躯にまとう、薄汚れた袖なしの長衣。禿頭とくとうを包んだ布帽チュルバン。黒曜大陸出身のものは総じて長身だが、晴夫は小柄で、背丈も藍那と変わらない。

 年老いた宦官によくある、一見男か女か分からない容貌だ。しかし天星羅を見つめる眼光は鋭く、剣身をなぞる指先は、猛禽類の爪を思わせる。

 ようやく天星羅から視線を転じ、歯を見せて笑った。


「これだけやりあって、よく生きて帰ってこられたもんだね。僥倖ぎょうこうというよりほかない」

「私もそう思います」

「ま、二人の命と引換なら、酒楼ひとつ潰したところでお釣りがくるってもんさ。蔵人は賢明だったよ。帝都は惜しい男を失ったねえ」


 藍那は無言で、工房の窓から外を眺める。

 金亀楼からここまでのあいだ、つけられている気配はなかった。聴勁ちょうけいでさぐっても、誰かが見張っている様子も皆無だ。


「こないだ泰雅の剣客とやりあったと思ったら、お次は蔵人ときた。おまえさん、どうも最近、きな臭いことに巻き込まれてるようだが」


 口を開きかけた藍那を制し、指でなぞった剣身を左耳に当てる。


「ししし。やはりあたしの耳は、人の声より剣の声を聞くのが得意さ。ま、おまえさんの事情はさておいて……。安心しな、いつも通り、きのう今日出来上がったみたいに、綺麗さっぱり研ぎ直してやるよ」

「お願いします」

「そうか……さて、じゃあ始めるとするかい」


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