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新月斎(ヒラル)

 天秤月に入ってすぐに新月を迎えた。断食月サウムもおりかえし、あと半月となる。


 断食月サウム萬和マナ教の祭儀であり、当然ながら華羅人街に住んでいる喇嘛ラマ教徒たちには無縁の話だ。しかしちょうどこの期間は喇嘛教にとっても特別な時期で、新月、つまり今日から大斎に入る。


 大斎のあいだは殺生が禁じられている。肉と魚、酒を控え、経を一日三度唱えること。卵を食すことと茶を飲むことは許されているので、茶館や酒家では根菜の蒸し物や香辛料で風味をつけた豆の揚げ物、卵料理や青菜を茹でて詰めた饅頭が出た。


 もちろん酒を控えるのは表向きで、どこの酒家でも茶といいつつこっそりと酒を出している。大斎の初日から酒家に来るのはあまり信心深くない連中であるから、戒律などあってないようなものだ。


 そのような信心深くない連中のなかに藍那と蔵人もいる。

 東大参道の香良コーラ楼はしたたかに酔った客たちで賑わっているが、離れた個室に居る二人に彼らの顔は見えない。この楼主は蔵人の古い知人とのことで、通された部屋も調度品から格式の高さがうかがえた。


 先に席に着いていた蔵人が黒茶を入れ、すすめた。拱手きょうしゅ一礼してから茶をいただく。馥郁ふくいくとした香りは、茶葉が上物であることの証だ。

 蔵人が訊ねた。


「ここに来るまで、誰かにつけられていた気配は」

「金亀楼を出てからしばらく、入れ替わり立ち替わり、誰かに見張られていました。曾妃耶ソフィア寺院の近くでまくことが出来たようです。ご存じの通り、今日はあちこちの通りが芋を洗うような混雑でしたから」


 断食月の《新月斎ヒラル》はちょうど折り返しに当たる。

 陽が落ちると家長が曾妃耶寺院に赴き、満月までの断食を正しく行うことを神官に誓う。それから祝福を受け、聖水をもらって帰ってくるのだ。

 それ故、曾妃耶寺院の近隣はどこも大混雑、普段は静かな通りにまで人が溢れている。追っ手をまくのにはうってつけであった。


「それは良かった。この日を選んだ甲斐があったというものです」

「あの剣について話があるとのことですが」


 世間話は不要とばかり、藍那は本題へと切り込んだ。緊張した面持ちの藍那とは対照的に、蔵人のほうは悠然とした表情で茶をすすっている。


「藍那、あなたを襲った剣客の正体が分かりました」

「な!?」

「名前は宮遮那クシャナ。華羅の特務機関、《花郎党ファランド》の剣客で、三指に入ると名高い凄腕です」

ファ……郎党ランド……?」


 用心棒稼業をやっていれば、その名は藍那も聞き及んでいる。しかしその実体は雲を掴むようで、ほとんどが憶測と怪しげな伝聞にまみれていた。

 美男子ばかりで構成されているとか、結束を強めるために肉体的結合を伴う儀式が行われるとか、主に男色にまつわる話が一人歩きをしている。


 だが確実なのは、それが帝直属の暗殺集団であること。王朝の始まりから三百年、政に徒なす不穏分子を葬り去ってきたということだ。


「さよう、藍那も名くらいは知っているでしょう。宜はその存在を公には認めていませんが、彼らは歴史の裏で常に暗躍していた。そして現在、この奥尔罕に来ていて、あの剣と紫園を狙っている」

「しかし、何故? 他国に刺客を送り込むなど、よほどの事情がなければ……」


 そこではたと気がついた。


「もしかして、店の前で張っていたのも?」

「おそらく奴らでしょう。今はもう店を張られることはありませんが、この帝都の何処かに潜んでいるはずです。切り札の宮遮那があっさりとやられてしまったもんで、次の手を打ちかねているってところでしょうか」


 蔵人は干した杯を置いた。

 今さらながらこの男の探索手腕はたいしたものだ。おそらくあの大立回りの日、いやそれよりもっと前から、自分たちを見張るものたちの正体を探っていたに違いない。自ら、あるいは人を雇い、少しずつもつれた糸をほぐすように根気強く――。


「大火ののち、泉李イズミルで役人たちが龍三辰ルシダを探していた。裏で手を引いていたのは州知事ですが、これも《花郎党ファランド》が一枚噛んでいたと思っていいでしょう」

「つまり華羅にとって、龍三辰と紫園は、それほどまで重要な、消すべき対象ということですか」

「紫園――いや、迭戈ディエゴというべきでしょうな」

「――!?」


 知っていたのか――そんな表情の藍那に、蔵人は続ける。


「やはりご存じでしたか。紫園――彼が瑚々(ココ)の愛人で専属画家だった迭戈ディエゴであることは、もはや疑いようがない。そしてあの大火の原因はおそらく彼にある」


 喉の渇きを覚え、藍那は冷えた茶を干した。扉の向こうでは、相も変わらず客たちが騒いでいる。しかしその喧噪も藍那の耳にはどこか遠い。

 あの泰雅の剣客、宮遮那クシャナとやらはこう言っていた。


 ――君には何の恨みもないけど、これも仕事でね。

 ――よく分からないけど、こいつは殺さなくちゃ。


 つまりあの刺客は剣を奪って紫園を殺せとは命じられているが、その理由は知らない。たとえ彼をつかまえて拷問にかけても、なに一つ出てこないということだ。

 万が一、実行部隊が捕らえられたときにも秘密は守られる。特務機関の常套手段だった。


「つまり蔵人、あの刺客を退けたところで、第二第三の刺客が送り込まれてくる」

「その可能性は充分あるでしょうね」


 軽い目眩を覚えた。いったい華羅とあの剣になんの因縁があるのかは分からない。しかしなんとも厄介なことになってしまったものだ。帝直属の殺し屋に喧嘩を売るなど、正気の沙汰ではない。

 ため息をついて言った。


「あの剣はこれから荒羅塔アララトへ収めることになっています。道中、彼らからなんらかの妨害があるということは」

「それも充分あり得ることです」

「金亀楼に害が及ぶことは」

「今はまだ安心でしょう。帝都きっての上楼に手を出せば否が応でも目立ちます。そこまでされては奥尔罕の面目にも関わる。昔から犬猿の仲の国同士ですが、ここ数年は国境でにらみ合うだけの平和な状況です。そこにあえて火の粉を振りまくようなことはありますまい」

「ふむ」


 とりあえず、杷萬や秧真に彼らの魔手が伸びることはなさそうだ。しかし手放しで安堵は出来ない。目的が果たせなければ手段はよりえげつなくなる。暗殺に通じた彼らにとって、誰かを病死に見せかけてほふることなど造作もないだろう。


(これは、さすがにことが大きすぎる……)


 藪をつついたら蛇どころか龍が出てきた。今の藍那をたとえるならそんなところだろうか。久しぶりに胃の腑が痛くなるような事態であった。

 蔵人は湯桶から銚子さしなべに湯を入れて顔を上げる。腕を組んだ藍那を見据え、言った。


「実は藍那、もしあなたさえ構わないのなら、私が彼らに話をつけてあげます」

「――!?」


 藍那は思わす立ち上がる。そして若干混乱した頭で考えた。

 彼らというのがくだんの《花郎党ファランド》であることは言うに及ばず、話をつけてやる申し出も冗談の類いではないだろう。


 特務機関に縁故があるというのなら、蔵人もまた暗殺者であったのか。

 実のところ、自分はこの男の過去を何も知らない。

 過去を知らなくても付き合いに支障はなかった。だが今は違う。もし彼が命じられるままに人を殺せる人間であったのなら、おいそれと信用することは不可能だ。


 考えすぎて言葉が出てこない。

 そんな藍那に蔵人は右手のひらを向け、静かに続けた。


「ご安心を。私は《花郎党》とは無関係です。ただ昔、彼らの《上》とちょっとした係わりがありましてね。大きな貸しがある。その伝手つてを辿って頼めば、《花郎党》の動きをしばし抑えることは出来るはずです」


 銚子から自分の杯に茶を注ぎ、ひと口含む。


「《花郎党》が動きを抑えられているあいだ、あなたは予定どおり荒羅塔に行ってあの剣を収めればいい。そうすれば、いかに特務機関といえ手出しは出来ません」


 喇嘛ラマ教は華羅王朝の信仰が篤い。

 代々の帝は即位を法主から祝され、崩御ののちは謚号しごうを贈られる。その法主が座し、あまたある喇嘛教寺院の頂点に立つ荒羅塔は、たとえ帝とてむげに踏み荒らすことの出来ぬ聖域であった。


 藍那は蔵人を凝視した。

《花郎党》とは無関係――その言葉を信頼するかはさておき、たしかに魅力的な提案ではある。真正面から対峙するには厄介すぎる相手であり、彼らを制することが出来るのなら縁故でも伝手でも使いたい。


 しかし分からないのは蔵人の真意だ。

 単に藍那を助けようとするだけではない何かが、その目にはある。金が目的ということはあるまい。だとすれば――。


「もちろん、こちらとて骨を折ること。無償ただでというわけにはいきませんが……。もしこちらの条件を飲んでいただければ、報酬は要りません」

「その条件とは」


 蔵人は手元の椀をさりげなく脇へと置く。そして抑揚のない調子で告げた。


「あの男を殺して欲しいのです」


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