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寝耳に水(下)

 呆けた表情でしばし杷萬を見つめる。

 断食月の十一日目、朝も昼も水以外は口にしていないはずなのに、どういうわけかこの男はいっこうに痩せない。しまりのないこめかみとたるんだ頬。髭に覆われた分厚い唇に吸口を咥え、目を細めながら紫煙を吐き出している。


 煙とともに満ちた茴香の香りを、藍那は鼻の奥まで吸い込んだ。

 水を一口含んで居住まいを正す。


「私が、この金亀楼の楼主になる……ということでしょうか」

「さようです。何度も考えたんですが、先生をおいて適任はいない。どうですかね、考えちゃくれませんか」

「しかし、私は商売のことはさっぱ――」

「いえいえいえ、もちろんそれはこちらとて承知の上。なに商売のことといったって、ときおり帳簿を見たり、もめ事があれば出て行ってまるく収める――せいぜいその程度のことです。いま先生がやっている用心棒稼業と、たいして変らないですな」


 いや、そんな訳ないだろう――藍那は呆れて言った。


「ですが帳簿など、私は見たこともないですが」

「なあに少しずつあたしが教えますよ。そもそも、勘定のことは今までどおり苫栖トマスがやってくれる。客のことや娼妓たちのことなら、柴門シモン安瑛アンデレがやってくれる。連中に任せておけばいいんです。

 先生は連中に対しても信頼が篤いし、無体な客ににらみがきく。いささか人が好すぎるのが玉に瑕ですが、なにより義に篤いところがいい。まさに任侠の鏡とも言うべきお姿ですな」


 そこまで買ってくれているのなら、もう少し給金をはずんでくれても良さそうなものだが。そう考えて苦笑が浮かびかける。

 しかし杷萬の言葉が本気であることは藍那にも分かった。しかしあまりにも寝耳に水で、どうも実感が湧いてこない。


「べつにすぐに返事が欲しいとは言いませんよ。先生にだって時間が必要でしょう。ですが先生、もし先生がここを継いでくれれば秧真だって喜びます。あれに帰る場所を作ってやれるのは、先生だけなんです」

「しかし……柴門や苫栖だっているでしょう」

「秧真にとって男衆はあくまで使用人でさ。だが先生、あなたは違う。あれにとって先生は家族同様なんですよ。もしあたしになにかあっても、先生がここに居てくれたら、秧真にとって金亀楼は帰るべき場所であり続けるんです」


 たしかに杷萬の言う通りかもしれぬ。

 もし後宮に上がるとすれば時折里帰りもあるだろう。そのとき自分が秧真の帰るべき場所になる。そういう生き方だってあるのだ。


 それは由真や紫園にも言える。どのような道を進もうと、彼らにだって帰る場所が必要だろう。ここで自分がその役目を引き受ける。秧真の、紫園の、そして由真の家に――。


「お話は分かりました。ですが、自分としてもこれからいろいろとやらなければならないことがあります。それが全て終わってから、改めて返事をするということで」

「よろしいですよ。なに、急ぐことじゃない。先生が旅からお戻りになってからでも、充分です」

「ご配慮ありがとうございます。では私はこれで」


 腰を上げた藍那に、杷萬がにやりと笑う。


「先生、いくらあたしが吝嗇りんしょくといったって、一方的にお願いをして無償タダって訳にはいかないことくらいわきまえておりますよ」

「と仰いますと」

「先生がこの金亀楼を継いで下さるのでしたら、どうでしょう。先生が肩代わりした由真の借金、まるっと帳消しってことで」


 * * *


 書斎を辞してから、まっすぐハレムへと向かった。

 秧真の部屋の前まで来ると、なかから出てきた節と鉢合わせる。節はばつの悪い表情になり、無言で一礼し、去っていった。

 声をかけても返事はなかった。


「お嬢さま、入りますよ」


 秧真は窓際に腰掛け、ぼんやりと外を見ていた。細い肩がしょんぼりとうなだれている。父から命じられた後宮行きがよほど堪えたらしい。たぶん目だって泣きはらして赤いはずだ。


「お嬢さま、この度の後宮へ上がるお話、おめでとうございます」


 外を眺めたままの秧真に、あえてそう告げた。秧真は振り向くと、泣きはらした目で藍那を見つめる。


「父から聞いたのですか」

「はい」


 秧真は深いため息をついてすすり上げた。


「仕方……ないですよね……」

「お父上にも深い考えがあってのことでしょう。お嬢さまのことを思っての決断だと思います」

「それは分かっているのです。でも後宮ってどんなところか知らないし、私なんかに務まるか。もし怖い人がいていじめられたら、どうしたらいいの」

「そのご心配は無用でしょう。後宮にあがるときは慈衛堵さまのご紹介として入るはずです。慈衛堵さまは宮中の偉い方にも、お知り合いがたくさんいらっしゃる。その慈衛堵さまの顔をつぶすようなことなどありません」

「ええ、父もそう言ったのだけど……」


 これまで世間知らずで通ってきた娘が後宮へ上がれと言われたのだ。その動揺と不安はいかばかりか、想像に難くない。

 帝の寵を受ければ女として最高の地位に昇れるが、嫉妬や権謀術数が渦をまく伏魔殿でもある。秧真が怯えるのも無理はなかった。


「しかしお嬢さま。なにも後宮に上がらずとも、お嬢さまが嫁ぎ先をお決めに」

「それはいや」


 言下に否定されてしまった。


「どこかに嫁がなければならないのなら、後宮に上がった方がましです。だから、父も父なりに考えてくれていると分かっているの。今年のお祭りは……たぶん愛紗のところで過ごすことになりそうです……」


 そうしてまた涙ぐむ。励ますように藍那は震える肩をそっと抱いた。

 もし彼女に姉や母親がいれば、もっと心強いのだろう。節は親代わりとはいえ、やはりそこは使用人だ。遠慮が生まれ、心置きなく甘えることは出来ないのかもしれない。


「お嬢さま、実はここだけの話ですが」


 藍那は声をひそめていった。


「お父上から、この金亀楼を継がないかと言われました」

「!?」

 

 よほど驚いたのだろう。秧真は目をむいて藍那を見上げた


「もし私がこの金亀楼を継げば、お嬢さまの帰る場所になれます。いえ、それだけじゃありません。いずれここを出て行く由真や紫園の帰る場所にも――」

「そ、それで、先生はどうなさるのですか?」

「旅から戻ったら改めてお父上に答えるつもりです。あの剣をきちんと荒羅塔に収め、無事に帰れてからの話ですからね」

「では金亀楼を継いで下さるの? 私の帰る場所になって下さるのですか?」

「一応そう考えております。ただし、これは私とお嬢さまだけのお話です。くれぐれも他言なさらぬよう」

「嬉しい! 先生ありがとう!」


 抱きついてきた身体を藍那も優しく抱きしめた。


「この金亀楼にお世話になるきっかけを下さったのが、お嬢さまですからね。おかげで旅暮らしで忘れていたものを、いろいろと思い出させてくれました。ですから、ほんの少しばかりの恩返しです」

「ねえ、もし私が後宮で出世できたら、紫園を宮廷画家に出来るかしら」


 まだ出仕もしていないのにずいぶんと気が早い。吹き出しそうになりながら藍那は頷いた。


「そうですね。きっと助けていただくこともあるでしょう。そのためにもお嬢さまには偉くなっていただかなければ」

「大丈夫よ。先生が金亀楼で待って下さっているのですもの。私、どんなに辛いことがあっても負けないわ。見ていてね、先生」


 胸の前で握り拳をつくる秧真に、藍那は頷く。

 荒羅塔への出立は感謝祭が終わった翌日。夜明けとともに旅立つ予定だ。帰りがいつになるのかも分からず、そのとき既に秧真は後宮に上がっているかもしれない。


 この無邪気を絵に描いたような娘とも、しばらくお別れだ。

 そう考え、藍那は一抹の寂しさを覚えた。



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