寝耳に水(上)
断食月は淡々と過ぎていった。
しばらく旅に出る――手紙にそう書いた蔵人の言葉が気になり、花蓮に何度か手紙を出した。花蓮からの返事はいたって当たり障りのないものだ。
夫婦ともども息災でなんの心配もないが、急に旅がしたくなったのだ――そんな内容だ。なにか肝心なことをはぐらかされているようなのだが、かといって《狼々軒》におもむき、彼女と話をするのもためらわれた。
理由は紫園――いや正確には迭戈にある。
藩座から聞かされた紫園の過去を、藍那は誰にも言っていない。
蔵人と花蓮に藩座から聞いた話を打ち明けるべきか、そのことを何度も考えた。しかしどれだけ考えたとしても結論は同じだった。
この話は自分一人の胸にとどめておこう、今は誰にも話すべき時ではない――と。
龍三辰のことに関して夫婦には世話になった。ある意味、当事者とも言える。その彼らに隠し事をしているという後ろめたさもあり、最近は華羅人街からも足が遠のいてしまっている。
とりあえず指定された新月斎の夜、香良楼で蔵人に会う。
彼に迭戈の話をするかは、そのとき次第だった。
* * *
断食月の十一日目の朝方、水場で顔を洗って部屋に戻ると節が待っていた。なんでも大切な話があるので杷萬が書斎で待っているそうだ。
「こんな朝早くに、いったいなんでしょう」
「お話は旦那さまからなさいます。旦那さまから、ちゃんと。ささ、どうぞどうぞ」
節に促され、長衣をくたびれた綿からよそ行きの麻に変えて部屋を出た。
もしや給金を減らされるのだろうか――。
危惧しながら廊下を歩き、節が開いた扉をくぐる。
「これはこれは先生、朝早くからお呼びだてして申し訳ありません」
書き物机の椅子に腰掛け、水煙管を吸っていた杷萬に椅子を勧められた。
腰を下ろすとすかさず寧々が硝子の水差しと椀を出してくれる。水差しには薄荷と檸檬の薄切りが詰められ、目にも涼しげだ。
注いでくれた椀に口をつけると、口いっぱいに爽やかな芳香が広がる。
茴香の水煙管をのんびりと吸いながら、杷萬は当たり障りのない世間話を始めた。
断食月のはじめ、隠居長屋に住んでいた楠啓が体調を崩して寝込んでしまった。医者ももう長くはないと言い、いよいよあの口の悪い婆さまにもお迎えが来たかと誰もが思ったが、なんと奇跡的に回復してしまった。
先日床から離れ、見舞いに訪れた愛紗と杏奈に
――こんな死にかけが片足突っ込んだ棺桶長屋なんぞに来るんじゃないよ。土産だけ置いてとっとと帰んな。
そうまくし立て、鼻から勢いよく煙管の煙を出したそうだ。なんとも楠啓の婆さまらしい話ではある。そう言って追い返したのは、おそらく愛紗の身を気遣ってのことに違いない。
魏湖から戻ってしばらく体調が優れなかったが、どうやら身ごもったらしいと分かったのは最近だ。
跡継ぎを望んでいた慈衛堵の悦びは想像に難くない。
屋敷で働く全てのものに金幣がふるまわれ、この金亀楼にも知らせとともに極上の葡萄酒が樽で届けられた。
もっとも妓楼とはいえ断食月の飲酒は禁じられている(そのかわり葡萄酒を水で薄めた葡萄水を出すことは許されていたが、これはあまり評判がよろしくない)。
酒樽は感謝祭に開けられることが決まり、亜慈が今から楽しみにしている。
「ところで先生、感謝祭が終わったら浦野へ出立されるとうかがっておりますが」
杷萬が身を乗り出すと、かけていた椅子がミシリと音を立てた。
「こちらに戻ってこられるおつもり……と考えてよろしいのでしょうな」
藍那は頷いた。
「ええ、由真のこともありますし。借金を払い終えるまでは、こちらにご厄介になりたいと考えておりますが……」
「ま、先生が借金を踏み倒すなど考えておりませんよ。そのあたりは信用しております。実はですな、お話ししたいのは秧真のことです」
「お嬢さま、ですか」
以前、嫁ぎ先に藍那を一緒に連れて行きたいと秧真にねだられたことがある。そのときは夫となる方の了承を得られたなら――とお茶を濁したのだが。
もしやその話かと身構えると、杷萬の口から出たのは意外な言葉だった。
「まあ先生もご存じでしょうが、うちの娘ときたらいささか、というよりはかなり変っておりましてね。いまだに婚約にも男にも興味がなく、暇さえあれば先生にべたべたと甘えております。
節にも『いいかげんお婿さんを見つけてあげないと、お嬢さまが行き遅れてしまいますわ』と叱られているのですがね」
杷萬が煙管を吸って吐いた。
「当の本人がまるでそれを望んでいない。秧真が面と向かって言ったわけじゃないですが、あたしだって父親だ、見ていて分かります。それでですな……考えたのですが、思いきって秧真を後宮に上がらせようと思うのです」
「こ、後宮っ――ですか!?」
杷萬に私と再婚して欲しいと言われてもこれほど驚かないだろう。藍那は文字通り椅子から飛び上がり、呆気にとられて杷萬を凝視した。
まさか後宮とは――。
藍那の驚愕をよそに、杷萬のほうは悠然と煙管をふかしている。
「なに、後宮務めとはいっても、べつに帝のご寵愛を競おうって訳じゃないんです。実は慈衛堵さまの伝手で、第七夫人の妮義さまにお願いをしているんですよ。身の回りのお世話をする侍女として、お側に上がらせてもらえないかってね」
「しかし……もし万が一にでも帝のお目にとまったら……」
妃や夫人をはじめ、後宮に住まう侍女のほとんどが奴隷出身である。華羅や黒曜大陸、あるいは正十字教国出身の奴隷が買われ、作法を教えられたのちに後宮に上がり、帝の寵を受ける。
しかし夫人たちの身の回りを世話する侍女には奴隷ではないが、訳ありの女――寡婦やなんらかの事情で婚期を過ぎてしまった良家の子女――も少なくないそうだ。
もちろん、そんな女たちが帝の気まぐれで寵愛を受けることもあるだろう。
「まあ、先生が心配して下さるのももっともですがね。父親のあたしが言うのもなんですが、秧真が帝の目にとまることはまずあり得ませんな。妓楼の楼主なんぞやっていれば、そのあたりのことは分かります」
「はあ……」
杷萬は吐き出した煙を目で追い、続ける。
「もし後宮に上がることが決まれば、しばらく愛紗の屋敷で見習いをさせてもらう約束です。世間知らずな娘ですが、愛紗にいろいろ仕込んでもらいますよ」
「ですが、お嬢さまはそれを望んでいるのですか?」
「望むもなにも、それがいやなら無理にでも何処かに嫁がせるしかないのですよ。行かず後家になって、余所から早く嫁に行けとせっつかれるよりはましでしょう」
「しかし……私はてっきり、お嬢さまが婿をとってこの金亀楼を継ぐのだと」
「いやいやいや」
杷萬は苦笑いを浮かべながらかぶりを振った。それから煙管の吸い口を、卓上にあった布で拭きはじめる。
「それはないですなあ。なにあたしも先代からこの楼を受け継いだ身でしてね。先代にも一人娘が居たが、いろいろあって若死にしてしまいまして。
継ぐものがなくなって、男衆だったあたしを見込んだ先代が楼主を継がせてくれたのですわ」
杷萬が昔この金亀楼で働いていた――という話は聞いたことがあったが、先代の楼主に一人娘が居たのは初耳だ。
「そんな訳でしてね。あたしも歳をとったら見込んだものにこの金亀楼を継いでもらって、振茶でのんびりと隠居でもしようかと考えておるのです。そこでだ、ここからが本題ですが……」
杷萬は椅子を座り直し、身を乗り出して言った。
「あたしはですね、先生、あなたにここを継いで欲しいと思っているんですよ」