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舎里八(シャルバート)

「いらっしゃい、藍那。なにか飲む?」

「ではお茶を一杯いただきましょうか。今日は暑いですね」


 愛紗の目配せで侍女の上良(カミラ)が手を止め、羽扇を置いた。立ち上がり茶道具がある卓へと向かう。


「今日、珍しいものが手に入ったのよ。今見せてあげるわ」

 

 そう言って悪戯っぽく笑った愛紗は、懐から出した小扇子をゆったりと使いはじめた。間もなく、上良(カミラ)が硝子の小さな器を乗せた盆を手に戻ってくる。


「さあ、先生どうぞ」


 愛紗の向かいに座した藍那に器を差し出した。

 硝子の器には丸く白いものが盛られており、まるで白い粉をのりで固めたように見える。添えられた小さな銀の匙がうっすらと汗をかき、曇っていた。

 怪訝な顔の藍那に、愛紗が笑って


「食べてみて」


 言われるままに器を手に取った。ひんやりと冷たい。匙を手におそるおそるすくって口に入れる。冷たさを感じると同時に、乳と砂糖の甘さが舌から口全体へと広がった。それはまるで雪のようにはかなく、あっという間に溶けてしまう。


「これ、なんですか?」

舎里八(シャルバート)っていうのよ。冷やした牛の乳と糖蜜を混ぜて練って作るのですって。どう、美味しいでしょ?」

「ははあ、でもよく溶けませんね」 

「小さな氷室ごといただいたの。今日みたいな日にはぴったりよね」


 ひとさじ、またひとさじ。口のなかで冷気が広がるたび、火照っていた身体が冷えていった。乳と糖蜜の甘さが喉を通り抜ける。とたんに頭の芯がつんと痛んで、思わず目を閉じた。そんな藍那を見て、愛紗は鈴が転がるような声を上げて笑う。


「あ、藍那もなったのね。上良もなったのよ、奥の方がねツーンって」


 首の後ろをこぶしで叩き、藍那は空になった器を返した。慣れない冷たさで身体が一気に凍えてしまったような気がする。主人の悪戯心に苦笑いする上良に、温かい茶を一杯所望した。


「由真から聞いたわよ。鏡を借りたいなんて、珍しいことを言うものね」

「ずいぶんとお耳が速いですね。たまには自分の顔を見ませんと、どんな顔をしているのか忘れそうですから」


 軽く首をすくめた藍那に愛紗は微笑んだ。


「上良、例のものを持って来てちょうだい」

「はい、愛紗さま」


 空の器を下げた侍女が、かわりにたいそう手の込んだ細工ものの黒い木箱を抱えてきた。

 藍那の前に置いてから、(うやうや)しくふたを開ける。素材はおそらく黒檀で、箱と側面に精緻な華羅(カラ)彫りの龍が彫られていた。なかは紫の布で覆われ、それを除けると銀の手鏡が現われる。


「これは?」


 藍那は困惑した顔で鏡と愛紗を交互に見た。


「前から言ってたでしょう。いくら男勝りの稼業でも、身だしなみだけは忘れないでと」


 手にした銀の手鏡はずいぶんと持ち重りがした。花綵(はなづな)模様を浮かせた背面のところどころに、赤や紫の宝石がはめ込まれている。

 こういったものの価値の疎い藍那ですら、とんでもなく高価なものだとひと目で分かった。


「私からの贈り物よ。北の領主さまからいただいたものだけど、あなたにあげるわ」

「そんな。こんな高価なもの、いただけませんよ」

「いいのよ。これを見るたびに、藍那にいつでも私のことを思い出してほしいの」

「姐さん――」


 返した鏡面で顔を映し見た。卓越した職人の手で磨かれたのだろう、静かな水面(みなも)のように滑らかなそれには少しの歪みもなく、少し陽に焼けた顔を映し出す。

 化粧とは無縁の垢抜けないそれは、まるで薄汚れた鳩だった。

 失望を隠すようにそそくさと木箱に戻す。これだから藍那は鏡が嫌いなのだ。


「本当に。そんなにきれいな顔をしているのにもったいないわ。ねえ、上良もそう思うでしょ?」

「ええ、愛紗さま。先生、髪をきちんと結わえて、もうすこしきれいな格好をすれば男たちがほっときませんよ」


 そんな彼女たちの言葉に苦笑しながら蓋をしめる。

 口うるさいのはなにもこの二人だけではない。最近は由真にまで


 ――先生はもっとおきれいにすれば、綝娜(リンダ)さまや艶琉(アデル)さまにも負けないくらいだと思うのです。宝の持ちぐされという言葉をご存知でしょうか。


 などと、こましゃくれたことを言われるようになってしまった。

 藍那とてきれいな着物や装飾品に興味がないわけではない。母と暮らしていたときは、人並みの洒落っ気くらいはあったと思う。


 ただこのような稼業をしていれば、女の部分はいやでもすり減っていく。血に汚れてしまうことを考えれば、どうしてもまとうのは粗末な木綿のものが多くなるし、化粧とて同じだ。

 なにより女を売り物にした用心棒は、たいてい春を(ひさ)ぐことをもう一つの稼業にしている。武芸の腕など二の次で、(ねや)の技法にせっせと磨きをかける。

 剣の腕一つでやってきた藍那には、そのような同業者とは一線を画したいという矜持があった。


 それに。

 女が着飾るのはやはり、それを見せる相手がいてこそだと思う。美しい花も愛でられればこそだ。そもそも藍那には着飾った自分を見せたいと思う相手がいないのだから。


「にしても。藍那が男性の目を気にするなんて、珍しいこともあるものね」


 由真と同じことを言われてしまった。上良までが興味津々といった口調で


「なんでも新しく入った水まわりの下男とか。なかなかいい男と聞いておりますが」


 と食いついてくる。藍那は口をとがらせ、


「あのような態度を取られれば、いやでも気になりますよ。口がきけないのは気の毒だとは思いますが」

「なんでも、泉李(イズミル)の大火の生き残りだそうよ。杏奈(アナ)が拾ってここに預けたのですって」

「泉李の? 杏奈先生が?」

「ええ、ほら藍那も知ってるでしょ? 杏奈の妹夫婦がその大火で亡くなったこと。妹夫婦の家があった焼け跡で倒れていたのを、杏奈が拾ったのだそうよ」


 杏奈はこの金亀楼に出入りしている唄の師匠だ。紅籠街の娼妓たちに唄と弦楽(つる)を教えている。その杏奈の妹夫妻が住んでいた泉李が大火事に見舞われたのは、三月みつきほど前のこと。

 泉李はここ帝都より東へ二十遥嵯歩(ファルサフ)

 東と西を湖と海に挟まれた街で、古くから栄えた港がある。大火事の原因は今でも不明と聞いている。街全体を舐めた炎は三日にわたって燃え盛り、街に住んでいた半数のものが焼け死んだ。


 その惨状は藍那も聞き及んでいる。


 街を流れる(クン)川は焼けただれた死体で溢れかえり、かろうじて生き残った者たちも多くが無事ではいられなかった。

 火の粉にあたって目が見えなくなったものや、手足を失ったもの、焼かれた皮膚が剥けて赤い肉塊を泣きながら晒すもの――。その光景はさながら地獄絵図だったらしい。

 この大火事で杏奈は妹夫婦と姪を失い、たいそう気落ちしていた。金亀楼にもしばらく姿を見せなかったのだが、まさかあの若者を拾っていたとは。


「妹さんたちの家は焼けてほとんどなくなってしまっていたのだけど、焼け跡に傷一つない姿で倒れていたのですって。三日三晩眠り続けていて、目が覚めた時には口が聞けないし、なにを尋ねても首を振って分からないの一点張り。どうやら、なにもかもさっぱり忘れてしまっているみたいなの」


 上良の出してくれた温かな薄荷茶を一口すすって、愛紗は続ける。


「妹さんを失くしたあとだったし、これも何かの縁だと思ってしばらく面倒をみていたそうよ。でもなにしろ杏奈も女の独り暮らしでしょう。ひとつ屋根の下に若い男と二人っていうのも外聞が悪いし、いつまでも置いておくわけにもいかないってことで、ここに奉公にだしたのね」

「なるほど、そのような訳がありましたか」


 杏奈は愛紗より一回りほど年上だ。彼女もやはりこの紅籠街の出身で、さる金持ちの妾となり、旦那が死んだあとは芸で身を立てている。

 盛りをとうにすぎた身とはいえ、まだまだ艶やかさを失わない彼女があのような若者を家に置いておけば、なるほど、近所の噂になるのは目に見えていた。


 人の良さが仇となって若い時分に男で苦労したせいか、もう男はこりごりだというのが口癖である。

 若い男を囲っている芸事の師匠は珍しくないが、自分にそういう趣味はないと日頃から言っていたので、奉公に出したのは自活しろとの親切心なのだろう。


 とはいえ、あのような気弱な性質では、ここで働く男衆たちと上手くやっていけるかどうか。悪い連中ではないのだが、なにしろ気が荒くてけんかっ早い。


 一年と半年前、藍那がここにきた最初の日のことだ。女の用心棒など珍しいせいか、男衆の束ね役である柴門(シモン)が絡んできた。すかさず鳩尾(みぞおち)に剣首を喰い込ませて昏倒させたのち、喉笛に剣先を突き立て、他の男たちを牽制した。


 小娘と舐めていたのが思わぬ反撃に遭い、それからはみな先生先生と下にも置かぬ扱いである。気が荒い連中には腕っ節の強さがものをいう。

 その点、あの若者はどうも心(もと)ない。


「でも杏奈の言うことには、彼は文字が読めるらしいの。それも簡単なものだけじゃなくて、本を買ってやったら熱心に読むんですって。古い吟遊詩人の詩集なんかも好きみたい。だからきっといいお家の生まれだと思うのだけど」

「その、探したんですか? 彼の身内を」

「もちろん。杏奈もいろいろ伝手を辿って、彼の身元を調べようとあれこれ手を尽くしたのだけど。でもなにしろ街の半数が亡くなったでしょう。彼を知っている人が一人も見つからなくて、結局身元が分からないままこっちに奉公に出したのね」

「それじゃ、紫園(シオン)というのは」

「杏奈がつけた名前ですって。本当はなんていうのか本人もさっぱり憶えていないのだから、仕方ないわねえ」


 木箱を手に愛紗の部屋を辞したあと、自室に戻って寝台の下にそれを押し込んだ。しかしすぐに思いなおして蓋を開け、取り出した手鏡に己を写してみる。


「藍那」


 と鏡面の向こうに呼びかけた。

 母の名前を名乗るようになったのは、故郷を剣一つで出たときからだ。璃凛という名を捨てたのにはそれ相応の理由があってのことで、そのときから自分は女でもなく、かといって男でもない中途半端なものとして存在している。


 手鏡を箱に戻し、さて楼主の杷萬(ハマン)になにか仕事がないか訊きに行こうかと考えていると、廊下の向こうからバタバタとせわしない足音が聞こえてきた。

 扉の向こうで止まったと思いきや


「先生っ、せんせいっ!」


 由真のこぶしが扉をはげしく打つと、こちらの返事を聞かずに叫んだ。


「せんせいっ! 大変なんですっ!!!」

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