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秧真の誘い

 すわ何ごとか。

 藍那はとっさに身を低くし、天星羅に手をかける。しかし


「先生、先生、いらっしゃいまして?」


 扉の向こうでそう訊ねたのは秧真だ。ほっと安堵したのもつかの間、別の懸念が閃いた。もしや預けてあった剣に異変が起きたのだろうか。

 急いで扉を開いた。夜着に花の刺繍が入った肩掛けをまとい、いつになく真剣な表情の秧真が立っている。これはどうやらただ事ではなさそうだ。


「お嬢さま、いかがなさいました」

「こんな遅くに申し訳ありません。実は先生に折り入ってお話があるのです」

「分かりました、伺いましょう。どうぞ室内なかへ」


 秧真を招き入れてから紫園のほうへと向き直った。


「すまないね、紫園。ちょっとお嬢さまと急ぎの話があるから、続きはまた今度にしてくれるかい」

「は、はい。お嬢さま、失礼いたします」


 一礼した紫園が退室し、扉が閉まる。すかさず藍那は訊ねた。


「なにかあの剣に変ったことが?」

「いいえ、それは大丈夫です。どうか安心なさってください」

「そうでしたか……」


 とたんにどっと力が抜ける。


「申し訳ありません。要らないご心配をおかけしてしまったみたいで」

「いいえ、何事もなければそれがなにより。それに、お嬢さまのお手を煩わせているのはわたくしの方です。お嬢さまが謝ることなど、何もありません」

「そんな……私は、先生のお役にたてれば……」


 嬉しそうに秧真は目を輝かせた。


「で、私にご用というのは」

「あ、ああ、そうでした。忘れるところでしたわ。実は先生、先生はもう誰かとお祭りに行くことは決まってらっしゃるのですか? その、他の殿方と……」


 紫園の顔が脳裏を横切ったがあえて無視した。屈託ない様子で笑い、答える。


「まさか、何度も申し上げますが、用心棒などを誘う物好きなどおりません。どうやら、今年も由真と二人で出かけることになりそうです」

「ああ、よかった……。あ、先生がどなたからも誘われなければいい――なんて思っている訳じゃないんです。でも、このとおり、私も誰からもお誘いされておりませんし……」

「ふむ」


 秧真は組んだ両手の人差し指をもじもじと動かしている。だが由真の話では、秧真にはけっこうな数の誘いがあり、そのいずれも彼女は断っているはずだ。


「ですが、お嬢さま。たしかお嬢さまには、少なからずお誘いの手紙があった――そううかがっておりますが。金巴カナハ楼の栄穫バドルさまなど、たいそう見目良い青年との評判です。お断りしたのは、いささか勿体ないのではありませんか」


 藍那はからかうように言った。

 栄穫バドル金巴カナハ楼々主の次男坊だ。ここらでは評判の美男子で、狩りの名手との誉れ高い。色好みで絶え間なく女たちとの浮き名を流しており、色恋沙汰がもとで決闘騒ぎを起こしたこともある。

 秧真は頬を膨らませていった。


「まあ先生ったら、からかわないで下さい。寧々の話では、栄穫バドルさまときたら、帝都全ての女性に文を送っているとのことですわ。それに他の方々も本気で誘っているわけではないことくらい、自分で分かります」


 秧真が己の容姿に引け目を感じていることは知っていた。金亀楼のような美女揃いの環境で育てば、どうしてもそうなってしまうのかもしれない。

 たしかに非の打ち所のない美少女ではないかもしれない。だが、ふっくらとした顔と少し垂れた目元には、見るものを微笑ませるような愛くるしさがあった。


「あの方たちにとって、私はこの金亀楼の娘ということが重要なのですわ。最近、お父さまのところには、あちこちから婚約の申し込みが毎日のように来るのですって。

 ほとんどが酒楼や妓楼の次男や三男坊。私のことなんてどうでもよくて、この金亀楼が目当てなのです。それを知っているお父さまも、縁談をすべて断ってくださっているのだとか」

「へええ」


 杷萬が娘を溺愛しているのは知っていたが、縁談を断っていたのは初耳だ。

 しかし、一つや二つならともかく、全て断るとはただごとではない。

 たしかにこの金亀楼の若旦那におさまり、気楽な左団扇を狙う輩もいるだろう。しかし、遅かれ早かれ秧真に婿を取らなければ、後継者に困ることになる。いったい杷萬は何を考えているのか。


「ですから先生、私だれともお祭りに行く予定はありませんの。もし……先生さえよろしければ、ご一緒いたしませんか?」


 ええ、喜んで――。

 そう答えようとするのに、喉元につかえたものが邪魔をして言葉が出てこなかった。それがなにか藍那には分かっている。

 あのとき、


 ――もし、おいやでなければ……ぼ、ぼくと


 紫園の言葉が耳の奥に残って、みぞおちの辺りが苦しい。

 その続きを聞きたいような、でも聞きたくないような、支離滅裂な気持ちに戸惑いを覚え、それがますます藍那の喉をつかえさせた。


「先生?」


 問いかけられて我に返った。悲しげな表情をうかべた秧真が


「やはり私と一緒ではいやですか?」


 そう訊ねてしょんぼりと肩を落とす。唇を噛み、今にも泣きそうな表情がさすがに哀れに思えて、藍那は首を振った。


「そんなことありませんよ。しかしお嬢さま、そのようにご自分を卑下されるのは、あまり感心できませんね。私から見れば、お嬢さまは充分に可愛らしい方です」

「本当ですか?」


 秧真の頬が染まり、目が輝いた。藍那は頷く。


「本当です。ですから諦めるのはまだ早すぎますよ。お嬢さまの良さやお人柄を慕って、誘ってくださる殿方がきっと現れます。それまで、もう少し待ってみませんか」

「で、でも……私は……その……」

「分かりました、こうしましょう。もしお祭りの前日まで、お嬢さまのお眼鏡にかなう殿方からの誘いがなければ、私がお嬢さまをお誘いしましょう。それでよろしいですか」

「は、はい!」


 嬉しさで満面の笑みをこぼした秧真に、藍那も微笑んだ。

 なんだかんだ言っても、秧真はまだ子どもっぽい。こうして自分に甘えてくるのも、母親がわりの年上の女性に甘えたい一心なのだろう。


「ではそのときは由真も一緒に行きましょう。もし由真が誰にも誘われていなかったら、の話ですが」

「は、はあ……」


 去年の祭りは由真と一緒に見物した。だが今年はもしかしたら申武サリムが由真を誘うかもしれない。

 もっとも彼の誘いを由真が受けるかどうかは分からないのだが。


「わ、分かりましたわ。先生がそうおっしゃるのでしたら……」


 秧真はそう答え、そそくさと部屋を出ていく。礼儀正しい彼女にしては扉を閉めるのも忘れ、足早に廊下を歩き去って行った。


 藍那は扉を閉め、佩いていた天星羅を腰から抜いた。

 灯火が剣身を照らす。柔らかな光に浮かび上がる龍と七星が、炎の動きに合わせてゆらゆらと躍る。

 視線をゆっくり剣尖へと滑らせ、やはり研ぎに出そうと決めた。


 見たところ刃こぼれひとつないが、天星羅がそれを望んでいるのが分かる。

 藍那にとってこの剣はただの武器ではなく相棒だ。相棒の言葉にこうして耳をすませるのも、生きのびる手段のひとつだった。


 文机に座り蔵人に手紙を書いた。男衆の一人に頼み届けてもらったのは翌日で、その翌々日に彼から返事が来た。

 返事は時候の挨拶からはじまり、蔵人も花蓮も息災であることを告げる。しかし肝心の用件の下りに、藍那は胸が騒ぐのを覚えた。


 * * *


 研ぎの件ですが、しばらく夫婦で気ままな旅に出るので、そのあいだ店を閉めることにしました。晴夫セイフ(いつも天星羅を頼む研ぎの職人だ)には研ぎの件は伝えておきますので、彼のところに直接行ってください。


 それはそうと、実はあの剣のことで折り入って話があります。

 新月斎ヒラルの夜、華人街は東大参道の香良コーラ楼で待っております。

 くれぐれもお一人でお越し下さいますよう。


《蔵人》


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