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才に応じた道

 乙女月の満月から奥尔罕オルハン断食月サウムに入る。

 日が昇ってから夕刻の祈りの鐘がなるまで、水以外口にしない。朝と昼に感謝の祈りを捧げ、夕刻の鐘がなってようやく食事が出来るのだが、その内容も戒律によって決められていた。


 四つ足の生き物と酒は禁止。豆と魚介類、野菜、茶は口にすることを許される。普段、禁忌とされているタコやイカ、うなぎなどのうろこのない魚も、この時期だけは解禁された。


 あちこちの酒家や飯屋でうなぎやイカの揚げ物が供され、人々は年に一度の楽しみとこぞって口にする。

 特に色よく揚げられたうなぎはこの上なく美味だ。これを食べたさに断食月を楽しみにしている者も少なくない。


 そしてもう一つ。断食月に入ると、若い男女がにわかに落ち着かなくなる。娘たちは祭りの誘いをそわそわと待ち焦がれ、一方、若者たちはどの娘を断食明けの感謝祭に誘うか、仲間内で大いに盛り上がるのだった。

 

 嫁入り前の娘たちは異性との接触を厳しく制限されている。

 社交的な挨拶ならまだしも、男と二人きりになることははしたないこととされ、ましてや連れだってどこかへ出かけるなどもってのほかだ。


 しかし感謝祭の三日間だけは例外だった。

 男たちは普段好ましく思っている娘を祭りに誘うことが許され、一方娘たちは誰から誘いを受けたかを自慢しあう。どこそこの娘が街で評判の美男子に誘いを受けたらしいと噂し、そのかしましさはこの金亀楼とて例外ではない。


 蚊帳の外なのは娼妓と既婚者、あるいは杷萬のような男やもめや未亡人、そして女用心棒だ。

 由真は面白がって、賄い方で聞いてきた噂話をせっせと藍那に教えてくれる。おかげで下働きのものたちの動向は手に取るように分かった。


 秧真ナエマの侍女、寧々(ネネ)が五人から申し込みを受け、結局は安瑛アンデレを選んだだの、振られた圓湖マルコがついでのように賄い方の雫水ダナを誘ってこっぴどく断られただの、いろんな話を聞かせてくれた。

 そんなたわいない話も、空腹を紛らわせるのには役に立つ。

 由真にも秧真にも


 ――先生は萬和の信徒ではないのですから、どうぞ遠慮なさらずに朝食を召し上がってください。


 そう言われているのだが、他のものたちが空腹を抱えている前で飯を食うのも心苦しい。夕刻までの辛抱なのだからと、こうして断食に付き合っている。

 それに空腹には慣れていた。

 今でこそ食うには困らないが、駆け出しの頃はなかなか仕事にありつけず、いつも腹を空かせていたものだ。


 空きっ腹を誤魔化すためにせっせと鍛錬にいそしみ、辻比武で名を上げる毎日。胴元からの分け前はささやかだったが、その銭で買ったかし立ての饅頭の、なんと美味かったことか。


 秧真といえば。

 今のところ、秧真に預けた剣に変化はない。毎日のようにわざわざ報告してくれるのでその点は助かっている。しかし断食月に入ってからはなにかと


 ――先生、先生はどなたかに誘われまして?


 と訊ねてくるようになった。藍那が笑って


 ――まさか。用心棒を誘うような物好きなんておりませんよ。


 と答えると、そのたび嬉しそうに顔を輝かせる。

 由真に聞いたが、秧真にも祭りへの誘いがあったそうだ。妓楼の三男坊や酒家の跡取り息子たちから、熱心に文を寄越された。

 しかしそれらの一切を断って、いまだに誰と出かけるか決めていない。娘をそろそろ婚約させたい杷萬としては、さぞ頭が痛いことだろう。


 紫園のほうも変わりはない。

 最近では厨房で包丁を持つ手も堂に入り、女たちが気味悪がって触ろうとしないタコやイカなどを率先してさばいている。他にも柴門や安瑛に言いつけられたことをせっせとこなし、夜になればお得意先の旦那衆に絵を描いておひねりをもらう。

 男衆たちから気味悪がられていたことも今では過去のこととなり、すっかり金亀楼になじんでいた。


 全ては上手くいっている。

 しかしなにか上手くいきすぎているような気もするのだ。


 泉李の大火、火元になった屋敷とそこに住まっていた画家。屋敷から消えた剣とそれを探して暗躍する泰雅の剣客。名は確か宮遮那クシャナ

 藩座が話した事実が、この平穏な状況に違和感を覚えさせる。まるで喉に刺さった小骨のように――。

 柴門が迭戈ディエゴについて、どこまで掴んでいるのかも気になった。


「由真、ずいぶんと書き取りが上手くなったね。短い間にここまで上達するのはすごいよ」

「えへへ、紫園さんの教え方のおかげですよ」


 不吉な陰がある、疫病神とまで言われた当の本人は、由真の言葉に照れたように笑う。夜は更け、金亀楼でひと仕事終えた紫園が由真に羅典語を教えていた。

 机上に広げているのは花蓮から借りた花言葉の本だ。花蓮に言われたとおり、今の由真は羅典語の勉強と翻訳に余念がない。


 熱心なことはよいのだが、貴重な本なのだ。手垢や折り目がつかないかと藍那のほうはハラハラしている。もっとも花蓮のほうは、貸すときにそんなことは了承済みであろうが。


 楽しそうな二人はとてもほほえましい。

 それなのに、なぜか寂しさが身のうちををすきま風のように通り過ぎる。二人の仲睦まじさに焦燥感すら覚えてしまう。

 そんな自分に戸惑いながら、藍那は視線を逸らした。


 窓際に座り、鞘から抜いた天星羅を仔細に検める。

 あの大立回り以来、派手なやりとりはないので刃こぼれはないが、そろそろ蔵人の店に研ぎに出す頃合いかもしれない。そんなことを考えながら丁子油を染みこませた布で丁寧に剣身を拭い、乾いた布で余分な油を拭き取っていく。

 黙々と作業に没頭していると


「先生、先生ったら」


 いきなり由真に声をかけられた。目を上げると由真がいぶかしげに藍那をのぞき込んでいる。


「あ、ああ?」

「もう、全然聞こえてなかったんですね。私、そろそろ部屋に戻りますから」

「そ、そうだったの。今日も頑張ってえらいじゃない、うん。由真はすごいね」

「もう、変な先生。じゃあまた明日。紫園さんもお休みなさい」

「おやすみ由真」


 紫園と藍那に手を振って由真は部屋を出ていく。てっきり紫園も一緒なのかと思いきや、彼のほうは出て行くそぶりもなく、なにか言いたげに立ったままだ。

 考えてみれば、こうして二人きりになることも久しぶりだった。そう考えると嬉しいようなくすぐったいような気になってしまう。


 しかし師匠たるもの、浮ついた表情を見せるわけにもいかない。あえて表情をかみ殺し、天星羅の手入れに没頭しているそぶりでゆっくりと作業をおこなった。

 ようやく剣身を鞘に収め、顔を上げて紫園と目を合わせる。深く息を吐き


「紫園、なにかその……私に用があるのかい」


 とぶっきらぼうに訊ねた。訊かれた紫園は姿勢を正し、顔を赤らめる。


「あ……は、はい」

「そうかい。だったらそんなところに立ってないで、座ったらどうだい」

「い、いえ、僕は、立ったままで……」


 赤らんだ顔を伏せ、そのまま沈黙していっこうに話を始める気配がない。藍那は立ち上がり、しばし考え、窓の鎧戸を閉めてから紫園に向き直った。


「これなら聞かれる心配はない。でもちょうどよかった。私も実は以前まえから紫園に話したいことがあってね。紫園が話しにくいなら、まずは私の方から話してもいいかい」

「……はい」

「じゃあ、そこに座りなさい」


 紫園はおとなしく由真が座っていた椅子に腰掛けた。藍那も窓際の椅子をその向かいに置き、天星羅を佩いてから着座する。


「それで、話というのはだね」


 膝上で両手を組み合わせ、ひと呼吸おいた。


「紫園、お前はこれからどうするつもりだ。お前の、自分自身の将来のことを、なにか考えているのかい」


 紫園は神妙な面持ちだったが、無言のままだ。


「ここにきたばかりのお前と今のお前じゃ、まるで違う。誰かが面倒を見なきゃならないほど頼りなかった。言葉も話せなかったしね。でも今のお前は、金亀楼の仕事もこなせているし、いろんな人から頼りにされている。

 絵のほうだって、なかなかの評判だっていうじゃないか。わずか半年足らずの間だけど、見違えるほどたくましくなったと思う。師匠として誇らしいくらいだ」


 藍那はそう言って笑ったが、紫園の表情はかたい。

 こわばった頬は色を失い、まるで死刑を言い渡される前の罪人のようだ。哀れだと思うが、あえて厳しい表情で藍那は続けた。


「だけどね、紫園。もしお前がこのままこの金亀楼にとどまるつもりなら、それは間違いだとはっきり言うよ。人にはそれぞれの才に応じた道がある。そこから逃げるのは臆病だ。私の言うこと、分かるだろ。お前のその才能を、無駄にしちゃいけない」


 言葉を切り、紫園の答えを辛抱強く待つ。目の前の彼はうなだれ、両肩をかすかに震わせていた。しばしの沈黙ののち、ようやく顔を上げて藍那を見つめる。


「では……僕は……もう先生の弟子ではないということですか」

「そんなことない。紫園が望むなら、私はずっとお前の師匠だ。お前の面倒を見るって決めた、だからそれを途中で放り出す真似はしない。

 でも私に教えられるのは剣術くらいで、絵を教えることはできないんだ。だからね……このまま私のそばにいても、お前のためにならないと思っている」


 もちろん――。藍那はひと呼吸おいて言った。


「画学校に行ったって、必ず宮廷画家になれるとは限らない。厳しい世界だからね。それに宮中ってのは、世渡りのうまさがものを言うもんだ。誰かを蹴落として自分を売り込まなきゃならないことだってある。

 優しいお前には向いていないかもしれない。それでも、やってみなけりゃ道は開かれないだろう? やってみて、挑戦して、やっぱりダメっていうなら、」


 藍那は立ち上がり、紫園の肩にやさしく手を置いた。


「また私のところに戻ってくればいいさ。そのときは私だってこの金亀楼にいるかは分からないけれど。でもどこに居ようが、お前の帰る場所は私だって――そう思ってくれればいい。約束する。それなら安心だろ?」

「先生……」


 紫園の顔に驚きと悦びが広がる、と思うやいなや、顔がゆであがりのタコみたいに真っ赤になった。椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、


「そ、それじゃ、せ、先生は……ぼ、ぼくと、ずっと、生涯、一緒に……」


 いや待て。

 紫園の反応に藍那もあらためて自分の言葉を反芻し、つられて顔が赤くなる。もしかしたら自分は彼にとんでもないことを誓ってしまったのではないだろうか。


「い、いや、それは……その……。あ、あくまでも、し、し、師匠として……」


 あたふたと両手を泳がせ、必死に弁明する。自分の顔も紫園に負けず劣らず真っ赤になっているに違いない――そう思い、なんとか師匠の威厳を保とうとしたが上手くいかなかった。

 落ち着かねばと息を吸って吐き出し、


「とにかく!」


 羞恥心を誤魔化すために両手に腰を当て、大声を出した。


「私の用事は以上だ。次は紫園の用事とやらを言ってもらおうじゃないか」


 まるでけんか腰である。とたんに紫園は口ごもり、しばらく困惑したように沈黙していたが、ようやく意を決したように顔を上げた。


「先生、あの……、実は……先生に訊ねたいことがありまして……」

「なんだい」

「先生は、その……お祭りには……誰か決まった人がいるんですか? どなたかに誘われているとか……」


 紫園の言葉に再び心臓が早鐘のようにトクトクトクと騒ぎ出す。

 まさか――いや、期待はすまい――。それに自分はあくまで彼の師匠なのだ。師は弟子の親も同然、そんな浮かれた期待など――。


「まさか、用心棒を祭りに誘う物好きもいないだろう」


 答えながら顔をそむける。どんな顔で紫園と向き合ったらよいのか分からない。それでも師の威厳を保つため、怒ったように口元を引き締め、腹に力を込める。


「そ、それで、いったい、それがなに……」

「あ、あの……もし、おいやでなければ……ぼ、ぼくと、ええと、お、おま」


 紫園が言いかけたそのとき、


 ダンダンダンダンダンダンダン――!

 

 ぶち破らんばかりの勢いで扉が叩かれた。


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