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師弟の契り

 水場から桶に水を汲んできた。それを顔にかけてやると藩座は目を覚まし、のっそりと起き上がる。蹴りの当たった右手を握っては開き、指の動きを観察する。


「すこし痺れるだろうが、明日には治っているはずだ」

「どうも不思議な打撃ですな。皮と肉にはまるで効かないのに、骨に直接衝撃が届く」

「なに、発勁のちょっとした応用だ。たいしたことじゃない」


 流れる滴も拭わず、藩座は深々と頭を下げた。


「さすが先生だ、お見それしました。功夫コンフーの違いを見せつけられた思いです」

「それにしてもずいぶんと鍛錬を積んだようだね。ここに来たときとはまるで別人のような動きだった」

「いや、それを言われるとお恥ずかしい。たった三月みつき前ですが、あの頃を思い出すと穴に入りたい気分ですよ」


 大きな手のひらで水をはらうように拭う。その表情は晴れやかで清々しかった。


「これほど鍛錬を積んだのに、きっぱり止めてしまうのも惜しい気がするけれど。でも潔いのが藩座らしいね。魯米利でも元気でやっとくれ」


 固い握手を交わす。だが大きな手のひらは藍那の手をしばし離さず、奇妙に思って見上げた先に、何か言いたげな表情があった。


「先生、このお話は出立の前に、どうしても先生のお耳に入れておこうと思っていたのですが……」

「話……?」


 ようやく大きな手のひらが離れた。


「はい。先生は東大参道の呉椅ゴイスのところで、頬に火傷をした男に会いましたね」

「……たしかに、会ったね。」

「彼は韋蛮イヴァンといって、遙水バルナの講武所で一緒だった男です。なかなかの腕でしたが、それがしより前に遙水バルナを飛び出しましてね」


 右手の木剣を眼前に掲げた。


「これは華羅人街の《狼々(ロウロウ)軒》で買い求めたものです。店は小ぶりだが、実にいい品を揃えておりますな。その帰り、東大参道で奴に会いました」

「それはいつだい?」

「先生が呉椅ゴイスの茶館で一悶着あった日の、少し前のことです。」


 酒家の店先でばったりと再開し、懐かしさのままに杯を交わした。


「そこでいろいろ話したんですがね、奴は半年ほど前まで泉李イズミルに住んでいて、あの大火に遭ったらしいです。泉李でもおおきなシマを取り仕切る、播帑ハリドのところで用心棒を務めていたようで」


 播帑――その名前に聞き覚えがあるような気がした。いったいどこで聞いたのだったか。


「あの大火のすぐあとで、親分の播帑は亡くなった。火事で焼けた街をあとにして、荒秦アラジン一家に世話になることにしたようで。なんでも荒秦と播帑は昔からの兄弟分だったとか」


 杯を重ねるうち、酔いに任せて韋蛮イヴァンが打ち明け話を始めた。


 ――実は俺はいま、この街である男を捜していてな。目が紫色の若い男なんだが、藩座、おめえ知らねえか?


「それで教えたの?」

「とんでもない。それに珍しい色だがこの世に二つとない――ってわけでもない。もしかしたら人違いってこともある。だからそれがしはなにも答えませんでした」


 だがなぜ韋蛮イヴァンが紫色の目の男を捜しているのか。

 好奇心から藩座は巧みに酒を勧め、詳細を聞き出した。昔からこの男が酔うと口が軽くなるのを知っていたからだ。

 

 酔いの勢いで韋蛮イヴァンが口にしたのは、実に興味深い事実だった。

 荒秦一家に少し前からある剣客が滞在している。名は宮遮那クシャナといってそのなりから泰雅の出身だと分かる。整った容貌に一つに編まれた銀色の髪。涼しげな双眸そうぼうはまるで抜き身のように鋭利で


――ありゃな、数え切れないほどの人間を虫のように殺してきた目だぜ。


 韋蛮イヴァンはそう言った。

 なぜ荒秦一家に寄宿しているのかは不明だが、驚くことに彼は韋蛮イヴァンを名指しで呼び出した。そして泉李で焼死した貿易商の巧瑠(ウマル)について、あれこれと訊ねたのである。


巧瑠ウマルというのは泉李でも指折りの商人で、廻船業や香辛料やら手広くやっていたそうです。だが裏では麻薬ハシシの取引に手を染めていて、播帑ハリドとつながりがあった」


 巧瑠ウマルには四人の妻の他に瑚々(ココ)という妾がいて、裏商売のことは瑚々が住む館で行っていたらしい。

 巧瑠が住まう大邸宅より離れた場所に館はあった。そこそこ裕福な文官や武官たちが居を構える閑静な屋敷町である。


韋蛮イヴァン麻薬ハシシの取引で、何度もこの屋敷を訪れたことがあったそうです。妾の瑚々はもとは酒楼の踊り子で、彼女を世話したのも播帑ハリドだ。実は播帑ハリドのお下がりだという噂もあったらしいですがね。この瑚々の屋敷が、どうも大火の火元なんじゃないかと役人たちがかぎつけた」

「ほう」

「瑚々の屋敷にはお抱えの画家が一人、居候していた。彼が描いた瑚々の絵を巧瑠ウマルはたいそう気に入って、屋敷に住まわせ、面倒を見る代わりに何枚も絵を描かせたそうです。画家の名は迭戈ディエゴといって、これがなかなかのいい男だったようで」


 藍那の脳裏で何かがうっすらと像を結び始める。泉李の大火、火元になった屋敷、そしてそこに住まっていた一人の画家……。


「もしかして、その画家の目は紫色――」

「ご明察。瑚々と迭戈ディエゴは男女の仲だったそうですよ。それは巧瑠ウマルも黙認していたようです。おまけに巧瑠は珍しい武具の収集に凝っていて、妾宅の地下に宝物庫までつくっていた。

 古今東西の名剣や魔剣、槍や鉾のたぐい。頑丈につくってあったので、あの大火でも燃えることはなかったのですが、剣が一振り、大火のあと忽然と消えたそうです」

巧瑠ウマルはその夜、妾宅には居なかったの?」

「奴さん、その晩は本宅に居たそうで。その屋敷も燃えてしまいましたが。巧瑠は大火傷を負って火事から四日後に死んでます。火元になったらしい妾宅のほうはといえば、瑚々(ココ)や使用人の焼死体は見つかったのですが」


 藩座はそこで言葉を切った。


「死体が一人、足りないそうなんで」

「一人足りない」

「瑚々と使用人たち、そして画家。その夜屋敷にいたはずの人数と、見つかった死体の数が合わないそうです」

「つまり、誰かが剣と一緒に消えた、と」

「役人はそう考えて、剣とその誰かを血眼で探していた」

「ふむ」


 そこまでは杏奈が羽箭ハヤから聞いたことと相違ない。

 巧瑠ウマルが宝物庫に収めていたのは例の剣、龍三辰ルシダで間違いないだろう。だが龍三辰はその後、少なくとも二人の手に渡り、持ち主はいずれも悲惨な死を遂げている。宜栄ヤロヴァの金持ちと振茶ブルサの両替商。

 いや、確かもう一人――。


「たしか播帑とかいう親分は火事のあと亡くなったのだったね。彼はある男に役人たちが探している剣を闇で売って、それから間もなく死んでいる」

韋蛮イヴァンの話じゃ、剣を手放したあとの播帑は明らかにおかしかったそうです。まるで人が変ったように陰気になって、寝室から出てこなくなった。情婦バシタが気味悪がって様子を見に行ったら案の定、首を吊って死んでいた――という訳です」

「自殺だったってことか」


 これで三人、あの剣がもとで不慮の死を遂げた。そして剣は振茶ブルサの古道具屋から蔵人へ渡り、あの日藍那のもとへと。

 あのとき、宮遮那クシャナとかいう剣客は藍那たちを茶館で待ち伏せていた。それは帝都に消えた剣と画家がいることを、前もってつかんでいたことになる。


「つまり、剣客の目的は消えた剣と画家を探すこと。妾宅で画家を見ている韋蛮イヴァンに紫色の目をもった男を捜させて、首実検させようってことか」


 藍那の言葉に藩座はうなずき、重苦しい沈黙が流れた。

 今の話が真実なら、紫園は迭戈ディエゴという画家に相違ない。彼が妾宅から剣を盗み出し、屋敷に火をつけて姿をくらませた――そう考えれば合点はいく。

 だがそれなら――。


 なぜ杏奈の妹一家の焼け跡に倒れていたのか。記憶と言葉を失ったのか。

 彼が剣を盗んだのなら、なぜ播帑の手に渡って闇で売られたのか。それまでして手に入れた剣を手放してしまったのはなぜなのか。

 考えれば考えるほど、分からないことだらけだ。


「先生、大丈夫ですか?」


 藩座の呼びかけにふと我に返った。天星羅の柄をきつく握りすぎた手のひらが痛い。ため息をついて、藩座を見据えて訊ねる。


「藩座、なぜそれを……そんな大事なことを、今まで黙っていた?」

「逆に伺いますが、先生はあの紫園に惚れていなさるので?」


 惚れている――その意を理解すると同時に顔に血が上る。


「そ、そんなんじゃないって! し、紫園はただの、で、弟子だから! 惚れているとか、そういうのじゃ――」


 耳まで真っ赤になっているのが自分でも分かった。

 必死で否定する自分がとても滑稽に思えて、穴があったら入りたいくらいだ。

 どうしてこんなに顔が熱くなるのだろう。本当に、紫園のことなんてただの弟子としか思っていないはずなのに。


「ではあの男との師弟の縁を切って、彼をこの阿耶から追い出せとそれがしが言ったとしたら?」


 そう問いかける藩座の目はどこか悲しげだ。


「それは……それはできないよ。彼を弟子にして、ちゃんと面倒見るって約束したからね。一度師弟の契りを結んだからには、最後まで筋は通すつもりだ」

「やはり、そうおっしゃると思っていました……。ですがね先生、それがしは今すぐにでも、あの男をどこか遠くへやってほしいのです。 

 言っちゃ悪いがいやな予感しかしないのですよ。あれにはなにか不吉な陰がある。疫病神ってやつです。しかしそんな話を聞いたところで、義に篤い先生が筋を曲げるわけはない……そう考えておりました」


 藩座は巨躯をおりまげるように深々とこうべを垂れた。


「しかし黙っていたことには詫びを申します。もっと早くお伝えしていたら、先生がお怪我を負うこともなかった」

「この話は、今までには誰にも?」

「しておりません。しかし……」

「しかし?」

「もしかしたら、柴門は何かを感づいているかもしれません」


 目を剥いた藍那に藩座は言った。


「実は先生が泰雅の剣客に襲われたあと、どうしても腹に据えかねまして、韋蛮イヴァンの住まいを訪ねたのです。奴の住まいは南の蟑螂ビョジェイ通りにありましてね。一発ぶん殴ってやるつもりで勇んで行ったのですが」


 蟑螂ビョジェイ通りといえば、帝都でも指折りの貧民街である。その筋の者が多く住まうことで知られ、掏摸や物乞い、私娼たちの巣窟だ。


「野郎、どうも姿をくらましたらしく、向かいの因業婆……いや老女に訊ねたところ、先生と一悶着あった日から戻ってきていないようでした。なにか分からないかと金を掴ませていろいろ聞いたところ、奴を訪ねて来た男が他にもいたようで」

「それが柴門――だった?」

「その男はもし韋蛮イヴァンが戻ってきたら教えて欲しいと、老女に金を渡して去ったそうです。金亀楼の柴門を訪ねろと。どうも紫園のことを、あれこれ嗅ぎ回っているようですな」

「そうか……」


 柴門はどこまで知っているのか――。

 腰に手を当て、しばし瞑目してから藩座を見据える。


「藩座、話してくれてありがとう。だがもし紫園がその迭戈ディエゴだったとしても、彼が屋敷に火を放ったのか、宝物庫の剣を盗み出したのかはあくまで憶測でしかない。いずれ真実が明らかになるまでは、このまま紫園を見守っていこうと思う」

「先生がそのおつもりなら、それがしに言うことはなにもありません。まさに侠客の鏡ともいうべき心意気、恐れ入ります」


 再度一礼し、藩座はその場を去って行った。藍那は大きなくしゃみをし、いつの間にか夜風で身体が冷えていたことを知る。

 瞬く星々をちりばめ澄んだ夜空は、すっかり秋の気配であった。



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