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藩座(ハンザ)

 泰雅の剣客を遣わした黒幕はいったい誰なのか。

 龍三辰ルシダを血眼で探しているという州知事のこともある。どうやらあの剣には藍那にも分からない、さまざまな思惑が絡みついているらしい。


 剣は今、秧真ナエマによって藍那も知らない場所に隠されている。それを知るのは藍那と秧真の二人だけ。万が一にでも彼女が危険な目に遭わぬよう、細心の注意を払っていた。

 それが功を奏しているのか、今のところ怪しげな動きは感じない。

 しかし、自分のあずかり知らぬところで何かが動いているというのが藍那は苦手だ。絶えず気を張っていなければならず、たいそう疲れる。


「ちょっと身体でも動かすか」


 天星羅を掴み、戸を開けて廊下へと出た。

 いつも套路は深夜の中庭で打つ。だがまだ宵の口とあって、客たちと娼妓が散策を楽しんでいる。そんな場所で剣を振るうわけにもいかないので、まっすぐ裏の水場へと向かった。


 幸い満月まで五日の夜、空にはやや丸みを帯びた月が中空にかかり、地を照らしてくれている。套路を打つには充分な明るさだ。


 水場で意外な人物に会った。三人でここの支払いをごね、藍那にこめかみを打たれて悶絶した大男、藩座ハンザである。

 先日厨房に配置換えされ、慣れない包丁を扱っていたが、ようやく杷萬への借金を返し終わって他の二人ともども自由の身となった。


 明後日、三人の故郷である蘇曼シュメンにそろって出立する予定だが、そのあと遙水バルナという港町で小さな酒楼を開くのだとか。

 それを聞いたとき、藩座がせっせと料理を習っていたのはそういう訳だったのかと微笑ましく思ったものだ。


「先生、こんな時間にこのような場でお会いするとは、なんとも奇遇なことですな」


 藩座は目を丸くする。そう言う彼は手ぬぐいを使い、汗にまみれた上体を拭っているところだった。傍らには使い込まれた古い木剣。

 そういえば、あの騒動の発端になった彼らの剣は、無情にも杷萬によって売り払われたと聞く。こうして木剣を遣っているところを見ると、まだ買い戻してはいないらしい。


「そういう藩座こそ鍛錬かい。出立で忙しいだろうに、ずいぶんと精が出るね」


 そう言うと照れくさそうにこめかみを掻いた。


「先生に言われるとお恥ずかしいですな。ただ今日が剣の降りおさめです。どうもそれがし、剣より包丁を握る方があっていたようで」

「そうか……」


 つまり剣の道を捨てるということだ。だが藍那に負けたとはいえ、藩座の腕はけっして悪くはない。このまま鍛練を積めば、どこかの講武所の師範代に収まることだって……。

 そんな考えが顔に出たらしい。藩座は白い歯を見せて首をふった。


「ここで暮らして三月みつきあまりになりますが、己の身の程がよく分かりましたよ。講武所の師範代なんぞ、それがしのような田舎者にはつとまりませんや。

 帝都じゃ魯米利ルメリは辺境も辺境。武勲貴族の三男四男がひしめき合う講武所じゃ、田舎武芸者がのこのこと出かけたところで、番付表の下でくすぶるだけですわ」

 

 あっさりとそう言ってのける。

 魯米利ルメリとは奥尔罕の西域、かつての正十字教国領の総称だ。

 藩座たちの故郷、蘇曼シュメンはその魯米利の北部、難攻不落を誇った教国の要塞があった地である。百年ほど前、要塞は奥尔罕の攻略に遭い陥落。蘇曼シュメンを含む多くの地が奥尔罕の領地となった。


 かつて華羅の領地だった州――藍那の故郷である――は古来より水運と国境警備の要とされた豊かな土地で、それ故文化的な香りが高く、著名な文人が多く庵を構えた。


 しかし魯米利ルメリは土地の多くが険しい山岳地帯で、民の生業なりわいは主に遊牧である。男たちは筋骨たくましく武芸に秀でているが、それは羊を狙う狼や熊と戦うためだとまことしやかに言われていた。

 長男は家業を継ぐが、次男三男は食い扶持を稼ぐために傭兵になるものも多い。


 そんな背景から、帝都では魯米利ルメリを程度の低い田舎と鼻で笑う風潮があった。出稼ぎに帝都に出てきても、魯米利出身のものたちは総じて肩身が狭い。

 若いころ、藩座たちはそんな故郷を飛び出した。

 遙水バルナは魯米利のなかでも古来より栄えた港町で、そこの講武所(とは名ばかりの無頼のたまり場だったらしい)で剣を習った。

 めきめきと頭角を現し、無敗を誇り、凄みをきかせて妓楼の支払いを踏み倒すことを覚えたのもこの頃だ。


 しかし栄えている港町とはいえ、所詮は北の辺境。

 こんな場所で終わってたまるか、帝都でもその名を轟かせてやると意気揚々と阿耶へとのぼった。着くなり景気づけと敷居をまたいだのが上楼のなかの上楼、金亀楼だったのが運の尽きだ。

 まさかこんな小娘にこっぴどくやられるとは、夢にも思っていなかっただろう。


「まあ、先生のようにどこかの妓楼の用心棒って口もありますがね。旦那さまの伝手を辿れば見つからないってわけでもない。でもですなあ、先生の套路とうろを見ていて、どういうわけか、剣術への未練ってのがすっかり消えてしまったんですよ。あんな套路を見せられちゃ、それがしなんぞは黙って剣を置くしかない」

「藩座……」

「幸いなことに、料理ってのが好きになりましてね。亜慈さんにはずいぶんと鍛えてもらいました。半端ものの剣術やっているよりは、すっぱりやめて酒楼の商いに精を出そうと思います」

「そうか、そこまで考えているなら私が口を出すことはないよ。頑張っとくれ」

「痛み入ります。そこで先生、最後のわがままなんですがね。どうかそれがしとお手合わせ願えませんか」


 汗を拭いた身体に袖を通し、襟を正した藩座に藍那もうなずく。


「分かった、でもお前は木剣。それなら私も木剣を使おう」

「いえ、そのままで構いません。実力の差は分かっておりますので」

「……承知した」


 木剣を手にした藩座が水場より奥へと先立ち、藍那も続いた。

 妓楼の裏手、かすかに糞便の匂いがただようのは厠が近いせいだ。そういえば柴門シモンたちに殴られていた紫園を助けたのもここだった。


「では、尋常に勝負願います」


 振り向きざま藩座が木剣を八相に。対する藍那も天星羅を抜き、剣首に剣指を添えたいつもの構え。

 互いに探り合いの時間が過ぎた。

 武器が木剣とはいえ、相手は藩座。なめてかかると痛い目を見る。距離を測りながら初手の頃合いを慎重に伺う。見合っているだけなのに既に斬り合いは始まっているも同然で、かすかな息づかいさえも聞き逃すことができない。


 仕掛けたのは藍那の方からだ。

 左の中段から立て続けに様子見の斬撃を繰り出す。それを受けた藩座の木剣は意外な軽やかさで防御に回り、続けて天星羅の剣筋を絡め取ってはねのけた。


 間を置かず藩座から鋭利な突きが繰り出され、続けて右払いのなで斬り。

 すかさず藍那は地を蹴った。背後へと宙返りながら下がり、電光石火の中段連斬りと斬り結ぶ。藩座の木剣は意外なほどの重さで天星羅と打ち合い、流れた勁力が夜陰に沈む空気を音もなく震わせた。


 五合ほどの打ち合い。

 一連の動きのなかで生まれたわずかな隙を見逃さず、藍那は踏み出した左の軸を回転させた。

 鋭い中段蹴りが藩座の利き腕を狙う。

 踵足ていそくが太い手首を弾く。


「くっ!」


 飛び退いた藩座が剣を構えなおした。

 同時に藍那も目の高さに天星羅を構える。

 この木剣の硬さと重さ――。おそらくなかに細い鋼を仕込んである。膂力りょりょくを鍛えるための鍛錬用の木剣だが、これを軽々と扱う藩座は並大抵ではない。

 しかし――。


(やはり以前の藩座とは違う)


 剣を合わせて分かった。以前のような全てを力で押す単調さがない。防御を攻に転じる、双極剣に通じるしなやかさをまとっている。おそらく藍那の套路を見て学び、彼なりの功夫コンフーを積んだのだろう。


(ならば私もその心意気に応えるまで)


 震脚で間合いをつめ、袈裟懸けで誘った。しかしさすがにそれには乗らず、沈ませた巨体から滑るような蹴りが足元へ繰り出される。


 跳躍でかわした藍那へ続けての肘打ち。

 中腰からの追撃は体格差を有利に生かした故の戦略か。しかしわずかな差で藍那の転身がまさり、ひるがえった身体が勢いのままに踵で藩座の右側頭を狙う。

 逃げる隙はない。悟った藩座が利き腕の肘で受けた。再び距離を取り、蹴りの重さに顔をしかめた藩座がゆっくりと立ち上がるのを待つ。


 次に仕掛けたのは藩座だ。数度の打ち合いののち、中段と見せかけての逆袈裟懸けから一気に木剣を振り下ろす。

 脳天をかち割る勢いの一閃を紙一重でかわし、この時を待っていたとばかり藍那は脇へと踏み込んだ。


 逆手に構えた剣首を横腹へたたき込む。

 打ち込んだ勁に確かな手応えがあった。やがて低くうめいた藩座が、どっと地へ背中から倒れ込む。


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