噛み合う歯車
乙女月になり、新月が過ぎた。厳しい暑さは少しずつであるが和らいで、空が徐々に高さを増す。慈衛堵たちも避暑先の魏湖からもどり、愛紗は約束どおり藍那と由真に桜桃の砂糖漬けを買ってきた。
金亀楼では杏奈が弦楽の稽古を再開し、週に二日、姿を見せている。妹の友人だった羽箭とはあれから何度か書簡を交わし、互いの息災を確かめ合っていた。
羽箭が記したところによれば、泉李は市場も活気を取り戻し、焼け落ちた寺院の再建も進んでいるという。剣の聞き込みをした役人が再度、家を訪ねてくることはなかったそうだ。
花蓮から羅典語の本を貸してもらった由真にも変化があった。
藍那から勉強を教わっているのは相変わらずだが、ときおり紫園からも羅典語を習っている。そして花蓮から借りた花言葉の拙い訳を、せっせととっておきの帳面に書きつけていた。
藍那や紫園を伴って陦蘭の工房へ行くこともある。
紫園が話せるようになって、陦蘭から羅典語を習う必要がなくなった。しかし工房で見た火薬の花に心を惹かれ、錬金術に興味が湧いたらしい。
陦蘭に会う度いろいろ質問責めにして、彼の答えに目を輝かせる。
陦蘭のほうも、由真が好奇心一杯であれこれと訊ねるのが嬉しいようだ。
茄瑠によれば最近は由真の訪れを楽しみにしているらしく、そのために実験の日をずらすこともあるとか。
研究に関しては偏屈一辺倒の陦蘭が、えらい変りようである。
「先生、今日ね、陦蘭さんが『由真ちゃんが学校を出たら、弟子にすることも考えている』って仰ってくださったんです」
藍那の夕餉の膳を整えながら、由真は嬉しそうに報告した。
断食月まであと五日の夕刻だった。断食月は乙女月の満月から天秤月の満月まで。戒律により乙女月の上弦が過ぎると、食事はいっきに簡素になる。その日の夕食は扁豆の煮込みであった。
「へえ、すごいじゃない。あの陦蘭がそこまで言うなんて、きっと由真に見所があるからだよ」
「えへへ、なんだか夢みたいです」
「夢なんかじゃない。由真が頑張って羅典語を勉強しているからよ。学校に行って励めば、きっと陦蘭の弟子になれる」
「でも先生……、本当にいいんですか?」
煮込みとは名ばかりの薄い汁物から顔を上げる。申し訳なさそうな顔の由真と目が合った。ここのところ背も急に伸びはじめ、着古した袴の裾丈が足らなくなってきたほどだ。
「もう、そのことは何度も言ってるでしょ。私がそうしたいんだから、由真が気にすることないんだよ」
「でも先生がわたしのために、残りの借金を肩代わりまでして下さって」
由真を引き取るために貯めた金は、ざっと金幣十二枚。しかしそれを差し引いても、借金を全て返済するのにあと五年はかかると杷萬に言われた。
彼女を学校に入れるのにそんなに待ってはいられない。交渉の結果、残りの借金を藍那が肩代わりする形となったわけだ。
来年の春に由真を養女にして、夏を入学の支度にすごす。そして乙女月の始まりと同時に由真を学校に入れよう――それが藍那の計画だ。
苦笑を浮かべ
「ま、用心棒のしがない稼ぎじゃ、お前を引き取るには充分じゃなかった。私の甲斐性がなかったせいだからね、なにも由真のせいじゃない」
「先生……」
「なに、あと五年ここにいるのも悪くない。居心地はこれまでの仕事じゃ一番だもの。お嬢さまにも良くしていただいているしね。由真が立派な錬金術師になるのを、楽しみにしているよ」
「……でも、そのあいだに、紫園さんのことはどうするのですか?」
「し、紫園?」
飲みかけの汁に思わずむせそうになった。
紫園のことを問われたとたん心にさざ波が立つ。まるで小石を投げ込まれた水面のように。
「な、なんで……紫園のことが……」
顔を赤らめ咳き込む藍那に、由真が慌てて水を差しだした。
「先生、大丈夫ですか? はい、お水です」
「あ、ありがと……」
水を飲み、深呼吸をする。ようやく一息ついた藍那に由真が続けた。
「だって、紫園さんは先生のお弟子さんですし、前は王宮附属の画学校に入れたい――って仰っていたではないですか」
「ま、まあね。でも画学校のことは、紫園に行きたくないって断られちゃったし。彼をどうするか、私もいささか困っているんだけど」
「紫園さんは……ずっとここに居てくれるでしょうか」
遠い目で由真は言った。
「このごろ思うんです。紫園さん、ある日何もかも思い出して、ふっと居なくなっちゃうんじゃないかって」
「由真……」
「そんな心配、しても仕方がないって、分かってるんですけど」
首をかしげ、どこか悲しげに微笑む。そんな由真に掛ける言葉が見つからず、藍那は空になった煮込みの椀を黙って卓上に置いた。
* * *
由真が出て行ったあと、寝台に寝そべりながら天井を見上げる。
今は宵の口、妓楼は宴もたけなわの頃である。弦楽と太鼓の音色に耳をすませながら、深いため息をついた。
(ある日何もかも思い出して、ふっと居なくなっちゃう……か……)
由真があえて口にしたのは、実際にそれが起こって欲しくないからだろう。
口がきけるようになって以来、紫園と由真のなかはますます睦まじく、ほほえましいものになっている。紫園は実妹のように由真を可愛がり、由真は実兄のように紫園を慕っていた。
かみ合わなかった歯車がようやくかみ合って、いい方向へと進んでいる。
東大参道での一件から、紫園の周囲が少しずつ変り始めていた。
男衆たちから距離を置かれていたこともそうだ。柴門からあれこれと用事を言いつけられ、それをいやな顔ひとつせずこなしたことがいい方向へと働いた。
杷萬に馘首にしてほしいとまで言っていた柴門に、どういう心境の変化があったのかは不明だ。だが最近ずいぶんと紫園に対して面倒見がいい。
もっとも柴門という男は一見強面であるが、由真や他の下働きの子どもには優しく、憎めないところがある。だから紫園のことをどこか放っておけないのかもしれない。
紫園といえば、話せるようになってからも人見知りなのは相変わらずだ。しかしそこは容姿の良さがものをいう。賄い方の女中をはじめ、出入りの洗濯屋、卵売りの老女にいたるまで女性たちからの覚えはめでたい。
以前は彼を無視していた娼妓たちからも、今では何度も呼び出しがかかる。紫園は妓楼で働く男にしては珍しく初心だ。だからついからかいたくなるのだろう。
たいていがつまらぬ用事なのではあるが、必ずと言っていいほど顔を真っ赤にして戻ってきた。
わずかではあるが、好きな絵で稼ぐようにもなっている。
このところ常連の依頼で娼妓たちの似顔絵を描くことがあり、それで心付けをもらっているのだ。もらった分をそっくりそのまま藍那に渡そうとしたのを
――それは紫園が稼いだものだからね、好きなように使えばいいさ。
と言ったら使わずにせっせと貯めているらしい。
好きな絵で報酬がもらえるのは良い刺激になるのだろう。仕事の手が空いたわずかな暇を見つけては写生に励み、研鑽に努めている。そんな姿を見るにつけ、画学校に行かないことがつくづく惜しいと考える藍那であった。
だがそれを言うのは贅沢というものかも知れない。
記憶をなくし素性も不明。
分かっているのは彼が《笆癩の民》であるということだけ。
そんな彼が行き倒れになることもなく、こうして真面目に働いて日々を暮らせている。それだけでも喜ばしいことだ。
それなのに。
心の奥底にもどかしいなにかがうずくのだ。
自分を師と仰ぎ、子犬のように慕ってくれる紫園。彼の面倒を見ることになったのはこの天星羅との係わり、そして彼の過去と正体に興味があった――ただそれだけのことだった。
しかしそのようなことも今さらどうでもよく、懸命に金亀楼で働く紫園を弟子として大切に思っている。
弟子として――。
だがあの時、泰雅の剣客から自分を助けてくれた紫園のことを、彼のもう一つの姿を、頭から振り払うことが出来ない。
――まったく、無茶しやがって。
そうぶっきらぼうに言った口調も、剣客をいなした太刀筋も、すべてが鮮明に脳裏に焼き付いていた。そして自分を抱き上げてくれた腕の力強さ――。
――大丈夫だ。安心して、金亀楼につくまでおとなしくしてろ。
思い出すたび、心の臓が締め付けられるように苦しくなる。
これまで誰かにそんな気持ちになったことなどなかったのに。
女々しい自分をしっかりしろと叱咤しても、ふとなにかの拍子に思いを馳せてため息をついてしまう。
もちろん、そんな己の悩ましさを誰かに打ち明けたことなどない。だが先ほどのように唐突に紫園のことを訊ねられると、思いの外動揺してしまう。
男女のことに疎い由真は気づかなかっただろうが、これが愛紗だったらと思うと冷や汗が出る。
しかし――。
由真に言ったとおり紫園をこれからどうするか、いささか決めかねていた。
だが藍那の浮ついた気持ちはともかく、彼の身の振り方をいま一度、きちんと考えた方がいいのだろう。
本当の氏素性がどうであれ、彼には高い教養と絵の才能がある。このまま金亀楼の下男として収まってしまうのはあまりに惜しかった。
(だが、泉李の大火を起こしたのが紫園だったとしたらどうする?)
それを何度も考えた。しかしどれだけ考えても結論が出ない。
よしんばそうだったとしても、記憶を失い、紫園として日々を懸命に生きている彼を責めることは出来なかった。
それに希望がないわけではない。
例の剣――龍三辰は荒羅塔に納められたのち、強力な結界に守られる。龍三辰が外への力を失うことで、紫園とのつながりも断たれるはずだ。それが良い方向に転じて、紫園が記憶をずっと失ったままという可能性だってある。
このままなにもおこらず、無事平穏に荒羅塔から戻れますように――。
そう祈るよりほかない。
とりあえずあの剣を結界寺院に封じ込められれば、いろいろなことが収まるべき場所に収まるような気がするのだ。
(もっとも、そううまく事が運ぶかどうか――)