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杷萬との朝食

 朝餉の前、杷萬ハマンはいつも書斎にいる。扉を開けて入ってきた藍那を見てにやりと笑い、


「元気になって何より。ですが、寝ていた分は給金から引かせてもらいますんで、どうかその点はご了承願いますな」


 と言って水煙管の煙を吐いた。それでも医者代だの薬代だの言わないのがこの男らしいところで、藍那は単刀直入に話を切り出す。


「例の剣ですが、無事ですか?」

「蔵人さんのお言いつけどおり、金庫に保管してあります。鍵はあたしが肌身離さず身につけておりますが」

「ご配慮痛み入ります。このあと、《大尊》にそれを納めにいくつもりです」

「ふむ。ですが、その前にぜひともご説明願いたいものですな。あの、」


 そのとき扉が開いて女中のセツが顔を出した。


「旦那さま、ご朝食の支度ができましたが……まあ、先生」


 節は藍那の姿に目を細める。そもそも藍那がこの金亀楼に雇われるきっかけとなったのが、秧真と節を無頼から助けたことだった。母のいない秧真にとっては親代わりであり、藍那にとっては少々お節介な親戚のおばさんのような存在だ。


「まあ先生せんせい、ハレムでみんな心配したんですよ。ほんとうに、お元気になって本当によかったですわ」

「ご心配をおかけしてすみませんでした。旦那さまの朝食でしたら、私の用事を終えましてからすぐに――」

「ああ、そうですね。もちろん先生の分もこちらにお運びいたしますわ。ええ、もちろん」

「あ、いえ……」

「はいはい、すぐにですね。ええ。ではでは」


 節はそう一人で納得し、藍那の返答も聞かずにさっさと出て行ってしまった。苦笑した藍那に主人の杷萬は肩をすくめ、水煙管を咥えて深く吸い込む。薄荷の匂いがする息を吐き出して言った。


「まあそういう訳です。朝食くらい召し上がっても罰は当たらんでしょう。そのあいだにゆっくりと、ことのあらましをご説明願いたいものですな」

「それは、紫園のことですか? それともあの剣のことですか」

「その両方です。ご存じないでしょうが、先生が担ぎ込まれたときのあの男は、まるで別人だったそうですよ。それ以来、どうも男衆たちが紫園を薄気味悪がっておりましてね。特に柴門シモンなんぞは……ああ、どうやら朝飯が来ましたようです」


 節と寧々《ネネ》が盆に載せた朝食を運んできた。

 果物を煮詰めた果酱レチェリ乳酪ヨウルト生蘇ペニル(※チーズのこと)。焼きたての(ナン)に干した果物や橄実オリーブの塩漬け。木の卓に卓布が広げられ、皿が並べられた。食欲をそそる匂いに、藍那は急激に空腹を覚える。


「さあどうぞ先生、病み上がりなのですから、ちゃんと食べてくださいね、ちゃんと」

「ではご厚意にあずかります」


 眼前で拳を合わせ一礼したのち、腰を下ろした杷萬のはす向かいに座した。この場合杷萬が藍那を朝食に招いたかたちとなり、たとえ雇われ用心棒であっても客人である藍那は上座に座る。


 寧々から黄油バター茶の壺を受け取り、杷萬が藍那の椀になみなみと茶を注ぐ。供された椀を両手で受け取り、一礼してから三度口をつけるのが礼儀だ。

 幼い頃から黒茶になじんだせいで、はじめはこってりとした黄油茶の味が苦手だった。帝都の乾燥した空気になじむとこの味も悪くないと思えるのだから、まったく不思議なものだ。

 節と寧々が出て行くと、藍那は話を元に戻した。


「まるで別人だった……と仰っていましたね。」

「さよう、話し方も顔つきもいつもとまるで違っていたそうです。死んだみたいになっていた先生を担ぎ込んだあと、騒いだ女たちに落ち着くように諭して医者を呼ぶように言ったとか。

 ――それから背に負っていた例の剣を『大切な預かり物だから、誰にも触らせないように』と言って安瑛アンデレに渡したそうです。安瑛が言うところじゃ、まるで人ひとり殺してきたみたいな目をしてたそうで」

「そうでしたか……そのあとは?」


 杷萬はそこで口から橄実オリーブの種をだし、黄油茶で喉を潤した。


「慌てて飛んできた柴門シモンに先生を任せたあと、まるで魂が抜けたみたいにその場に座り込んだそうです。目なんかてんで虚ろで、ようやく我に返ったときはいつもの紫園に戻っていた――という訳なんですがね」


 そのときの紫園の慌てふためいた姿を、藍那は容易に想像することが出来る。しかしあえて訊ねてみた。


「そのときの彼は、どんな様子で?」

「今にも倒れそうなくらい真っ青でしたな。そのときは……あたしもようやくその場に駆けつけて、彼の様子を目の当たりにしていたんですが。うなだれて頭を抱え込んでいたのを、由真が必死でなだめたり励ましたりで」

「なるほど」


 次は藍那が話す番である。

 三日前に起こったことを杷萬に話した。ただしあの剣と天星羅の関係は伏せて。


 蔵人からあの剣を《大尊ダイソン》に納めるよう頼まれたこと。剣がいろいろと曰く付きのものであること。蔵人の店から寺へと向かう途中で東大参道の呉椅ゴイスと一悶着あったこと。泰雅の剣客との斬り合いと、危ないところを紫園に助けられたこと。


 朝食が終わると節と寧々が空いた皿を下げ、薄荷茶を出した。腹のふくれた杷萬は満足そうに額の汗を拭うと、茶を一口飲んで訊ねる。


「それでだいたい分かりました。で、先生はこれからどうなさるおつもりで」

「とりあえずお預けしていた剣をこれから納めに行くつもりです。誰の目にも触れさせず、時折封魔の経を上げてもらえれば、これ以上犠牲は出ないかと」

「ふむ。そうであれば良いですな。で、あの男については?」

「彼については、もうしばらく様子を見るつもりです。なにしろ彼には命を助けられて、借りを作ってしまいましたし」


 藍那の返答に杷萬は腕を組んだ。


「まあ、先生ならそう仰ると思ってましたがね……。ただ、彼が記憶を失ったふりをしているということは考えませんか?」

「それはないでしょう。もし彼が記憶を取り戻していたなら、ここにとどまる理由がありませんし。それに……」

「それに……なんですか」

「上手く言えませんが、剣客の勘のようなものです。今の彼は大丈夫です。私が保証します」


 杷萬は組んでいた腕をほどき、椀に手を伸ばした。


「東大参道で凄腕の遣い手をあっというまに昏倒させた――評判はあたしにまで聞こえてますよ。男衆たちはそれから腫れ物に触るようでさ。柴門なんぞ『あんな薄気味悪い奴はさっさと馘首くびにしてください』とまで言ってます」

「ははあ」

「ただし、娼妓おんなや女中たちは別です。どうもああいった類いの若干頼りなげな美男子は、女の母性をくすぐるようですな。それでよけいに男衆たちが面白くないって訳で」


 たしかにさきほどの厨房の女たちも、紫園に対する態度が以前とは少し違っていたような気がする。口がきけるようになってようやく猫から人へ格上げされたのかもしれない。

 そんなことを考えていたのだが、藍那の沈黙を杷萬は別の意味に取ったらしい。


「いやまあ、別に娼妓にちょっかいを出されているって訳じゃありませんで、そこはご安心を」


 言ってから取り繕うようにあごひげを掻いた。


「それでは、紫園のことは今までどおり、私にお任せしてくださるということでよろしいのですね」

「一度お願いしたことです。杏奈への義理もありますからな。ただ、なんとなく心配なんですわ。それこそ商売人の勘ってやつですがね。ほら、ええと……ああそうだ、『毒麦は芽のうちに摘んでおけ』って格言があるでしょう。ま、杏奈から頼まれて引き受けたあたしが言えたことじゃないかも知れませんが」

「ご忠告痛み入ります。ただ、今の紫園を信じてやりたい気もあるのです。甘いと思われるでしょうが」

「まあいいでしょう。ではあたしはちょっと失礼を」


 杷萬は腰を上げて書斎から出て行った。しばらくして戻ってくると両手にあの布包みをかかえている。受け取りなかを検めると霊符はそのままで、留めていたにかわが剥がされた形跡もない。


「なんぞ気味の悪い代物ですな。見ているだけで背中がむずむずしますわ」


 そう言って杷萬は書斎机に戻ると椅子にどっかりと座り、水煙管を引き寄せた。火皿から煙が立ち上り、かすかな茴香ウイキョウの香りがあたりに漂う。

 そろそろ暇をする頃合いだろう。ちょうど曾妃耶ソフィア寺院の鐘が十時を知らせる。金亀楼の客たちが帰っていく時刻で、もうしばらくすれば男衆たちが忙しく書斎に出入りする。


「では旦那さま、私はこれにて」


 包みを胸に抱え、書斎をあとにした。自室に戻り、寝台の下から天星羅を取り出して帯剣する。まっすぐ男衆たちの詰め所へ向かうと、預かり処の安瑛に訊ねた。


「今日の客で払いを渋りそうなのは?」

「居なさそうですね。残念ですが先生の出番は明日以降ということで」

「ありがたいね。こっちはしばらく寝ていて、すっかり身体がなまっちまった。あんまり厄介な客はごめんこうむるよ」

「出かけられるので?」

「ちょっとばかりね。紫園にはすぐ戻るからと伝えておくれ」

「……承知」


 紫園の名前を聞いたとたん、安瑛があからさまに表情を曇らせる。男衆たちが腫れ物に触るように紫園に接しているというのはやはり本当らしい。

 ふと保留になったままの画学校の話を思い出す。やはりここにいるよりも、芸で身を立てる方が紫園のためには幸せなのではないか。


 ――あとでもう一度、その件を紫園に話そう。

 

 藍那はそう考えて金亀楼をあとにする。


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