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鬼の霍乱(かくらん)


 目が覚めるのと同時に、身体の痛みにうめき声を上げた。薄目を開け、視界には見慣れた天井。だとすれば、ここは金亀楼の自室に違いない。身体を起こそうとしたが、まるでいうことを聞かなかった。おまけに火を飲んだみたいに全身が熱い。


 いったい自分に何が起こったのか。熱に浮かされた頭で考えてみる。覚えているのは蔵人の店に行ったことだ。

 客間であの剣を見せられた。布に包まれて、柄と鞘を渡すように貼られた霊符。


 それから、どうした?

 ああ、それから《大尊ダイソン》に行くために……。

 その途中で、あの泰雅の剣客と会って……手ひどくやられてしまって……。

 それから、それから……。


 ――大丈夫だ。安心して、金亀楼につくまでおとなしくしてろ。


「紫園」


 か細い声が口から出た。熱のせいかひどく弱々しく聞こえて、まるで自分の声ではないみたいだ。そのとき、


「先生、気がつかれたのですか?」


 椅子から立ち上がる気配がして、秧真ナエマが心配そうにのぞき込む。

 ああ、これは夢なんだな――藍那は考えた。だって秧真は、ここから海を挟んだ板東バンドゥに避暑に行っているはずなのだから。

 再び目を閉じてから、ようやく自分の頭に濡れた手ぬぐいが載せられていることに気がついた。


「お嬢さま……」

「ああ、手ぬぐいがすっかり温くなってしまって。いま冷たいのと取り替えますからね」

「ここは……」

「先生のお部屋ですよ。だから安心して休んで下さい。そうだ、喉は渇きません? お水がありますけど」


 頷くと頭を抱えられ、口元に薬吞器すいのみが差し出される。一口飲むと激しい乾きを覚え、喉を鳴らしながら飲み干した。


「よほど喉が渇いてたのですね。待っていて下さい。お水も用意させますから」


 秧真が視界から消え、扉が開く音がした。廊下で呼び鈴が鳴る。しばらくすると誰かがばたばたと足音を響かせて駆け寄ってきた。


「お嬢さま、これ、冷たいお水です」


 足音の主は由真であった。どうやら手ぬぐいを冷やす水を持ってきたらしい。


「由真、先生が目を覚まされたわ。亜慈アジーになにか栄養のある汁物チョルバを用意させて。それから薬吞器すいのみにも新しいお水を」

「え? 先生が!?」


 続けて何かにぶつかる音がした。ううと由真がうめき、続けて


「先生、起きてますか?」


 と寝台に近づき、額を手で押さえながらこわごわのぞき込む。どうやら慌てて部屋に入ろうとした矢先、どこかに打ったらしい。いつも慎重な由真に似合わず、よほど気が急いたと見える。


「由真、大丈夫?」

「もう、大丈夫じゃないですよ、先生。人の心配をしている場合じゃないでしょう。本当に、紫園さんが居なかったらどうなってたか……」


 そう言って目を潤ませた。一瞬紫園がどうしたのかと思いかけ、あの泰雅タイガの剣客とのことに思い至る。忘れている方がどうかしているが、熱のせいで頭の働きが鈍くなっているらしい。

 それにしても、秧真はたしか寧々と一緒に板東バンドゥへ避暑に行っていたのではなかったか。そして、あれから紫園はどうなった?


「紫園……は……?」

「紫園さんは……」


 口ごもった由真の反応に、不吉なものを覚えた。もしや、自分が寝ている間になにかよからぬことが起こったのか――そんな考えが表情に出たのだろう、由真が


「大丈夫ですよ。今は台所で亜慈さんのお手伝いをしています。先生が目を覚まされるのをずっと待ってたんですよ。紫園さん、すごい心配してました。こうなったのは自分のせいだって、ずっと言ってて」


 ずっと《《言ってて》》? 藍那は耳を疑った。


「由真、それは……」

「先生、あまりお話しされると身体に毒です。由真、早くお台所へ行って」

「分かりました、お嬢さま。では先生、またあとで」


 由真が部屋を出ていくと、かわりに冷たい手ぬぐいが額へと載せられる。頭に籠もった熱が少し和らいだようで、藍那は深い息を吐いて目を閉じた。

 瞑目したまま考えを整理する。

 この状態では数日動くことは無理だろう。だが、急いで確かめなければならないことを秧真に訊ねなければ。目を閉じたまま、傍に居るはずの秧真に声をかけた。


「お嬢さま」

「なんですか先生」

「どうしても、伺いたいのですが……」

「紫園が持っていた剣のことですか?」

「!」


 目を見開き、起き上がろうとする藍那を秧真が押しとどめた。


「落ち着いて。その剣なら父が金庫に大事に保管してあります。誰の目にも触れないところにありますわ」

霊符ふだは……」

「お霊符も包み布もそのままです。金庫の鍵は厳重に隠してありますから、どうか安心なさって下さい」


 そうだったのか。急激に身体から力が抜け、視界がまぶしく歪む。頭の芯が鈍く痛んで目を閉じると、色とりどりの光輪が瞼の裏に滲んでは消えた。そのとき扉の向こうで


「お嬢さま、お水とお薬です。汁物チョルバも」


 由真の声が聞こえ、秧真の気配が入り口へと向かう。由真に小声でなにやら二言三言話すと、


「お薬を。血の巡りが良くなって、熱も下がりますよ」


 と言いながら戻ってきた。


「少しお体を起こしますわね」


 秧真に頭を抱えられ、ふたたび薬吞器すいのみが唇に押し当てられた。苦く不味い液体が口の中に流し込まれ、なんとか飲み下す。


呵鵡カシム先生のお話では、胸骨も折れていないし、ちゃんと薬を飲んで寝ていれば良くなるそうです」

「そうですか……」


 いったい呵鵡はどんな診察をしたのだろう。藍那は白髪交じりの辮髪と頬にある大きな黒子を思い浮かべる。しかしあれほどの打撃で胸骨が折れていないのは幸いだった。

 額の手ぬぐいを直し、秧真は可笑しそうに言った。


「『鬼の霍乱かくらんだ』と笑っておりました。それはそうとあの剣ですが、先生が倒れられた後に蔵人さんから使いが来たのです。『あの剣は障りのあるものだから、霊符ふだを決して外してはならない。布でくるんだまま、先生が目を覚ますまで、人目に触れない何処かへしまっておくように』って」


 そうだったのか。藍那は蔵人の心遣いに感謝した。そうと分かれば、早く起き上がれるようになって、あの剣を《大尊》へ持ち込まねば。


「お手紙にはこうも書かれてありましたわ。『自分が代わりに《大尊》へ持って行くことも考えたが、寝ているあいだに勝手な真似も出来かねる。もし藍那の目が覚めて頼まれれば、決して嫌とは言わないのでそれを伝えて欲しい』と」


 いかにも蔵人らしい申し出だ。しかし、こうして自分が襲われたことを考えれば、これ以上彼を巻き込めない。わけの分らぬ連中が陰で動いているとあれば尚更だった。


「お嬢さま、お願いがあるのです」

「はい、なんなりと」

「どうか私が良くなるまで、あの剣をそこから出さないで下さい。その金庫はよく開けるのですか?」

「いいえ、大切な書類が入っていますが、滅多に使わないものばかりです。鍵の場所を知っているのは私と父だけで、他には誰も」

「ありがとう……ございます……」

「お礼なんて。先生のお役に立てるなら本望ですわ。さあ、もうおしゃべりはこれまでにして、少しお召し上がりになって下さい。羊肉の滋養湯です」


 それから三日間、藍那は一日のほとんどを秧真ナエマの世話になりながら過ごした。彼女の話によれば寧々と二人の避暑は暇を持て余す毎日で、あまりの退屈さに予定を繰り上げて帝都に帰ってきたらしい。


 適齢期の娘が気心の知れた侍女と避暑に行くのは、未来の夫捜しも兼ねている。毎晩あちこちの屋敷で宴が催されるはずだが、秧真はそういった社交的な付き合いにも無関心で、寧々に言われて渋々出ていた有様だったようだ。


 板東バンドゥをあとにし、船旅を終えた二人が金亀楼に無事たどり着いた矢先、満身創痍の藍那が担ぎ込まれてきた。

 これこそ萬和マナのご意志――、そう思った秧真は藍那の世話を自分が引き受けることを決め、何人たりとも邪魔はしてくれるなと父親と使用人たちにきつく言い聞かせたらしい。


 有り難いことではある。

 しかしいくら秧真が望んでいるとはいえ、雇い主の娘に身の回りの世話をさせるのは気が引ける。食事くらいならいいが、厠のことになるとなおさら気恥ずかしかった。藍那がもう由真に世話係を変ってもいいとさりげなく伝えても、頑として譲らず、


――由真は楼内の仕事で忙しいので。


 とにべもなく断られてしまう。そうして箸の上げ下ろしから下の世話までかいがいしく面倒を見られ、時折紫園のことを訊ねても


 ――大丈夫、変らず元気にやっております。


 当たり障りのない答えを返されてしまうだけだった。

 ごくまれに由真が訊ねてきて亜慈や柴門の話を聞かせてくれるのだが、


 ――先生を疲れさせてはいけませんわ。


 とすぐに追い返される始末。

 こうなると有り難いが、いささか度が過ぎているようにも思え、なにやら部屋に監禁されているような気分になる。それ故、四日目の朝にようやく自分の足で床から離れたときには清々しい開放感すら覚えてしまった。


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