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東大参道

「あ、せ、先生、もうお帰りですか。ずいぶんお早いですね」


 蔵人たちとの話がすんだ藍那が店に戻ると、申武サリムが顔を赤らめて背筋を伸ばし、手元にあった藁紙を慌てて背後へと隠した。

 かなりの時間話し込んで居たはずで、お早いお帰りもないものだ。申武の隣では紫園がちょうど洗ったばかりの筆を布で拭い、丁寧に水分を除いている。藍那を一瞥すると満面の笑みを浮かべ、申武の顔をちらりと見た。


「申武、紫園の相手をしてくれてありがとう。ずいぶん待たせてしまって悪かったね」

「い、いいえ。俺、じゃなくて僕の方は……その……別にいいんですけど……」

「紫園に似顔絵を描いてもらったんだろう? どれ、見せてくれないかな」


 布でくるんだ剣を抱えているのとは逆の手を――右手を差し出す。しかし申武は耳まで真っ赤になると


「い、いいえ! そんな、見せるなんて! そんなの恥ずかしいですよ」

「別に恥ずかしがることないさ。由真だって描いてもらったんだ。そのときは私も見せてもらったよ」

「で、でも……」


 困り果てた申武の視線が、藍那の背後で止まる。藍那に続けて店に戻った蔵人に


「だ、旦那さま、俺、もう帰ってもいいでしょうか」


 と訊ねた。両手は相変わらず背後へと隠したままだ。


「ああ、用事はすんだ。お前はもう帰りなさい」

「はい! では先生、僕はこれで失礼します」


 藍那へ背を向けぬよう、後ずさりしながら店を出て行ってしまった。振り向いた藍那は蔵人に肩をすくめてみせる。


「ところで藍那。知っているとは思うが、今日は《大尊》の参道に夜市が立つ。そろそろ人出が多くなってくる頃です。とくに正門と西門の辺りは流れが悪い。行くなら遠回りでも、東門から入るといいでしょう」

「ああ……そうだったね」


 すっかり失念していた。参道の夜市には華羅人街ばかりかあちこちから人がやってくる。西門辺りは芝居や軽業といった大道芸が多く小屋を張る。正門はいつもより多い参拝客が長蛇の列をなし、そのため流れがしごく悪くなるのが常だ。蔵人の助言どおり、多少の遠回りはしても東門から入った方が早い。


「じゃあ行こうか紫園」


 声をかけると当たり前のように両手を差し出した。藍那が左手に抱えている荷物を持つという意図なのは分かるのだが、渡して良いものだろうか。

 しかし後ろからついてくる紫園が手ぶらで、師である藍那が後生大事にこれを抱えているというのも端から見れば奇異に映るだろう。弟子に預けられないとは、よほど価値のあるもの――とよからぬ輩の注意を惹き、要らぬ揉め事を引き寄せる懸念があった。

 だとすれば一人で行く方がまだましか。だが、


「紫園、お前はもう金亀コンキ楼に帰っていいよ。私はこれから《大尊》に寄っていく」


 そう告げたとたん、紫園が愕然とした面持ちで藍那を見つめる。蒼白になり口元を震わせたかと思うと、両目にうっすらと涙までため始めた。まるで慕っていた主人から捨てられた小犬である。


「藍那、今は霊符ふだの守護がある。《大尊》まで彼を伴うくらいなら心配はないでしょう。外にいる連中のこともある。むしろ、彼を一人にしておく方が厄介だ」


 たしかにそうかもしれぬ。藍那は蔵人に頷き、布包みを紫園へと差し出した。表情を一変させ、にっこり笑った紫園がいそいそとそれを受け取る。

 もし彼が態度を豹変させるようなことがあれば――そんな藍那の懸念をよそに、本人はいたって無邪気な表情だ。忠犬よろしく師匠の出発を待っている。これなら《大尊》へ伴っても心配はなさそうだと、二人で店を出た。


 店を出るとたしかに見られている気配を感じる。一人は向かいの鋳物屋の二階から。もう一人は少し離れた場所にある茶問屋の店先。夜市に繰り出す人々でいつもは静かな通りが喧噪で溢れ、ごった返している。


 藍那たちはそこから表参道の入口を経て東大参道へと向かう道を進むことにした。つまりは《大尊》を中心に反時計回りに九時から六時の方角へと進み、三時にたどり着いてから大尊を目指すという道のりである。


「いいかい、はぐれるんじゃないよ」


 紫園にそう言うと、辺りに目を配りながら足を速めた。蔵人の店|《狼々(ロウロウ)軒》は西大参道の端に位置している。そのためにぐずぐずしていると西門を目指す群衆のなかで身動きが取れなくなる恐れがあった。


 時折紫園の様子を気にしながら歩みを進め、ひたすら表参道の入口を目指す。ようやくたどり着いた表参道も、既に身動きが取れないほどの人並みだ。それを横目に東大参道へと出る道を進んでいく。


 そうして東大参道へ出たのは、西に傾いた陽がそろそろ建物の陰に入ろうかという頃。東大参道は食い物の屋台が並び、茶館や酒家が軒を連ねている。陽が落ちれば静寂に包まれる西参道とは逆に、普段から真夜中を過ぎても人が絶えることがない。


 まだ明るいうちであったが、通りを行き交うものたちの多くに既に酒が入っている。酔っ払い独特の大声で語り合う声や冷やかし、茶館からただよう茶葉を蒸す匂いと女たちの笑い声。飴細工を頬張りはしゃぐ子ども。西門で演じる芝居の演目を、面白おかしく宣伝する猿まわしと変面師。


 夜市の賑わいで東大参道もいつもより客足が多い。しかし人の流れがよどむことはなく、遠かった東大門の屋根が徐々に近づいてきた。尾行の気配を探ったが、ついてきている様子はない。


「紫園、もうすぐ着くよ」


 振り向いて背後にいるはずの彼に声をかけた。が、いない。

 ぐるりと辺りを見回すが、つい先ほどまで居たはずの姿が雑踏のなかどこにも見当たらなかった。とたんに心臓が激しく鳴り始め、嫌な予感に冷たい汗が噴き出してくる。


(いったい何処に行ったんだか。まずいね、あの剣と一緒にうろうろされたら……)


 こうなったら無理は承知のうえ、聴勁で紫園の気配をたぐり寄せるしか――そう考えた矢先、


「ああん! 人さまの足を踏んでおいて、謝ることも出来ないのかよ!」


 雑踏の喧騒を払うほどの大声で誰かが叫び、一瞬、そこにいたほぼすべてのものが足を止めた。


「なんだ? 喧嘩か?」


 往来のひそめきに、ますます嫌な予感にとらわれる。


「謝るならよお、それなりの誠意を見せてもらおうじゃねえか、ああん?」

「おい、それよ、そのご大層なお荷物をもらってやるからよ。ちょっくらよこしな」

 

 声は人垣の向こう、茶館の方から聞こえてきた。いかにもガラの悪い口調で数人の男がいちゃもんをつけている。付けられている方はおそらく。


「すみません、ちょっと通して下さい」


 ようやく隙間からそれを覗き見られるところまで出ると、なんとも情けない光景が広がっていた。布包みをしっかりと抱えた紫園が地べたに転がされ、ごろつきの足で踏まれている。


「ほら、そいつをよこせって」


 力づくで取り上げようとするのだが、紫園は首をはげしく横に振って離そうとしなかった。あの男には無頼漢に絡まれるという呪いでもかかっているのかと、藍那はつくづく気の毒になる。


「おらっ、こいつっ! 離せって!」


 無理やり引きはがそうとした男の足が紫園の腹にめり込む。ここまで来るとさすがに見ていられない。藍那は隙間をこじ開けて、ごろつき連中の前へ進み出た。


「お取り込み中すみませんが、それは私の弟子でして」


 亀よろしく背中と手足を丸め、硬直して動かない――そんな紫園と脇腹に足をめり込ませたごろつきを交互に見た。ごろつきの頬の辺りに醜い火傷の跡がある。藍那を見るなり口元を歪め、そのせいで傷跡が引きつった。


「なんだてめえ、邪魔すんじゃ――」

「金亀楼の藍那だ」


 野次馬のなかから声が上がると、人垣のあいだをざわめきがはしる。それを聞いた火傷男が表情を一変させ、すばやく後ずさった。もう一人は慌てて店の中へと駆け込んでいく。


 ほかには茶館の軒先に出た卓を挟んで男が二人。どちらもたいそう悪い顔をしているのだが、でっぷりと太った目つきの鋭い方が上役らしく、藍那を見てなんとも嫌そうに眉根を寄せ、濃いひげの生えたあごを掻いた。


「これはこれは、お初にお目にかかります、先生。あたしはこの店の主人で呉椅ゴイスと申します。先生のご高名はかねてより耳にしておりましたが、こちらがお弟子さんとは」

「申し訳ありませんが、彼は口がきけません。おそらく、謝りたくとも言葉が出てこなかったのでしょう。失礼がありましたのなら、弟子にかわって師の私がお詫びを致します」


 東大参道の呉椅ゴイス――その名は藍那も聞き及んでいた。帝都で幅をきかせる無頼の一党、荒秦アラジン一家の若頭斗真(トーマ)の義弟でこの辺りの島頭だ。

 茶館の奥から出てきた三下が呉椅の耳元へなにごとか囁く。呉椅がうなずき、ささやき返すと、男は火傷の男をともない再度店の奥へと消える。


「なに、そのお弟子さんにうちの子分が足を踏まれましてね。子分もこの暑さでいささか気が立っていたらしい。口がきけないとは存じ上げませんで。かっとなって、こちらこそお弟子さんにご無礼を」

「ではこれで失礼させていただきます」


 藍那は土ぼこりにまみれた紫園を助け起こし、顔を払ってやる。


「痛むかい?」


 尋ねると首を横に振った。縋るように自分を見つめる紫色の瞳にうなずくと、


「災難だったね。もうすぐだよ。さっ、行こう」


 そう言ってつかんだ手首を引き、立たせようとした――。


 殺気。


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