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陦蘭(ジマラ)

 そもそも羅典とは奥尔罕(オルハン)から西の地域――奥尔罕よりすぐ隣の簡舵エラダから最西端の葡萄牙(プタオヤ)まで――の総称である。

 その羅典出身のものたちが住む街が、なぜ葡萄牙街と呼ばれるようになったのか。

 諸説あるが、この阿耶に初めて正十字教の大聖堂を建てたのが葡萄牙(プタオヤ)出身の修道士たちであったから――というのが最も信憑性が高い。


 華人街を西へ西へと。目印は高くそびえる聖弥勒(ミトラ)大聖堂だ。石造りの堂々たる大聖堂は哥特(ゴート)様式と言うらしい。

 天を突き刺すほどに伸びた尖塔の先には、正円と縦横が等しい正十字を組み合わせた正十字紋が掲げられている。絶対にして唯一の太陽神、阿門(アメン)の象徴だった。


 大聖堂のある広場から放射状に細い通りが伸びている。陦蘭の工房は街の西にあるが、ここは中流層の地区で街のなかで最も活気があった。市場からは香ばしい腸詰めや大きく膨らませた(ナン)が焼ける匂いが漂って、藍那はつい足をとめてしまう。


 華人街とおなじく、ここにもさまざまな店が軒を連ねていた。

 葡萄酒の量り売り、揚げ菓子の屋台に干した果物を売る店。雑貨屋を兼ねた古本屋や武具屋に瀬戸物屋。特に青い染料で細かい模様が描かれた壁瓦は、帝都の女性たちに人気があった。


 他には獅子や縞模様の馬など珍しい動物の皮を売る店や、正十字教の聖遺物なるものを売る怪しげな店まである。一度好奇心から陦蘭を伴って入ってみると、聖人の小指やら腕の骨やらが、仰々しい小箱に入れられて飾られていた。

 店を出てからあれらは本物なのかと陦蘭に訊ねたところ、


 ――まさか。ほとんどはどっかから集めてきた猿の骨なんだよねえ。

 

 と笑われた。


 そんな陦蘭(ジマラ)は錬金術師だ。出身は正十字教国領の北端にある海が見える街。

 幼い頃から神童と呼ばれ、由真と同じくらいの歳に帝国の都・西羅(サイロ)へと出た。わずか十五歳でこの大陸で最も古く権威を誇る大学に入学、天文学と錬金術を学び、十九歳で首席卒業したという折り紙付きの天才である。


 その彼がいったいどういう理由でこの異郷奥尔罕(オルハン)に流れてきたのか、藍那も詳しくは知らなかった。

 金亀楼に飛び交う噂はさまざまだ。

 水銀から金を作り出す秘術を発見したものの、皇帝に無断で破棄したために国外追放になったとか、先帝の東征計画を非難したために暗殺を逃れたとか(ちなみにこの計画は、先帝の急逝によって取りやめになったと言われている)。


 しかしもっともあり得そうなのは、男色趣味が理由で宗教裁判にかけられるところを逃げ出してきたというものだ。

 なにしろ正十字教では同性愛は御法度である。だがそれが本当だとしても、男色罪は建前で、真相は彼を排除したかった勢力による陰謀だったのかもしれない。陦蘭は伝統的、保守的な者たちからは目の敵にされる型破りな男だからだ。


 錬金術師などと聞けば、誰もが度の強い眼鏡をかけた厳格な研究者を想像するが、陦蘭の風貌はその予想を大いに裏切る。

 金色の髪はいつも獅子のたてがみのようにうねり、口とあごには無精ヒゲ。いつもしまりのない表情をしていて、どうみても学者というより吟遊詩人か流しの楽人というほうがしっくりくる。

 歳は本人の言によれば三十七ということだが、年齢不詳でもっと年上のようにも思えるし、時々無邪気な子どものような面を見せることもあった。


 だが錬金術師としては超一流なことは間違いない。

 あの舎里八(シャルバート)のほかにも、空を飛ぶ人工の羽やら、円形状のなかから槍の出てくる戦車を考えたりと、奇想天外な発想が彼からは無尽蔵に溢れだしていた。このような天才を失った羅典は、おそらく奥尔罕に五十年は後れを取るだろう。


 その彼の工房にようやくたどり着いたが、午後の厳しい暑さに汗まみれになっていた。出迎えてくれたのは助手の茄瑠(ナスル)だ。白い夏用の単衣を涼しげにまとって、


「藍那さん、お久しぶりでございます。外は暑かったでしょう。さあ、冷たいお茶をどうぞ」


 と、井戸水で冷やした手ぬぐいを差し出し、薄荷茶を振る舞ってくれた。額の汗を拭いながら飲み干すと、ようやく人心地がつく。


「ありがとう茄瑠。今日はいちだんと暑いわね」

「はい。お弟子さんと由真ちゃんは、先ほど先生のところへ行きました。皆さんお待ちですよ」


 涼やかな目を細め、穏やかに微笑む。

 茄瑠(ナスル)はこの工房で師とともに暮らしている。褐色の肌には珍しい碧眼の持ち主で、高埠頭(コプト)の出身だと聞いていた。

 この類いまれな美青年が陦蘭の愛人であることは誰もが知っている。だが男妾という言葉にまとわりつくいかがわしさは微塵もない。研究以外のこととなると全般だらしない主人を支える、良き女房役だ。

 茄瑠の案内で北向きの客間へ通された。入るなり、


「いやあ、本当に久しぶりじゃないの、藍ちゃん!」


 と駆け寄ってきた陦蘭に抱きつかれた。伸ばしっぱなしの無精ヒゲで頬をすられる。痛いし、暑苦しいことこの上ない。


「お、お久しぶりです」

「もう、ぜんぜん来てくれないからさ、僕のこと忘れちゃったんじゃないかって泣いてたんだよなあ。愛紗は嫁いじゃってから会いに行けないし、みんな冷たいよ」

「け、研究でお忙しかったようで……」

「まあね、ようやく一段落したところ。でも由真ちゃんも来てくれて嬉しいよ。さっき羅典語を習う話、聞いたところでさ。自分から勉強したいなんて偉いよねえ」


 とようやく藍那の身体を解放してくれた。

 これがあるから藍那はこの人が苦手なのだ。抱擁は羅典の挨拶で親愛の情をしめすことも分かってはいるのだが。


 由真はともかく、初対面である紫園の困惑がどれほどのものかは想像がつく。

 紫園は藍那と目を合わせると慌ててうつむき、硬い表情で茶を飲んでいる。その隣の由真が嬉しそうに藍那を見上げた。


「先生、陦蘭さんがね、私のお休みの日に時間が合えば、この本が読めるように教えてくださるって」

「へえ、良かったじゃないの」


 由真の隣に腰を下ろすと、陦蘭が銚子(さしなべ)から椀に薄荷茶を入れて出してくれた。


「ところで陦蘭、例の舎里八(シャルバート)の製法はどうなりました?」

「ああ、あれは予定どおり宮廷に買い上げてもらったよ。こっちの言い値で買ってもらったから、次の研究の資金にできた。でも、もうこの工房であれは作れないから、愛紗にも藍那にも贈れなくてちょっと残念だね」


 陦蘭はそう言って苦笑する。


「硝石はここ最近値がはってきてね。でもあれがないと材料を冷やせないんだ。それに硝石は今の研究でも使っているから」

「今はなんの研究をされているのですか」


 由真の問いに陦蘭は人差し指を立てた。


「よくぞ聞いてくれたね、由真ちゃん。僕はいま火薬で咲く花を研究しているんだ」

「火薬で咲く」

「はな?」


 藍那と由真が同時に首をかしげ、陦蘭がにやりと笑う。


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