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乱世の梟雄

 羅典(ラテン)で新しい印刷機が発明されたことは、藍那も聞き及んでいた。なんでもあっという間に何十枚も刷ることが出来るらしい。

 花蓮が頁をめくると、白い百合の細密画が目に飛び込んだ。絵の周りには羅典の装飾文字が余白を埋めるように規則正しくならんでいる。


「わあ、きれい」


 由真が声を上げて身を乗り出した。白い肉厚の花弁や花粉を蓄えた雄しべに雌しべ。緻密な筆で描かれた花からは、まるで濃厚な香りが漂ってくるかのようだ。その美しさにいつもは控えめな紫園までが由真と肩を並べ、目を輝かせながら食い入るように見とれていた。

 二人の反応に花蓮は満足そうに目を細める。


「これは羅典の花言葉の本じゃ。羅典には花言葉というものがあっての、たとえば白い百合は清らかさや威厳を表わしておる。他には――これは夾竹桃(きょうちくとう)じゃ。夾竹桃の花言葉は《用心》。これはおそらく、花に毒があることからきておるのだろうな。他には花言葉と一緒に四行詩が書かれておるのだ。古い詩ばかりじゃが……。藍那、おぬしは読めるか?」


 いきなり話を振られて藍那は慌てた。


「ま、まさか。いやですね花蓮さま、読めないって知ってるのに」

「ふふん。たしか紫園、おぬしは読めるのじゃったな」


 うなずいた紫園の目の前で、花蓮の白い手が頁を繰った。次に現れたのは赤い鬱金香(ラーレ)。鬱金香は由真が好きな花だ。


「赤い鬱金香の花言葉はじゃな……ほほう、《愛の告白》とある。下の四行詩にはこう書かれておるな」


 花蓮は詩を読み上げる。


「鬱金香のおもて、糸杉のあで姿よ、

 わが面影のいかばかり麗しかろうと、

 なんのためにこうしてわれを久遠の絵師は

 土のうてなになんか飾ったものだろう?」


 花蓮は頁に落としていた面を上げて、由真に優しい口調で告げた。


「由真はたしか学校に行くのじゃったな。学校では羅典語も教えてもらえる。勉強すれば、このようなきれいな本がたくさん読めるのじゃ」

「本当ですか? こんなきれいな本が……」


 頬を染めて絵と文字に見入る由真に、藍那も微笑む。


「そうよ由真。勉強すればこんなきれいな本が読めるわ。そうでしょ紫園?」


 見上げた由真に紫園は笑って頷いた。頬を染めた由真はうっとりと夢を見るような表情になる。


「ああ楽しみです、すごくすごく……。でも先生、わたし来年まで待てないです。この()本、早く読んでみたい」

「でも由真、私は羅典語が分からないし、紫園は読めるけど、由真に教えるのは大変そうよ。花蓮さまはいろいろとお忙しいし……」

「儂は別に構わんよ。だが……そうじゃな、陦蘭(ジマラ)はどうじゃろ」

「陦蘭――そういえば、居ましたね」


 すっかり忘れていた。陦蘭は羅典出身の錬金術師で、華人街にほど近い葡萄牙(プタオヤ)街に工房を構えている。例の白くて冷たい菓子――舎里八シャルバートを発明したのも彼だ。


 ほとんどは工房に籠もって研究に励んでいるが、ときおり金亀楼の愛紗のもとを訪ねていた。とはいっても色めいたことが目的ではなく、ただの話し相手としてである――というのも、彼は男色家であったから。

 たしかに彼なら羅典語の教師として適任かもしれない。男にしか興味がなく、それ故、由真にけしからん劣情を抱くこともなさそうであるし。


「実は陦蘭がこないだ珍しく顔を見せての。愛紗が嫁いでから気軽に会えなくなってしまったと、いささか寂しそうじゃった。おぬしはおぬしで、紫園を弟子にしてからさっぱり顔を見せないとぼやいておったぞ」

「行きましたよ、二度ほど。ですが例の実験中の看板が出ていたので、二度とも会わずに引き返したのです」


 陦蘭は実験に没頭しているあいだ決して工房から出てこない。工房の扉には《実験中につき、何人も訪問お断り》の看板が出て、訪問客が帝だろうが総主教であろうが断じて面会謝絶なのだった。

 やはりそうかと花蓮は苦笑した。


「自分から訪問客を帰しておいて、訪ねてきてくれないもないものじゃ。ま、あいつらしいと言えばあいつらしい。そうじゃ、このあと工房を訪ねてやればいい。由真のこともお願いついでじゃ。今は実験が一区切りついているそうじゃから、訪ねていけば必ず会えるだろう」

「ええ? これから、ですか」


 藍那は渋った。決して悪い人間ではないのだがいささか苦手なのだ。


「まあそう嫌がるでない。たしかに軽い奴ではあるが、あれでも宮廷お抱えの錬金術師。才がありすぎると変人になるという良い見本じゃ。だから、多少のことは大目に見てやっておくれ」

「それは分かっているのですが」

「でも先生、わたしは陦蘭さん好きですよ。だって面白いですし。陦蘭さんに羅典語を習えるなら嬉しいです。わたし、お休みの日に勉強したい」

「由真……」


 もともと勉強が嫌いなわけではなかったが、これほどやる気になったのは初めてだ。やはりあの本を読みたいという意欲のせいか。勉学に早すぎることはないというし、《鉄は熱いうちに打て》の格言もある。やる気になっているうちにさっさと陦蘭のところへ連れて行った方がいいかもしれない。


「じゃあ、このあと陦蘭のところへ行ってみよう。紫園も紹介したいし。花蓮さま、この本はしばらくお借りしても?」

「もちろんじゃ。由真、羅典語の勉強、頑張るのじゃぞ」

「はい。花蓮さま、本当にありがとうございます」

「そんなにかしこまらんでもよい。ほれほれ、もっと油餅(ロクム)を召し上がれな」


 それからしばらく他愛ない雑談をした。雨季の長雨のせいで葉物の値が上がっているとか、後宮で羽のついた髪飾りが流行ったせいで、街のあちこちで若い女たちが髪に羽を飾っているとか、そんなことだ。

 ではそろそろ(いとま)をというとき花蓮が由真に言った。


「由真、儂は藍那と少しだけ、二人きりで話がしたい。その本を持って先に出かけてくれんかの」


 その意図するところを察し、藍那は本を抱えた由真に告げる。


「ごめん、由真は紫園を連れて先に工房に行っててくれる? 道は分かるよね」

「はい。では花蓮さま、また伺います。紫園さん、一緒に行こう」


 書斎の扉が閉まり、二人の足音が遠くなる。花蓮は盆の銚子(さしなべ)から二人の椀に黒茶を注いだ。


(ロウ)振茶(ブルサ)に出かけたのは、例の剣のことでじゃ」

「では……見つかったのですか?」

「確信はないそうじゃ。あるいは偽物ということも考えられる。だからこの目でたしかめると。どうもこの剣についてはいろいろと曰くがあるらしくての。今回儂を伴わなかったのも、万が一のことを考えてのことじゃ」


 いつにない花蓮の深刻な表情に、藍那は絶句した。もしかしたら自分は彼にとんでもないことを依頼してしまったのだろうか。


「なに案ずるな。このような商売をしていれば、危険なことは多々ある。それに(ロウ)はそんじょそこらの武器商とはわけが違う。あやつを信じて、大船に乗ったつもりで待っておれ。それより儂が気になるのはあの紫園のことじゃ」


 花蓮は形の良い眉をひそませる。


「儂の生まれた華羅では、紫の瞳は凶兆とされておる。古い文献では紫の瞳をもつものは、乱世の梟雄(きょうゆう)の星の下に生まれておるそうじゃ。つまり国が乱れる予兆じゃな。

 そのため時の帝からはひどく恐れられた。(シン)の太祖福臨(フーリン)は、紫色の瞳を持つ赤ん坊は、目をくりぬいて殺せと勅令をだしたそうじゃ」


 新王朝は今から四百年程前に華羅を統一した。しかしわずか百年あまりで滅びた。その後に華羅を()べたのが、今の()王朝だ。

 もっとも、と花蓮は茶を一口すすって続けた。


「強い星の下に生まれた者が、そのようなことで死ぬわけがない。新王朝に反旗を翻したことで有名な雷王剛狩(ゴーシュ)は、紫の目を持っていたそうじゃ。底知れぬ強さで一時は西に国を造るが、残忍な性質が災いして毒殺されたと言われておる」


 剛狩は自らを神の使いと称し、従わぬものは一族郎党根絶やしにしたと言われている。西里尔(キリル)泰雅(タイガ)などの華羅と敵対する勢力を味方につけたが、彼らとの蜜月は短いものであった。


「宜王朝九代目皇帝、昆都倫(クンドレ)の大総官英倫(エリン)もそうじゃ。小さいときは紫の瞳を持っておったが、親に目をつぶされ、ふぐりを切り取られ宦官となった。しかし不思議なことに、彼は心の目で全てを見通したという。やがて病弱の帝にかわって(まつりごと)をおこない、帝を思うままに操って国を混乱に陥れた」

「では、いずれ紫園もそうなると?」

「分からん」


 肩をすくめ、ため息を一つついた。


「見たところ、今の奴はまるで子どものように無垢な心の持ち主じゃ。そしておぬしを心底慕っておる。それに偽りはないじゃろう。だがそれでも、儂はあの男に底知れぬ何かを感じるのじゃ。奴のなかに何かが(うごめ)いておる。もしかしたらそれは失われた記憶のなかに潜んでおって、あやつ自身も分かっておらんのかもしれん」

「師匠は……大火の原因と例の剣について、紫園と関わりがあるのではないか――そう考えているようです。私もなにかひっかかりまして。それで蔵人に探索をお願いしたのですが」

「ふむ、まあ大方(おおかた)そのようなことじゃろうとは、(ロウ)も考えておったようじゃが。それとな藍那、儂は以前なにかの本で、その剣のことを読んだような気がする。刀身に龍と三辰(さんしん)紋、じゃったな」

「そうです」


 花蓮は首をかしげ、こめかみに人差し指を当てる。


「なにしろ読んだのは大昔、誰が書いたなんという本なのかも失念してしもうての。どうも思い出せん。だが読んだことはたしかじゃ。儂はそれを探し当てようと思っておる。なに、単なる儂の好奇心じゃ」

「花蓮さま、ありがとうございます」

「ただ、気をつけるに越したことはないぞ藍那。猫の子だと思って拾って育てておったら、長じて虎となり、自分以外の村人全員を食べてしまった話もある。用心することじゃ」

「はい。心して気をつけます」


 真顔で告げる花蓮に、藍那も背筋を伸ばして答えた。


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