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月影

(でもどうなんだろう。由真の方はそれを望んでいるのかな。私は由真に、自分の希望を押しつけているだけなのかも)


 藍那自身、読み書きはできるがもっといろんなことを学びたかった。

 十四で故郷を飛び出してからは剣だけが頼みで、己を守るために女をすり減らすように生きてきた。そんな自分を顧みるたび、由真には別の人生を――教育を受け、流されるままに生きるのではない人生を送って欲しいと望んでしまう。

 しかし、由真には由真の願いがある。金亀楼なら娼妓でも大切に扱ってもらえる。そうして働き、いずれ誰かに引かれて幸せになるのも、また一つの生き方なのだろう。


(だけど、姐さんは幸せなのかな……)


 幸せには違いない。あれほど望まれて妻となり、第一夫人との仲も良好で、きらびやかに着飾られて贅沢に事欠かない。

 でも結婚すればなにをするにも夫の許しが必要で、外出ひとつままならなかった。許しを得て出かけるときは、かならず侍女を従え、一人で出かけることは《はしたないこと》とされる。


 貴婦人という身分は、端からみるほど気楽ではない。さまざまな不文律の規則に縛られ、それを破ればあっというまに転がり落ちる。藍那はこれまでの用心棒稼業で、そんな上流のままならない人生を嫌というほど見てきた。

 父親ほども年上の男に嫁がされた地方総監の令嬢。年下の愛人と駆け落ちした警護主任の奥方(彼女は結局夫のところへ自分から戻った)。嫁入り前に恋人の子を身ごもり、堕胎の末に出家した貴族令嬢――。

 

 彼女たちはまるで金の籠に入れられた綺麗な鳥だった。決して自分では羽ばたくことを許されぬ、鑑賞され、愛でられるだけの存在。

 だから藍那は思ったのだ。人にとって、特に女にとってなにより得がたいものは自由なのだと。好きな場所で好きなように生きる。それが出来たとき、人は本当に幸せになれるのではないか――と。


(でも、そもそも幸せって、なんなんだろう)


 そんなことを考えながら寝支度をすませ、床に入った。

 しかしどうにも頭が冴えて眠れない。なんども寝返りをうち、眠りの(まじな)いまで唱えた末、とうとう諦めて身体をおこした。

 こんな時は身体を動かすに限る。寝台を降りて夜着の上から単衣をはおり、男物の袴をはいて帯を締めた。

 枕元の天星羅(アストラ)をつかんで部屋をあとにする。廊下をわたり石床の回廊を抜け、噴水が水を噴き上げる中庭へと出た。


 暑気にうだった昼間とはうって変わり、夜気は冷たく澄んでいた。見上げた空にかかる月は十一夜。高さから見て今はもう真夜中だ。

 二階を仰ぐと中庭に面した飾り窓から、常夜灯の明かりが漏れている。この時間は娼妓も客も静かなものだ。水盤に落ちる水音と、そよいだ風に揺られた木々の葉音。それらに耳をすませ、藍那はしばし瞑目した。


 決めた、今日うつ套路(とうろ)は第十三式《月影》にしよう。

 噴水の傍へと立ち、息を大きく吐いて重心を両足へ落とした。起式から右手の天星羅を目の高さに、左手は拳を作って胸前へと構える。


 白鶴(パイフー)から弓歩(ゴンブー)へ。

 踏み込みから剣を大きく斜に右へとなぎ払い、同時に左の拳は頭上で防御の構え。続けて返した剣を左向きに回転させ、下段を突いてから斬り上げる。左の拳は正中を守りつつ額の高さに――。


 抹剣、せつ剣、挑剣、へき剣、崩剣、点剣。


 引き戻し、押し出し、跳ね上げ、振り下ろし、弾き上げ、素早く突き刺す。

 月を己に宿し、右は満ちてゆく月のおもてを、左は欠けていく影の部分を。

 動と静、攻めと防御。二十八の動作が月齢をなぞり、新月で始まり二十八夜で終わる、そう母に教わった。第十三の式だが、実は一番古い套路なのだ――とも。


 満月は並歩からの挑剣。両足をそろえ右の剣は天を刺し、左の拳は地を突く。そこから月は欠け、十四夜をへて次の新月へと巡り、第一路が終わる。

 しかし。


《月影》をうつたび、かすかな困惑を覚える。この套路(とうろ)はどこか不自然だと。

 なぜなら左は明らかに拳ではなく、剣を逆手に構えたような動きをするからだ。つまり双剣を前提とした套路だと考えれば合点がいく。

 一度だけ、その疑問を母に尋ねたことがあった。しかし母は


 ――そうかい。お前が思うのなら、そうなのかもしれないね。


 とはぐらかすように答えただけだ。そのときの母の表情がひどく悲しげだったのを憶えている。答えの裏には明らかによけいな詮索への拒絶があり、だから藍那は二度と同じ質問をしなかった。

 母が訊かれたくなかったこととはなにか。


 その疑問は一つの推測に行き当たる。この天星羅(アストラ)には(つがい)となる剣がもう一振りあるのではないか。

 つまり天星羅は雌剣。本来ならこの套路で左手に握られるべきで、右手に握られていたのは雄剣であるもう一つの――。


「――!」


 なにものかの視線を感じ、藍那は反射的に腰を落とした。

 目の高さに剣を構え、あたりをじっとうかがう。耳をすませても噴水の水音しか聞こえないが、まちがいなく誰かが藍那を見ている。


 客ではない。客が藍那の套路をみるときの、好奇に満ちた視線とはまるで別物だ。勁力の流れから腕の角度、足さばき。その誰かは藍那の動きからそれらを仔細に(あらた)め、解析し、力を測っている。

 敵意は感じられない。だが正体が分からない以上、気を緩めることはできなかった。


 聴勁に秀でたものなら、このまとわりつく視線から全てを読むに違いない。潜んでいる場所、彼あるいは彼女が何者で、なにを考えているのかまで。

 ところがあいにく、藍那は聴勁がいささか不得手ときている。それでも意識を研ぎすませ、ゆっくりと《それ》の気配をさぐっていった。


 右……いや右ななめ後ろ。裏口へと続く回廊か。

 柱の陰。どこだ。ええと。

 右手から時計回りに、ひとつ、ふたつ、み、


 ――あ。


 突如、掴んだはずのしっぽがするりと抜けるように――気配がかき消える。


(逃げられたか)


 構えを解いて大きく息を吐き、天星羅を鞘に収めた。

 さすがに時間がかかりすぎたか。もしこれが母なら、瞬時に相手の場所を探り当てただろうが。まだまだ功夫(クンフー)が足りない証拠――、


(母なら――?)


 とっさにひらめき、裏口へと続く回廊を凝視する。

 あの視線。昔稽古の時に、藍那を見ていた母のそれによく似ている。藍那の一挙手一投足をつぶさに眺め、検分していた母の眼差し。

 まさか幽霊?

 一瞬ぞっとし、慌ててその考えを振り払う。剣の達人はなにも母だけではない。藍那とてこの帝都では無敗を誇るが、それは喧嘩を売ってくる輩が弱すぎたせいだ。上には上がいることくらいわきまえている。


 あるいは、客に上級講武所の剣術指南役がいたのかもしれない。厠に立った折りにたまたま藍那の套路を見かけ、弟子たちの剣筋と比べていたか。

 しかし――。

 娼妓たちの部屋から一番近い厠は中庭とはまるきり方向がちがう。もしあの視線の主が回廊から裏口へと消えたなら、客である可能性は低いと言えよう。だとすれば。


(もしかして、彼が?)


 疑惑は例の男を脳裏に浮かび上がらせた。記憶をなくした夷修羅(イシュラ)、紫園。しかし証拠がない以上、下手なことを訊ねて相手を無駄に怯えさせるわけにもいかない。

 藍那はため息をつき、天を仰いで月を背にした。

 一度は鞘に収めた天星羅を眼前にかざす。ゆっくりと柄を一尺ほど引いた。剣身が滑り出し、水銀めいた輝きがこぼれだす。そのなかで躍るのは七星を従えた一匹の龍。


 もし、この天星羅に雄剣があるのだとしたら、やはりそこには同じものが刻まれているのだろうか。それとも別の星々が?

 しかしそのことを藍那は知りようもなかった。



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