別の力
5
ギターが置いてあったり、海外ドラマのDVDがラックに置いてある部屋。
夢見がちで主張が少ないところ以外は普通の少年は壁にかかっている時計の秒針が音を立てて動くのを見ていた。寝起きの頭だが一つの事を確かめずにはいられないようだった。
手を伸ばす。時計までは距離がある。一見すると何も無い空間に手を伸ばしているようだった。
カチカチという連続した音が止まった。上の住人の室外機の音と鳥の鳴き声、そして部屋の中の無音だけが耳に届く。意識をゆるめ、掴んでいた秒針を「離す」と、また音を立て時計の中の歯車は動き出し、正常な機能を取り戻す。
「寝起きの頭でこれだけ精密なサイコキネシスが使えるんなら上々じゃないかな……」
あくびをしながら未玖珠との約束の時間に間に合わせるための準備をする。彼女は時間に厳しく、少しでも遅れると過酷な罰ゲームがあるのだ。
「つぅっ……」
顔をしかめた。体の筋を痛めていたらしい。昨日の頭のおかしい連中の本気で危害を加えてこようとしていた姿が脳裏に浮かぶ。連中を超能力で吹き飛ばした時の何が起こっているのかまったくわかっていないような顔も思い出した。そして未玖珠が月夜の下で圧倒的な者として君臨する姿も脳内で昨日得た印象そのままにありありと思い浮かべることができる。
しかし、それはそれだ。いつ、自分は超能力を失うとも限らない。
「(超能力が使える間は学校に行く必要はない。超能力が使えなくなったら学校に戻ればいいだけの話だ)」
自分に確認するように考えるヒロ。
あの日未玖珠に学校から連れ出されてから学校には行っていない。
ヒロは学校に行っていた時間に目を覚まし、未玖珠に付き合う日々を送っていた。
冬が本格的にやってきた。今日の午前中は失踪者の手がかりを探すためにまた各所を回った。手がかりが得られず未玖珠の苛立ちは募るようだった。
昼になり、昼食のためにまた高級そうな和風の座敷のある店に行った。暖かい部屋に入った。ウェイトレスに未玖珠が料理を注文した。
「どうしたの? ヒロも注文しなさいよ」
未玖珠が料理を頼む気配のない向かいに座る少年に言った。
「いや俺は今日はいいよ。弁当作ってきたんだ。毎回奢ってもらうのはやっぱり気が引けるからね」
ヒロは鞄から弁当箱の包みを取り出す。
未玖珠とヒロは奢らせろ。遠慮する。の問答を続けた。ヒロにしては固くなだった。
「ふぅ。あんたって変なところに強情ねぇ」
わけわからんというように手をばたばたさせて彼女は言った。
それから先に来た白玉ぜんざいを食べはじめた。見事なまでに店のイメージに調和された感じに盛ってあるぜんざいを豪快にぱくぱく食べている。いい食べっぷりだ。
「うーん、じゃあアルバイトでもする?スマホ出してよ」
ツヤのある木の机の上で未玖珠はノートパソコンを開いた。
ヒロは言われる通りスマホを出す。彼女が片手でパソコンを叩くとスマホに大量のデータが送られて来た。
「超心理学調査票……ESP発現の条件……なにこれ」
「港区の研究所主導のサイキックへのデータ取りよ。なんといっても本物サイキックの意見はとても希少なものだから相当な価値をつけるわ」
ファイルを流し読みしたが回答していくのにそんなに時間のかかるものではなさそうだ。
「えっと、その研究所って未玖珠の資産なんだよね?」
「そうよ?」
「えーっと。しかしそれじゃあやはり未玖珠からお金をもらうということになるんじゃ……」
「これはヒロの正当な能力と労働に対する対価じゃない。 自分の価値をありとあらゆる武器を使って守らないのは自分を放棄している事と同じなのよ 」
眉尻を吊り上がらせて彼女は続ける。
「私はね。世の中の人間を見てるとどうしてもっと自分を愛さないんだ? って思うの。だってそうじゃない。利他的精神も過ぎれば奴隷よ。自分の事を少しでも大切だと思ってたらやらないことを間抜けな顔でやってる! 自分の権利をなぜ守らないのかしら!?」
気迫に押される形で
「わ、分かった」
と返事をする。
サイコキネシスの使用していての実感などの自由欄がけっこう見受けられたのでせめてちゃんと考え、真剣に取り組もうと決めたヒロ。
後日ヒロは自分の銀行口座に振り込まれている七桁の数字のお金に度肝を抜かれることとなる。
「あんまりつまらない話ばっかりしたくないわね。そうそう! かなりいいニュースがあるわ」
透明さを持つ瞳がきらっと光る。
「少年課に間借りしてる状況から脱却できそうなのよ。具体的に言うと刑事局の中の課自体を創設できそうなの」
爛々と輝く目をしていた。
「つまり出世ってことなのか……?」
とヒロが言うと
「ぜんっぜん違うわ!あなたバッカじゃないの!」
すごい怒られた。
「もう今日はとことん付き合ってやるわよ! いい? ヒロ。そんな出世だのなんだのって言うのは既存の社会の肯定と同義よ! 経済的隷属状態を肯定するやつの口にはパンを突っ込んでやるわ!」
よくあることだったが未玖珠が喋り続けてそれから話がだんだんと壮大になり、脱線しかけるとヒロは眠くなることがあって、未玖珠は大いに激怒する。今日もまさにそれだった。
ヒロが話をあんまり聞いてないのを見て未玖珠はポルターガイストのように部屋をがたがたさせた。少しして落ち着いたのか未玖珠は話を戻した。
ちなみにヒロは超強力なサイコキネシスに机の下に避難するか本気で迷っていた。
「話を戻す!」
未玖珠はふーっと息を吐いた。ヒロも胸をなでおろした。
「あたらしい課の創設はもちろん前例が無かったしもちろん超法規的だし、とーーーーーーーっても難しかったわ。しかし! 悲願を達成するためなら苦でもなんでもないわ! ようやくここまで来たんだもの! 私達の課だけどESP課っていう名前はヒロどう思う?」
「俺が入ることは決定してるのか……」
名前についてはまぁいいんじゃないかと言っておく。
「そのESP課ってもうできるの?」
「人の苦労もしらないで簡単に聞くわねヒロ坊」
「物事の尺度が違いすぎて言葉の上で事実を追うのに精一杯なのさ。今も頭がくらくらする」
「うむ! それならじき慣れるわね!」
良きかなと顔を綻ばせる未玖珠。彼女の無表情で見つめられると居心地が悪くなるが、今みたいな満面の笑顔は人の気持ちを沸き立たせ、朗らかにさせてくるものがあった。
「だけど」と彼女は口元を結ぶ。
「うん」
「あと一手足りないのよ。決め手に欠ける。何かもう一つ大きな手柄を立てることが必要なのよ」
超強力者は使える、という事実を証明するための戦い。ここまで来ても権力者層からは使えるかどうかという次元の話にしかなっていない。道はとても長そうだった。
連日彼女は資料をあさり、そのヒロよりも華奢な体にどこからくるのか不思議なほどのエネルギーを内包し、動き続けている。力を見せつけ、獲物を奪う。それが彼女のやり方らしい。
午後は効率を上げるために二人は別れて探すことなった。ヒロは普段目的を持って街を歩くことがなかったのでそれが単純に嬉しかった。
───彼女は何者なのだろう?
人を支配する力を持っていて、長い腕があり、確立した思想があり、そして夢がある。高校生という立場も刑事という立場もお嬢様という立場もその他にたくさんもっているであろう立場や肩書きは彼女にとってペルソナの一枚でしかない。
大企業の娘と言われた時に見せたあの固くなな言葉が蘇る。
「私はサイキックの香川未玖珠よ」
白い陶器のような肌、人形のような女性の憧れの体躯。
それらの際立った容貌すら付随物でしかないのかもしれない。
「(じゃあ俺って一体なんなんだろう)」
高校生から外れかかって、かといってもちろん警察官でもない。
「あなたもサイキックなのね!」
未玖珠の言葉が蘇る。それは瑞々しく新鮮に胸を打つが、鈍い痛みも同時に通り抜ける。
「造りものなんだよ。俺は」
誰に届くでもなく空に言葉は吸い込まれる。
───ましてや特別な存在などでは。
高架線をくぐり、寒々しい空の下を歩いて人ごみをかき分ける。未玖珠が用意した失踪者の捜索願の写真を手がかりに尋ね歩いていると
「その人なら見たことあるかもしれない」
という人が現れた。見たことあるかも程度なら何度かあったが今までのは全部失踪者まで辿り着けなかった。しかし、こういう微かな情報もすくい上げていくことが目標に達する道だと分かってきた。
とあるスピリチュアルショップでよく見かけたということだった。
街道に面した一等地に構えたその店はアロマやパワーストーン、儀式、などのサービスを客に提供するスピリチュアルと呼ばれる分野の店だった。
店の前の木の広告にはモスアゲートと書かれていた。ガラスの壁から見える内装は乳白色を基調とした色で彩られていてそこでは多くのお客さんがリラックスしているようだった。誘われるようにヒロは店に入る。
店に入るとぽかぽかと暖かい。
店のスタッフのお姉さんが柔和なスマイルを浮かべ挨拶をしてくる。
「あの。この写真の人に見覚えありませんか?」
名前と目撃者から聞いた失踪者を店で見たという時期も伝える。
「そーーですねぇ。ちょっとわかりかねますねぇ。オーナーが今いるのでオーナーなら分かるかもしれません」
写真を見たが分からないらしく、奥のドアに引っ込んだ後、一人の男性を連れてきた。
「いらっしゃいませ。オーナーの水島です」
濃い眉をした巻き毛の落ち着いた声の男性だった。顎ががっしりとしていて肌は少し黒めで四十代ぐらいといったところか。
「あっ、丁寧にありがとうございます。すいません。この写真の女性なんですけど……心あたりないですか?」
「写真を拝見します」
柔和な笑顔を浮かべる。この水島という男はカジュアルな服装を着ていて、すらっとした出で立ち、ヒロが着ているものより一回り高そうなものに身を包んでいた。
水島は丁寧な態度で、こんな客でもない若者にそんな応対をしてもらってヒロは恐縮した。
「見たことはないと思います」
残念ながら見たことはないらしい。
「スタッフたちにも聞いてみますね」
「ええ。お時間取らせて申し訳ないです」
「いいんですよ。行方不明の人を探しているなんて若いのに感心するよ。大事な人なのかな?」
遠慮がちにちらっとこちらを見る水島。
未玖珠って無茶苦茶なやつが超強力課をつくりたいからその手伝いをしてるなんて言ってもまともな大人の人は???となるだけだろう。ヒロははっきり言えないことを心苦しく思いながら。
「ええ。まぁ」
と言った。
水島は何度も感心したように頷いていて、オーナーの水島自らスタッフたちに聞きに行ったのだから恐縮だ。
さらに時間をとらせてしまった。
店内のスタッフたちは穏やかに客と話をしていた。水島が現れる度に客やスタッフから何かしらの敬意が払われる。
「世界中の神霊地や、パワースポットにゆかりのあるものがこの店に入ってあるんですよ。お客様のために気の流れを調節したり、整えたり……」
机に広げられた風水の表を囲んで客とスタッフが熱心に話し合っている。
他の部屋では草花の冠のようなものをおばあさんが被って、未来に良い運気を呼んでいるということだった。
お客さんやスタッフはさまざまなスピリチュアルグッズを持っていて、パワーストーンなどいろいろ見せてくれた。
スタッフたちもお客さんも誰も写真の土屋さんを見たことはないようだった。
四十代なのだろうが話してみると年齢をあまり感じさせないオーナー。去り際に彼はヒロに言った。
「人生に迷った時、苦しい時、悲しい時、そういう時にスピリチュアルによって人は癒され、導かれる。そういう時にここに訪れてくれたらいいよ」
店を出て、もらった名刺を見る。
『スピリチュアルショップ モスアゲート
オーナー 水島貴之』
スピリチュアル。
なんだかんだで一時間もお邪魔してしまったようだった。
「(超能力のことは信じないのにスピリチュアルのことは受け入れる人があんなにいるなんてな…)」
なにか複雑な気持ちだった。
「(何故だろう?)」
答えはでない。そういうことをあんまり考えてこなかったから。
「目撃情報は何件もあってけど全部からぶりだったわ」
いらいらしながら話す未玖珠。
「こっちもだよ」
行方不明者をこの東京で探すのはやはり骨の折れることだった。砂漠の中から砂粒を見つけるようなもので、さらにその砂粒が自分から隠れようとしている場合もあるのだ。
東京以外のところにいる可能性もある。
香川未玖珠は気の長い方ではないらしい。執念深いくせに短気だった。
ヒロはというとかなり気の長い方だった。
ヒロと未玖珠は裏路地のラーメン屋でラーメンをすすった。雑多で気軽な雰囲気。こういう店の方がヒロは落ち着いた。
すっかり夜になった。とはいえ街の明かりが灯っているのでそんなに暗くもない。変化を強いて言うなら昼間の太陽の光で強烈に照らされていたなにかが夜のなにかに隠されてしまっていることだろう。ぎらぎらと光る街の中を一組の少年と少女が歩く。
◇
進展がないまま日々が過ぎていった。
そのあいだ東京ではある連続殺人事件が起きていた。被害者はいずれも若い女性ばかり。未玖珠はその事件にあの三枚の捜索願の中から共通点を見つけていた。
危険な道に潜む、闇を住居とする本物の外道。一般人とはまったく違う行動規範を持ち、その心に良心より悪心の方が多勢を占める。都会の闇にはそういった人間が蠢いている。そしてそういう人間を作り出す環境もまた………
警察内部でも捜査チームがつくられていた。未玖珠たちはその捜査情報をどうにか手に入るようにしていた。
「こんなに資料があるのか」
資料の山をヒロたちは読み込んで情報を手に入れていった。
「正当な捜査チームがこの事件を解決してしまう前に、俺たちが解決する……そういうことでしょ?」
「そうよ」
未玖珠の顔はやや疲れているようだった。コーヒーを未玖珠の手元に置く。
「ちゃっちゃとこれも片付けないといけないのよ」
パソコンの画面をのぞき込むと画面には、難しいことがたくさん書かれたテキストデータが表示されていた。
「決算報告…………イラン、パキスタン、ブラジル系外国人へのICカードの流出記録……これって事件に関係あるの?」
「ないわ!!」
ダン!! と机を拳で叩きつけ忌々しそうに歯ぎしりをする未玖珠。ヒロは未玖珠の顔色が変わった瞬間にコップを避難させていた。
「これはくそったれないわば宿題よ。香川家から課された案件をクリアしていかなければならないってわけよ」
こんな時に!! と喚く。機嫌が悪い未玖珠。その目ははっきり憎悪に燃えていた。
触らぬ神に祟なし。
ヒロは自分の椅子に戻り、資料に目を通し始めた。警察の捜査能力はすごい。ありとあらゆる技術、システムを駆使して犯人を追い詰めていく。その捜査力の全貌を把握することすら今はできていないが、その力の片鱗を使うことはできつつあった。
力へのアクセス権とも言うか。
署内で未玖珠の評判はすこぶる悪かった。警察官の態度が明らかに冷ややかなのは間違いではないだろう。ちょっとしたお使いにヒロが他部署に行った時も、ひと悶着あり、未玖珠がやってきてようやく事が収まったこともあった。しかし、相手方は未玖珠を敵意のこもった目で睨みつけており、遺恨はばりばり残っていた。
「つまり……四面楚歌、八方塞がりなのかなぁ」
後者はちょっと違うか。天井のぼろい蛍光灯を見上げる。合間合間に他の場所を見たりして休憩と情報の整理と推理を行うのがクセだった。
「(困ったことにこういうことができる時はけっこう調子がいい時なんだよなぁ)」
自分の調子は良かったが、未玖珠は少し疲れているようだった。休めと言っても休むような彼女ではない。
「ヒロ。コーヒーお代わり」
未玖珠の顔はパソコンの光に照らされて青白い。
湯気を立てるコーヒー。未玖珠はその『香川家の義務』を終わらせ、人形師事件の資料に戻った。そうしている方がはるかにストレスがかからないのかいきいきとした顔に戻った。その様子の変わりようにヒロは驚く。漆黒のオーラを纏ってどこかを睨みつけていたかと思えば今は全身から光が放たれているかのようだった。
なんにせよ機嫌がよくなってほっとした。
◇
数日後の夜。ヒロたちが手がかりを探して街を歩いていた時知っている顔を見つけた。
艶のある黒髪のを額に垂らしたあごひげを蓄えたあの人。モスアゲートのオーナー水島貴之だった。彼が誰かと話しているなとへぇと思いながら見ていた。
「!」
驚いたのは彼が話している相手だった。ここ何日かヒロたちが必死になって探していた人物。
「未玖珠」
思わず指さすその先は、モスアゲートの店主水島貴之。彼が誰かと話している相手。
徐々にその相手の輪郭が見えてくる。と、同時に驚きは明瞭なものになっていく。なんと水島オーナーの話し相手は行方不明のはずの土屋志穂だった。
「水島さんその人!」
未玖珠が持ってきた三枚の写真の中の一人。
ヒロに声をかけられこちらを向く水島と土屋。
「ああ。君か。驚いたね。また会うとは。地脈の向きが今同じなのかな?」
一目見たときは驚いた様子だったがすぐに普通に戻った。昼間と変わらない柔和な笑顔だ。
「あれからどうも気になってね、私たちも彼女を探したんだがね。やはり私は見覚えがあったんだ! どうやら土屋さんは他の支店で働いていたようだったんだよ。うん……これから本人から話を聞くんだけど。君たちも同席するかい?」
迷いながら水島はヒロたちに言った。
うなだれている土屋さんは罪人のようだった。店のオーナーに隠し事をしていた。入社時の経歴も嘘を言ったのかもしれない。経歴詐称をやったのかもしれない。
水島さんが土屋さんのために車のドアを開け、土屋さんは車に乗った。水島さんも運転席に乗った。
「未玖珠?」
ヒロは彼女の顔を見る。何か思案している。彼女のその微妙な変化を感じて、促されるまま疑いもせずに乗ろうとしていた足が止まった。
「嘘ね」
彼女の言葉は闇を切り裂く。
水島の柔和な顔が怪訝そうなものへと変わった。その男はそうして笑い声を男の色気のある口元から漏らす。
「ははっ。本当さ。なんで私が嘘をつかなきゃならないのかね。まぁ………今すぐ本当だと証明することはできないが、店に戻れば本当だと証明できるよ」
常識的におかしいことを言っている人に対する目線をヒロたちに投げかける。その余裕と自身に溢れた悠然とした態度に、なにか非難されたようになって、居心地の悪さと罪悪感を覚える。そういうわけで未玖珠がなんとかしてくれなかったらヒロは彼の言うことを信じてしまっていただろう。
「トランクにあるこれは何?」
未玖珠が勝手にトランクを開けた。そこにはビニールシートが折り畳んで敷いてあった。
尋常ではないのはそのビニールシートは赤黒い水で濡れていたからだ。水。そう思おうとしたのはヒロの理性だけで、本能はとっくにそれが血であることはわかっていた。
「免許証を見せなさい」
未玖珠は動じない。警察手帳を見せて、冷酷に水島に言った。
しかし、男はくくっと喉を鳴らすだけであった。
「お巡りさんだったんですか。うしろのトランクのはですね。南米の儀式をうちでもやろうということになってね……ただ贄には野生の鳥をでなくてはならなくて、それで山の方まで狩りに行ってきたところなんだよ」
運転席で淀みなく答える水島。
「じゃあこの腕時計は? 眼鏡は?」
ビニールシートの上には腕時計、眼鏡が落ちていた。ヒロは見るに耐えなかったがトランクの中には爪や、血に染まったシャツの切れ端もあった。
「いやいや。お恥ずかしい。素人が見よう見まねで狩りや解体をするものだから、返り血は浴びてしまってシャツを脱いだり、高かった時計を台無しにしてしまったりね」
ややバツの悪そうな顔は彼の言っていること方が本当のことであることの裏付け。彼の『常識の中』という口ぶり。
しかし、ヒロは隣に未玖珠という人が立っていたおかげか、
「(この人……なにか変だ)」
と感じる。
───本当にこれらは水島のものなのか?
「(シャツの切れ端が?)」
何より恐ろしいのは水島がまだ平然としていることだった。初めて会ったときから変わらない包容力すら感じさせる清潔な男であることは変わらない。
絶対に言い逃れできそうにもないにも関わらず自分の弁舌を試すような。どこまで『普通』を相手に錯覚させられるかどうかを。
今ならヒロはこの人とは絶対に関わりたくないと思う。この人はおかしい。しかし、そのおかしさを本人は自覚していないように見える。その事が恐怖心を呼び起こす。
これから起こることを防げなかった原因は二つある。一つは男の態度があまりにも普通であったため。二つ目は男の行動と、男が持つその力はまったくの予想外のものだったこと。
水島のシャツを腕まくりした太い腕が持ち上げられた。それに未玖珠は反応したが、一瞬サイコキネシスを使うのが遅かった。先に水島の不可視の攻撃が二人に直撃した。
ヒロは何が起きたか分からなかった。
全身が動かない。超能力の発現もできない。未玖珠もどうやらそのようだった。
肉厚の指をこちらにかざす水島。
「(なんだよ……まるで、超能力を使ってるみたいじゃないか)」
水島のその表情は隠していた残虐性をむき出しにしている。指を蜘蛛の脚のようにぬるぬると動かすとヒロたちは自分の意思に関係なく、体が動き、車に乗りこんでいく。
水島は運転席から降り、ぼうっとしている土屋さんと交代し、後部座席に乗ってきた。
車は滑らかに発車する。
ヒロは情けないことにとても怯えていた。とてもパニックに陥っていた。
「(どうなるんだこれから……何をされるんだ?)」
トランクの血。爪。千切れたシャツ。そういったものが脳裏に浮かぶ。
「(ヤバイ。ヤバイヤバイヤバイヤバイ)」
ニュースなどで毎日見てる事件。それらは安全な場所で見ていて、どこか遠い、自分とは無関係な場所で起きていると思って生活している。いちいち事件に怯えていたら精神がまいってしまう。しかし、今ヒロはその事件のただ中にいる。
「んんん……美しい髪だ。匂いもいい」
水島は未玖珠の髪を触ったり、匂いを嗅いだりしている。
ヒロは恐怖心の中に怒りのようなものも覚えたが、いずれにせよ恐怖心の方が勝っていた。
「(なに勝手なことさせてるんだよ未玖珠! 未玖珠のサイコキネシスでこんなやつぶっ飛ばしてくれよ!)」
心の中で懇願するように喚く。
しかし、未玖珠は動かない。いや動けないのだとヒロは悟る。水島の指がゆらゆらと空中でタップダンスを踊るようにリズミカルに動いている。
未玖珠の目に困惑と屈辱の色が浮かんでいる。
「…………………」
心臓の音がうるさい。外部と遮断された乗り物の中を普段は頼もしく、心地よいと感じていたが、それが今はこんなにも恐ろしく、出口のない檻のように感じている。
囚われの二人は喋れない。未玖珠は水島から顔を背けこちらを見た。
純粋に透き通った海色の瞳。
彼女の特異さはどこに現れていたか?それは目に! その真実性をたたえた目はヒロに『大丈夫よ。今は様子を見るわ』と伝えていた。彼女は一言喋っていないにもかかわらず目で多くのことを語ることができる。
『こいつの力を診る』
と目で横の水島の方を促した。
「(わざとだ。未玖珠はわざと捕まっているんだ。本当はすぐに逃げられるんだ)」
ヒロはそう思った。そのおかげでだいぶ平静になれた気がした。気持ちが安定した実感もあった。視野も広くなる。今まで以上に車内のいろいろなものを冷静に見ることができた。
「(水島も超能力者なんだ)」
はっきりとわかったわけではないがそれに準ずるなんらかの超越的な力を持っていることは確かだ。
「(ふん。だがこっちだって超能力者だ。しかも大の大人拾数人相手を無傷で制圧できるほどの力を持っている未玖珠がいる!)」
それにこちらが超能力者であることを水島は知らない。
「(俺がやることはこいつからの致命的な攻撃を避け、証拠を探し、未玖珠の反撃の合図にうまくやることだ)」
ヒロの目にも闘志が戻ってきた。
だが未玖珠はこの時果てしない困惑と混乱に陥っていた。自分が今どうなってるのか、隣の男が本当に超能力者であることすら信じられない。彼女は危険時には内心どうあれ、顔色一つ変えないということができる。
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