香川未玖珠《ミクス》の憂鬱
2
ヒロはフードを被って街を歩いていた。
時刻は夜の七時を回ったところだった。
フードに隠れた表情を周りからはうかがうことができないが、ヒロは常に周りの様子を神経質そうに見渡していて、意識とは無関係に物音に体が跳ねたりしている。
早足で歩いている。
日は落ちていたが、通りはまだ様々な層の人が行き交っていた。
さびれた商店街に差し掛かる。
ヒロは曲がり角から歩いてきた中年のおばさんとぶつかった。
二人とも前を見ていなかった。
怒りっぽいのか初老の女性がヒステリーチックな金切り声を出し、しわのある顔にさらにしわを刻ませて手を振り上げた。
その時ヒロはびっくりして自分をかばおうと咄嗟に腕を振り上げた。
恐るべきことが立て続けに起きた。
いきなり初老の女性は何も無いところで急に首をしめられたように苦しみ始めた。
あたりがざわめく。
ヒロの周りでこんなことが起こる。
教室で起こった出来事と同じだった。
ヒロが二、三歩後ずさったその時、中年女性は地面に崩れた。
大きく呼吸している。
「あ」
ヒロは自分の口から漏れたその声をほとんど自分の声だと認識していなかった。
他人の声みたいだと感じていた。
そして急いでその場から離れた。
「なんなんだよっ! なんなんだよこれ!」
一刻も早くあの場所から離れようとした。
早足はだんだんと走るまでになった。
見えないおぞましい悪霊に自分は取り憑かれているような感じがした。
それは教室からずっとついてきた。
いつまでもどこまでもついてきて、振り払えなかった。
息を切らしてヒロは走っていた。
でかいビルを後ろにして息を吸ったり吐いたりして呼吸を整えようとした。
休憩しながらヒロはあたりを探るように見渡した。
ここは駅前の広場だ。さっきからズキズキと頭が痛かった。
こんな痛みは今まで経験したことのない痛みだった。
救急車を呼ぶとお金がかかる。病院に行こうと思った。
あたりを見渡している中でビルの屋上に人影がヒロはなんとなく引っかかった。
その人影を注視しているうちに、その理由が判明する。全体的にみすぼらしい格好のその女性は男性でも女性でも着れる服を着ていた。
おしゃれとは無縁なのである。
一目で貧乏だと言うことが分かった。
ビル上の女性は手すりを乗り越えて冷たい金属に手をかけて、震えている。
その震えは寒さのせいだけではなかった。
口に出すのもためらわれるが間違いなく自殺をしようとしていた。
あたりは見上げる人で埋め尽くされていた。
時間が経過するごとにビル上の女性から力が抜けていき、何かのはずみで一気に最悪の惨事、最悪の光景へと繋がりかねない状態だった。
広場の雰囲気は緊迫に包まれていていつもの広場とはかけ離れた空間になっていた。
ヒロがいる下からは女性の様子は良く見えなかった。無性にイライラする。
「なんだっていうんだ……こんなもの見たくないんだよ……」
その呟きは本人の望みに関係なく観衆のざわめきに取り込まれ、それを形成する一つとしか意味を成さなく、何の力にも結びつかない。
ヒロは無力だ。
そもそもヒロはそのビル上の女性がどういう経緯の上にそのような行動を選択しようとしているのかすら知らない。
ビル上の女性は凍えていた。
顔を涙でくしゃくしゃにしていた。
たくさんのざわめきの中、けっしてそれらに混じることのない呟きがヒロの耳に届いた。
「馬鹿ね。お前をそこまで追い込んだ奴らに対して何もせずに終わるつもりなのね。死んでもお前を自殺するまで追いやったやつらは何のダメージも受けないわ。のうのうとお前のことを忘れるのよ。そんなんでいいわけないわ。ありえない」
ヒロの斜め前の女の子がそう言い切ってた。
その声はたくさんの鈍く、汚い色の雨がキャンバスに降る中、鮮明で鮮烈で輝いた色彩の一滴の雨のように周囲から浮いていた。
そして、残酷に運命がビル上の女性をあざ笑うかのようにある種の来るべき時が来た。
それはあらかじめ予定されていたことのように起きた。
彼女はその取り返しのつかない一歩を踏み出してしまった。
観衆が一際大きくどよめいたかと思うと誰もが息を飲む。
その時ヒロはヒリッと頭にくる感覚が前方の方から来るのを感じた。
視界の端で女の子が今まさに飛び降りた女性の方に腕を向けているの捉えた。
無慈悲な地球の重力という法則に従って落ちるだけの女性は目を見開いていた。
こんなはずではなかった、というような顔。
事象が不可逆の地点まで傾いたこの今の今まで自分がやっていることを彼女は本当には理解していなかった。
口を限界まで開き歯を剥き出しにして、眼球の先は一心不乱に地面だけを見ている。
だが、奇跡が起きた。
なんと彼女の体は布団たたきみたいに白いビルの壁に叩きつけられたのだ。
スニーカーの紐がビルの柵に引っ掛かっているようだった。
観衆が再びどよめいたが、先ほどと変わってそこには安堵の成分が大きく占められていた。
その瞬間はヒロはそこに目を奪われたが、先ほど今までに感じたことのない頭がざわっとする感覚の原因の方に目を向けた。
何故ならその感覚は波動のように脳がヒリついて、昨日から起きていた頭痛に近い感覚だったからだ。
ヒロの視線の先には女性ものの毛皮のコートを着ている女の子がいた。
斜め後ろから見ている上、フードを被っているので顔が見えない。高級そうな服装に身を包んだその女の子はぽかんと誰もが頭上を見上げる中一人違う方を向いた。
あたりから離れようと歩きだしている。
ビルから飛び降りようとした女性は宙ぶらりんの状態でしっぽをつかまれたネズミのようだった。
しかし、長い文明人の暮らしですっかり野生を無くした上、心身ともにずたぼろなその女性は微かに四肢を動かすのみだった。まるでミイラのように細い腕。
「奇跡だ……!」
徐々に興奮が観衆を包む。
後から救急隊が駆けつけた時、スニーカーの紐は誰かが結んだとしか思えないほど人為的な結び方で柵に結ばれていた。固くキツイ結び方。
フードの女の子を見ていたのはヒロだけだった。
それでも人混みに紛れてしまい十秒でも目を離せばたちまちその姿は雑踏の中に埋没し発見できなくなってしまうだろう。ヒロは興奮冷めやらぬ人垣を掻き分け、フードの女の子を追った。自分の体に起きた異変の真実を明らかにする手がかりだと彼は思った。
その女の子を何度か見失いそうになりながら追いかけた。
「(はや……!)」
都会の人間は早足で歩くがそれにしてもその女の子の足取りは迷いのないものだった。
「(しかし……なにやってんだ俺は。昨日からおかしなこと続きだ)」
なにがどうなっているんだ。
女の子は頻繁に道を変えるので、ヒロは追いかけるのに苦労した。
女の子はだんだんと人が少ない方へと早足で歩いていった。
「(やばいかもしれない……)」
ヒロは人が少なくなってきたことで危険を感じた。
あたりは徐々に無人となっていき、公衆という監視の目が無くなった。
ここでは何が起こるか分からない。
「(引き返すか?)」
と自問したが今のところ意識の答えはほとんどは「No」で占められていた。
ヒロは女の子から距離をとり足音を無くそうとした。
やがて女の子が止まり、コツ、とかかとの高いヒールを鳴らした。
女はこちらを向いていなかったが、それがまるでヒロに向けられた「気づいている」というサインみたいにヒロは聞こえたのでビルの後ろで息を飲んで体が硬直した。
「ひっ」
ビルに囲まれた有料駐車場の奥から男の小さな悲鳴が聞こえた。
ヒロがいるビルの影からは有料駐車場の三方を囲むビルが邪魔になって見えないが、女の子の向く方向には誰かがいるらしい。
「シャバの空気は美味しかったかしらDr.島根」
女の子の声は若い。ヒロとそう変わらないのではないかとその時思った。女の子の声はやや苛立ちが込められた声だった。
「は、はぁ。へへ、お嬢様」
「化学式はどこ?」
女の子は単刀直入に言った。
「はい、ここにあります。持ってます」
男の怯えようは異常なものがあった。
しかしこの光景もおかしな光景だとヒロは思った。
若い、下手したら高校生ぐらいの女の子が社長と社員のように男と話していた。女の子にはそんな風格があった。
「(俺とはまったく違う世界で育ってきたやつだ……クラスの連中ともまったく違う)」
別世界の住人なのだろうと推測する。
またヒリッと頭がひりつく感覚がきた。
間違いなくその女の子から発せられたことが今度は分かる。
男が鞄を投げたのか、女の子は飛んできた鞄を受け取った。それにしては何かおかしく、女の子が手を構えたその位置に吸い込まれるように鞄が収まった。
女の子は鞄の中を手馴れた様子で淡々と無駄なく探ったあと、顔を上げて駐車場の奥にいる男に向かって言った。
「試薬品は?」
「……………」
返事は無かった。
「Dr.島根」
お嬢様と呼ばれた女の子はつまらなそうに話す。
金網が揺れる音が裏路地に響く。
男が身じろきをしたのだった。
恐怖によるものだった。
「私が研究の全容をどれだけ把握しているのか知らなかったの? それとも実験の進捗とあなたの能力からどれだけの事が可能か解らないほど無能なボンボンの馬鹿だと思っていたのかしら?」
穏やかだが刺すような語気が内包されていた。底が全く見えない。
「め、めっそうもございません……あなたの優秀さは存じ上げております。このプロジェクトもお嬢様のお力あってのものだと私は知っております」
お嬢様と呼ばれた女の子は男のおべんちゃらにため息で返した。
「ですが、試薬品の存在は私も知りません。本当なのです。二年間私達は共にプロジェクトを進行してきたでしょう。その私を信じてください」
必死な声。感情に訴える声。
「………………………………………………………信じたいわ。私たちは二年間共にやってきたわよね。二年前のあなたは若く熱意に溢れた研究者だった。今でもあなたの論文を最初に見た日のことを憶えてる。とても革新的で新鮮で熱意に溢れた内容だった。目から鱗が落ちるとはあの経験のことだったわ………………」
重い沈黙の後放った女の子の声は調子が違った。それからさらに長い沈黙。その後女の子は問う。
「…………………何故なの……?」
男は答えない。沈黙。
「試薬品は?」
女の子は諦めたように声の調子を意図的に戻した。
「ですから試薬品なんて──」
女の子は最後まで聞かずさっと腕を持ち上げた。
その時ヒロにまたひりつく感覚が襲来した。
力強く差した腕は前方──Dr.島根の方に向いている。
先ほど広場でヒロが見た光景と同じだった。
「ありえない」
女の子は断定的に島根に言った。
何故か女の子は上の方を見ている。
腕もまた上に向けている。
そしてふっと指に入れていた力を緩めると、何か重いものが落ちるような鈍い音がした。
それからうめき声が。
「最後よ。試薬品は?」
「………捨てたよ! はぁ……全部な!……はぁはぁ……ゴミだよあんなもん! 馬鹿じゃねえの?実現不可能な遊びに付き合わされるこっちの身にもなってみろ! ざまあみろ! はっ。ははは。所詮お前は父親と同じだよ。お前の暴虐にはもううんざりだ!研究は空論で終わる! 未来永劫な! ざまぁみろ!」
島根は呼吸をするのが難しそうだったが、勢いよくそうまくし立てていたが最後まで言い切った。
「────っぁ」
女の子は小さな声を漏らす。
島根が言い切った次の瞬間やはり右腕を下の方に向けた。
ヒロの頭には今までで一番大きなひりつきが起こっていた。
「下郎が!」
女の子が激しく言ったすぐ後、すごい轟音がした。
島根の悲鳴はその轟音にかき消された。 ガキャギャギャッ!!! と言う神経を冷やし尽くすそれは金網が捻れる音だった。
裏路地に響く。
その地獄の悪魔の処刑のような光景をヒロよりも線の細い女の子一人が引き起こしていたいたのだった。
女の子のぶるぶると力を込められた右腕と全身が不意に緩む。
女の子は数秒黙って島根の方を見ていた。フードの下から島根を見下ろしていた。
「………島根もサイキックだったら…………サイキックじゃないから……」
悲しんでいるのか。
ヒロは思った。
悔しさと諦観と絶望の混じった小さな呟きが漏れる。 忸怩たる様子。
「(なんだ……? 何をしたんだ。殺したのか……?)」
ヒロは大部分恐怖していた。
女の子がわずかながら儚い雰囲気をまとっていたのは数秒間だけのことだった。女の子は全く冷静な様子に戻りスマートフォンを取り出してどこかに電話していた。
「ええ。島根を回収お願い。もう島根はいらないわ。そう。じゃあよろしく」
用件を言いスマートフォンを切った。
「(何事もなかったみたいに………)」
ヒロはそのことにさらに恐怖に拍車をかける。そして女の子がヒロの隠れる方に歩いてきた。
「(やばい! やばい! やばい! 来る! こっちに来る! 見つかったらどうなる?)」
女の子はこちらにやってくる。
逃げ道はなかった。
そして、とうとうヒロが隠れている裏路地の横を通る。
女の子はヒロを確認するやいなや恐ろしい速度で腕をヒロの方向に向けた。
カツッと地面にヒールが踏み鳴らされる音はヒロにも分かる警告音だった。
「(ヤバイ!)」
それだけは分かる。
いうなら最初のパンチのようにその不可視の力をもろに食らったら相手の先制を許すことになる。
ヒロはケンカ慣れとまではいかないが夜の街をぶらつく中でトラブルに巻き込まれることもあったので、喧嘩の経験がないわけではなかった。
だからヒロは咄嗟に自分の腕を持ち上げた。
二人の腕からほぼ同時に不可視のエネルギーが放たれた。
瞬間二つの空間が質量を持ってぶつかり合う。
ヒロは困惑し、何がなんだか分かっていなかったが、困惑しているのは女の子の方もだった。
女の子のフードが衝撃で飛ぶ。
その下から現れた顔はヒロと同い年の女の子の驚いた顔だった。
猫のような目を見開いている。
水色の瞳から頬に伝っているのは涙だった。
エネルギーの圧力で涙が後ろの方に伝ってゆく。
栗色の髪が勢いよくたなびく。
「うわああっ」
ヒロは謎の力に押し負け、吹っ飛んで地面についた。
女の子は高価そうなハンカチをクラッチバッグから取り出してヒロから顔を背け毅然と涙を拭った。しかしハンカチをクラッチバックに入れるその手は震えていた。
そしてその端正な唇からヒロに言葉が放たれた。
「あんた……サイキック……?」
「(サイキック…?超能力……何を言ってるんだこいつ…)」
「サイキックかって聞いてるのよ?答えなさい」
ヒロはようやく立ち上がる。
アドレナリンのせいもあったが、特に外傷はなく、打ち身程度で済んでいた。
「そっちこそ……誰なんだよあんたは」
なんなんだよ、とも言いたかった。
「いや……あなたサイキックなのね?そうなんでしょ?」
「違う」
ヒロは思わず否定する。
「私あなたのサイコキネシスを………見たもの。間違えようも……ない。あなたはサイキックだわ……! 今頃ごまかしても無駄よ。もし本当にごまかしたいんなら私を殺すしかないわ」
女の子はわなわなと震える唇から言葉をかろうじて放っている。
ヒロに近づいてくる。
その瞳の辺縁は澄んだ清流のような水色をしている。
純粋な子どもだけが持てるその瞳は揺れている。
女の子はぺたんと腰が抜けたように崩れ落ちた。
そして目を閉じ天を仰いだ。
「え………あ?」ヒロは声を漏らした。
「あ」のところで女の子は目をカッと開き立ち上がる。
急にその整った顔を不機嫌そうなものに変える。
「今までどこで何をしてたのよ!」噛み付くという表現そのまま怒っていた。
「何って…え…?」
「私はずっと私以外のサイキックが現れるのを待ってたわ。でもいくら待っても現れやしないんだもの!」
「あ、ああ………」
「待つだけじゃダメなんだってことはもう身に染みるほど感じたわ。だから同じサイキックを自分から探し始めたのよ。でも見つからなかったわ! 見つかるのは偽物偽物偽物偽物! エセしかいなかった。しょうがないから自分達で人工的にサイキックをつくるところまで手を出したわ。あ、ヒロがどこまで聞いてたか分からないけど、丁度実験の失敗を報告されたところだったのよ。もうだめかと思ったわ。そんな時にサイキックにようやく会うことができたわけじゃない! 神様がいるって信じたくなったわ!……あなたも嬉しくないの?」
ころころと表情を変えてヒロに話す未玖珠。
「(この女マジで危ないやつだ)」
未玖珠の気品さを醸し出す、同い年と比べたら頭一つ二つ飛び越えたビジュアルから放たれるメンヘラ成分が入ってるような電波発言。
頭がくらくらする。
しかし何もかも〈電波〉とレッテルを貼ることで隔離するように処理することは今までの事実がさせてくれなかった。
栗色の髪をファサッと揺らし、女の子は仁王立ちになって答えた。
「私は未玖珠あなたは?」
「俺は……中居ヒロ」
かなり高飛車っぽいが名乗られたのでヒロは名乗り返した。
「(未玖珠…?いつかどこかで聞いたことがあるような名前だな……)」
いつだ?
緊急性のある状況でヒロは冴えておりピンときた。クラスメイトの柴崎の声が脳裏に浮かぶ。
「 香川未玖珠か。噂じゃ怪しい大人とか危ないやつと夜の街で何かしてるらしい。立ち入り禁止って建物に入っていくのを見たやつもいるって話よ 」
「……………」
ヒロは口を半開きにして目の前の仁王立ちの少女を見ていた。
「君、超能力者なのか?」
ヒロがようやくそう聞くと未玖珠は我が意を得たり、とばかりに百万ワットの瞳をバチバチとスパークさせながら言った。
「そうよ! 私はサイキック。あなたと同じね!」
是なり。清々しいほどにきっぱりとした物言いだった。
「立ち話もなんだわ。来て。話したいことが本当に山のようにあるのよ」
未玖珠が続ける。手をこまねきついてこいと促している。
ヒロは正直逃げ帰りたかった。
「(………でも俺も、確かめないといけないことがあるからな。ここ最近の異常、全部こいつについていけば分かるかも知れない)」
つーかはっきりさせないと夜も眠れん 。
二人が歩き出した時、ヒロは何気なく振り向き、後方で音もなく止まった黒塗りのバンがDr.島根を回収するところを見た。
力の抜けた彼は灰色のコートを着ており、その鼠のような顔にはヒロはよく見覚えがあった。
「(あの男! 俺に注射を刺したやつじゃないか……!」
得た情報をつなぎ合わせ発展させる。徐々に徐々に。普段の日常ではありえないことを理解するには時間がかかる。
「ええと、つまり、つまり…………あの注射が原因で俺の体にこんな異常が起きてるッて……ことなのか……?)」
横を今にもスキップを踏みそうなほど軽快に歩く未玖珠。ヒロは背筋に寒いものを覚えながら未玖珠について行った。
ヒロと謎の女の子未玖珠は人通りの多い場所を歩いていた。
ヒロの庶民的な格好と未玖珠の十人中十人中が振り向く美貌に加えて、ヒロと異なる全体感の服装のアンバランスさが通り過ぎる人には奇妙で物珍しかった。
普通カップルの場合は顔面はバランスが違っても服装はバランスのとれたものになる。片やお金持ちのお嬢様。
片や貧乏人のカス。
「ねえあなたってどれくらい超能力が使えるの? さっきのはなかなか出力あったけど」
未玖珠が嬉しそうにヒロに話しかける。
「…………いや、自分でもどうやったか分からないんだ」
「超能力をコントロールできないのね……これは、まぁこういうこともあるかもしれないわね、うん」
未玖珠がそう言う。
「最近おかしな事ばっか起きるんだよ……これは一体なんなのか検討もつかない」
ヒロは頭を掻きながら言う。
「へぇーつい最近なのね……!私はもっと前からサイキックだったけど。アハハ。ならあなた何も分からないのね。いいなぁ。これからよ。ワクワクするのは。世界の色がガラリと変わったんじゃないかしら?」
「確かにガラリと変わったよ……」
あんまり好ましくない方に。
今日だけで二人もの人に危害を加えてしまった。
「超能力の小学校ではあなたのようなケースは超能力者の一年生ってことになるわね」
未玖珠は愉快そうに言う。
「小学校なんてあるのか」
ヒロは驚いて聞いた。俺が知らないだけで世間にはそんなものがあるっていうのか……?
「今はないわ」
愉快そうな表情をまったく変えることなく未玖珠は歯切れよく言った。
「ないのかよ。もう廃校になったとか……?」
「今までも私の知る限り本物は無かったわ」
「ないんかい」
未玖珠は不敵に笑う。そして妖しく言った。
「これからつくるのよ」
車のテールランプが行き交い二人を照らしていく。
「超能力のコントロールもろくにできないようじゃあ高等部に進学できないわよ?」
ナンセンスと言ってしまいたかった。
「君はなんなんだよ。先生とか校長とかなんですかね?」
にひっとチュシャ猫のように笑って彼女は答える。
「サイキックの王!」
「………………………」
ヒロは押し黙るというリアクションをとった。
「(王ときたもんだ…)」
ヒロは危ない女という未玖珠への認識をさらに補強させた。
未玖珠が楽しく笑うものだから、周りの人間はますますカップルを見るような目でヒロ達を見ている。
「(話の内容をミュートにすれば確かにすごい美人だけどさぁ……)」
鈴を転がすような笑い声と未玖珠の色香にすれ違う男達はヒロに羨望の眼差しとかなんであんなやつが、みたいな眼差しを向けたりしている。
「(そんな羨ましがるような立場じゃあないんすよそれが……あんたらと立場を変わって欲しいぐらいなんだが、まぁその途端勘弁してくれって喚かれるかもな…)」
ヒロはやけくそぎみに心の中で思った。
「あのさ……未玖珠ってさ、もしかして開鄭高校の一の二の」
ヒロが言いづらそうにそう言うと未玖珠はすんなりと答えた。
「ええ。そうよ。でもなんで知ってるのかしら。私はまったく学校に行ってないのに」
未玖珠が少し驚いたように言う。
「俺同じクラスなんだよ」
ヒロの方が確信があったとはいえ驚いていた。
未玖珠はそれを聞いて考え始めた。
「サイキックは周囲の人間の側頭葉を刺激するPSI波動がやはりあるのかしら………しかしも元々接点の無い人間が覚醒するなんて……才能の問題なのかしら……偶然の可能性もある………自然選択が今起きたとは考えられない……突発性の変異が起きてる可能性?………」
ぶつぶつと言っている。
ヒロはその目に光がどんどんさしていくように見えた。
その光は今まで見てきた人達に───特に高校に入ってからというもののほとんど見かけない類の目の光だった。
やはり住んでいる世界が違う。そう思わずにはいられなかった。
人が結構な頻度で行き交う中、ヒロは見知った顔がいるのに気づいた。
高層ビルが立ち並ぶ下で橘は警官の制服を着ることなく、私服で若者と話をしていた。
それは彼女にとってはいつものことだった。
ヒロはなんとなく程度で普通の警官とは違うと思っていた。
橘はよく街に出てくる若者と話すが、うるさく家に帰れとは言わない。
会話の端々では家に帰って欲しそうだったが。
不思議な雰囲気を持つ婦警らしくない婦警。それがヒロだけじゃなく、だいたいの街の人々が橘に抱いている印象だった。
橘もこちらに気が付き、ヒロ達の方に歩いてきた。
「こんばんは」
ヒロにそういった後未玖珠にも橘は挨拶した。
「はじめまして。橘よ。よろしくね」
「はじめまして」
未玖珠はそれだけだった。
「生きてて良かった。部屋で死んでるんじゃないかと心配だったけど、学校に電話したら特に変わった様子もないっていうことだったけど、実際どう。あれから何か異常はない?」
最初に嫌な事を言ってきたがヒロは答えた。
「いまんところ何にもなってないけど、やっぱ怖いっすよ」
「お金に替えられる命はないぞよ。何かあったらためらうことなく119しなちゃれ」
橘がヒロにそう言う。
未玖珠は早く行きたいようだった。
「早く行きましょう」
未玖珠はヒロを引っ張ってゆく。橘は二人を何故か追いかけてきた。三人並んで歩くこととなった。橘はいろいろと二人に話しかけた。五分ほどで未玖珠は目的地についた。
「二人で話したいことがあるの。時間がかかりそうだし帰った方がいいわよ橘さん」
ビルは入口から絢爛豪華で、一部の選ばれし者しか入れないような様子だった。
「(普通にドアマンとかいるし)」
それは中も同じで、バロック調だかロマネスク調だかヒロにはわからないが洗練され、受け継がれてきた卓越したスタイルの内装をしていた。
未玖珠はようやく彼女とフィットする空間にたどり着いた。今度はヒロと橘が浮いてしまった。
「それじゃあね橘さん」
未玖珠が橘と別れようとする。
ヒロは橘が何か言いたそうにしていたので迷ったが未玖珠についていくことにした。
橘がヒロの腕を掴んだ。
「ヒロくん! うまい話に乗っちゃだめだよ。お金を融資してくれとか、何か買ってくれって言われたら要注意だからね! 契約書が出てきても間違ってもサインとか判子を押したりしちゃ駄目だよ。あと口約束には法的拘束力が無いことの方が多いからね」
「???───っああ。そういことか」
ヒロはいきなり言葉の洪水に戸惑ったが、どういうことか理解した。
「(橘は未玖珠を詐欺師かなにかだと思っているわけか。なるほど確かに、俺とあのくそ美人女が歩いていたらそう思ってもおかしくないな。でも違うんだよなぁ、そうかもしれないけどもっとたちが悪い可能性が高い。なにしろ超能力者だぜ?)」
しかし今のところ橘にそれを言っても疑いを確信に変えるだけだ。
いきなり実力行使に出られても困る。
「ああ、あいつ超能力者らしいっすよ。んでどうやらあいつが言うには俺も超能力者らしいんすよ! いやーこんなことって……あるんですね!」
などとのたまったら、間違いなく橘は即刻警察官の職権を行使するだろう。
「うん。気をつけます」
とだけヒロは言って橘と別れた。
橘はエレベーターに乗り込んでいく二人を立ち尽くして見ていた。
橘は帰る気にはならなかった。
一階のカフェで待つことにした。重厚な黒いテーブルに座り、メニューを広げる。
「(コーヒー一杯千四百円!? どっしぇ~~~)」
それでも何も頼まないわけにはいかないので橘は一杯千四百円の茶色い液体を注文した。
橘はやきもきして不安な心持ちで二人を待った。
たとえ詐欺だろうと原則的には民事不介入なのだが、心配して首をつっこむお節介な警察官橘であった。
感想お待ちしています。




