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超能力者一年生!  作者: アルリア
第一章
1/26

進学校の劣等生


 ゴバァ。

 肺から口を伝って生命維持に必要な酸素を含んだ空気が気泡となって失われていく。

 暗く、冷たい水の中。

 中居ヒロは溺れていた。服の上下はいつも着ている濃紺のブレザーを身にまとっていた。ヒロは状況をよく飲み込めていなかった。全身は重く、水中でもがくが水分を含んだ服が重い。ヒロは自分の自由を奪っているこの制服に苛立ちを感じた。なんとか空気を確保しようとおそらく水面だろうと思われる光が見える方に向かって水をかく。


 息はもう限界だった。目をかっぴらいてその光を目指す。

 その時、人の腕が水中に勢いよく差し込まれたことに気づく。無数の細かい気泡を魔法みたいに伴わせて、誰かの腕が水の中に差し伸ばされた。

 その手はヒロがそこにいると分かっているような動きではなかった。必死に何かを探し、そして掴もうと求め、もがいている人の腕だった。


 その腕に向かってヒロは泳いだ。首を締め付けるネクタイを左手で外す。光の方へ光の方へと泳ぐ。水をかく。体は重い。光の方へ。とうとうヒロはその腕の手首から上の前腕を力加減もなにも一切考えることなく掴んだ。

 だが相手も決して逃がさないとでも言うように力強く掴んだ。

 そうかと思うと次の瞬間すごい勢いで、まるで一本釣りのように水面から引きずり出される。ゆらゆらと揺れる水面をヒロの腕が突き抜け、頭が突き抜け全身が飛び出した。


 だが期待は裏切られ待っていたのは空気を吸えて太陽の光を浴びることが出来る空間ではなかった。ここもさっきまでと同じような暗く冷たい水の中だった。水面の先はさらに水中。

 ヒロの目の前には上は同じ高校のブレザーで、下はスカートの女の子がいた。ヒロの手を掴んでいる手の主は同じように水の中でゆらゆらと揺れている。その女の子は髪で顔が隠れていてどんな表情をしているのかヒロには伺うことはできなかった。


(ああ。これは夢なんだ。そうじゃなかったらこんな事があるわけがないな……)


 その時ヒロはこれが夢であることに気がついた。しかし、なぜか息の苦しさは先ほどから強くなっていった。


 その時その女の子がためらいなくヒロの口元に自身の唇を重ねた。


 反射的につき返そうとするが、男であるはずのヒロがなぜかまったく力で敵わない。

 力を込めるヒロとは対照的に女性はどこにも力を込めずに、コップから水を飲むかのような、それよりも意識することのない息をするかのような日常的な気軽さでヒロの唇と自身の唇を重ねている。


 ヒロは混乱していたが、すぐにその女性の目的に気がついた。その女の子はヒロの肺、気道、口内に残っている酸素を吸い込んでいた。


 それからその目的は達したとばかりに合理的に女の子はヒロを離し、どこか別の方をキョロキョロと見た。一秒でも惜しいというように。次の目的のために。もうヒロに用は無さそうだった。


 (出口を探しているのか……)


 その動きから必死さが伝わってきた。酸素が脳に回らず、思考がままならなくなってきた。

 彼女が泳ぎ去る前、最後に自分が殺した少年の方にちらっと目を向けた。ヒロは髪の間から見えるその目は綺麗だと感じた。


 一秒ほどの間だけヒロの方を確かに見た。すぐに明後日の方向を向き直し泳ぎ去っていく。


 酸素を失った体は水の中で浮かぶのみ。

 もう体が動かない。

 水中にくらげみたいにぷかぷか。

 現象を追う眼だけが自由。


 美しく泳ぐ彼女は小さくなっていった。



 暗闇にヒロだけを残して。



  ◇



 けたたましい目覚ましの音でヒロは目が覚めた。


 体に染み込んだ習慣的動作で機械的にアラームを止めた。


 まだ水中にいる感触から完全に戻ってきておらず、夢の中の体に入っていた意識が現実の体に入り直し、そのための同調というか同期がまだ完全ではないというか、魂が体にうまく定着していない。

 そんな感覚だった。


 「すげーリアルな夢みた……」


 ここが現実であることを確かめるように呟く。

 窓の外では何種類かの鳥が朝のモーニングコールをさえずっている。

 ヒロはのそのそとベッドから降り、顔を洗い、制服に着替えた。それから朝食を作って食べ、歯を磨いて寝癖を直し、家を出た。



 中居ヒロ。十六歳。男。高校生である彼は親の都合でアパートで一人暮らしをしていた。地方都市にある県立の高校に歩いて登校していく。

 学校までの道もこの一年でだいぶ機械的な反復としてヒロの体に馴染んでいたので通学中は思考をすることに自然と集中できる。


(制服……)


 同じ濃紺の柄の少ないいかにも進学校という地味な制服だったがあの女の子が着ると妙に垢抜けて見えた。


「(同じ制服だったな……なんの深層意識の表れだったんだよあれは)」


 うなる。しかし、誰かに相談しようにもあんな夢は口が裂けても人には言えない。

 季節は冬。寒がりのヒロは服を何重にも羽織り、マフラーに顔を埋めている。


 学校に着き、教室に入る。公立の高校特有の貧乏さのせいで校舎はおんぼろだし、エアコンも朝はつけられず、ストーブは三十人に対して古いものが一台しかない。ストーブ周りはスクールカースト上位の連中が独占していた。

 ヒロはいつものように自分の席に行き、そこの近くの席に座っていた二人の同級生の男子に挨拶し、それから席に座った。


「しっかし、偏差値は高い癖にいかんせんケチだもんなこの高校はよ。国の未来を担う一%の天才に対する扱いかよこれが」


 しゃがれた声で文句を言う柴崎。柴崎の進学先は東大だ。


「お、お前ごときが一%ならお、俺は即文部科学省大臣だわ」


 どもりながら言うのは山方。


「じゃあ俺は国防長官だな」


 ヒロも軽口を叩く。


「俺がNASAに就職したら事故を装って日本にミサイル落とすぞ」


 柴崎が怒ったように言った。ここまで予定調和だ。

しかし、彼らの学力ならそれらの就職先もまんざら冗談ではなく、実現できる。

三人は四月からなんとなくつるんでいる、友達。ヒロ達は毎日毒にも薬にもならないトークを繰り広げながら、朝のホームルーム前の時間を過ごす。


朝だけでなく高校ではだいたいこの二人とヒロはいつもつるんでいた。

 ヒロ達は固まることで浮世の寒さを凌ぎ、カイロを手に冬の寒さをしのいだ。


「て、鉄と酸素の化学反応の熱で、だ、暖をとることを思いついた最初の人はど、どういう状況だったんだろう」


 眼鏡を震わせながら山方が何回目になるかわからないこの疑問を言った。


 ふとヒロは左後ろを見た。窓際の一番後ろのいつも空席の机。


 その机の主の女子のことはこのクラス一の謎だった。

 何が謎かというと確か入学式の日にはいたのだが、翌日から学校に来なくなったのだ。


 入学式の日だけ出席し、それでもう分かったかのように学校に来なくなった。

 何もそんなに早く学校生活を諦めなくてもいいのに、とヒロは思っていた。


「なぁ、あの席だけど、結局なんだったんだろうな。あいつなんで初日で来なくなったんだろう?」  


 ヒロはその無人の机を指さして、疑問を口にした。


 ああ?と柴崎は机を見た後言葉を続けた。


「香川未玖珠(ミクス)か。噂じゃ怪しい大人とか危ないやつと夜の街で何かしてるらしい。よく分からん白い建物に大人と入っていくのを見たやつもいるって話よ」


「詳しいんだな」


 柴崎は女好きだがこうも詳しいとはとヒロは思った。


「ぜ、全部伝聞だな香川に関するお前の話」


 山方が面白そうに柴崎に言った。そんな山方を無視して鼻を鳴らしてヒロに向けて話を続けた。


「あったりまえよ。入学式の香川を見て俺は度肝を抜かれたね。生き馬の目を抜かれ、目から鱗が落ちて、危うく恋に落ちるところだったわ。なんせ超のつくほど美人だったもんな、香川は。芸能人かってぐらい。覚えてねーのか?」


 柴崎はピンと来ていない顔をしているヒロを嘘だろ? というように見る。山方はうんうん頷いている。


「マジかよ。全然覚えてないな」


 ヒロが香川に対して印象に残っているのは、一日学校を見ただけでまったく無価値とばかりに見切りをつけたとばかりに、潔くこの学校から退場し、以来一度も登校していないというところだけだった。

 だが、柴崎の話によると、謎はまだあるらしく、香川について先生に質問した生徒はいたが答えをはぐらかすだけで何も言わなかったという。しかし、あらゆる行事の名簿やメンバーリストに香川未玖珠の名前があることから退学したのではないらしいということ。


 そこで先生が教室に入ってきた。ヒロはもう少しこの話を続けたかったが、こうなるとしかたない。

 柴崎と山方など自分の席に着いていない生徒は生徒達が個別に与えられた席に戻った。

 教卓から先生が何かをみんなに喋っている最中にチャイムが鳴った。

 それからの先生の話もまた朝のルーティーンだった。



  ◇

 


 授業が全て終わり、放課後となった。ヒロは柴崎と山方に遊びに行こうと提案した。


「ああ、おう……」


 柴崎は少し歯切れが悪い。山方と顔を見合わせている。


「い、行こうか」


 山方がヒロに言った。


「あんまり勉強ばっかしすぎてもつまらん」


 ヒロは言った。

ヒロは気づいてなかったがここ最近それに類するようなことばかり言っていた。

 巨大な複合施設でヒロ達は遊んだ。UFOキャッチャーでは馬鹿笑いしながら連続してコインを入れて、ボーリング場では罰ゲームをかけて玉を放り投げた。五ゲーム目が終わった時だった。


「俺……そろそろ帰るわ」


 柴崎がふと場が静まった時に切り出した。


「え、マジ?」


 ヒロが半笑いで言う。


「まだいいじゃないか。まだ七時前だぜ。まだドラえもんも始まってないし。あっもしかして柴崎お前クレヨンしんちゃんでも見てえのかよ」


 いくつだよ。とヒロが笑う。


「そ、そろそろ帰ろうぜ……」


 山方も柴崎に同調した。


「いやいや、もうちょっと…」


 ヒロがそう言いかけて、それを柴崎が遮った。


「最近遊びすぎじゃねぇのか俺達。全然勉強できてねぇし、身を引き締める時期だろ今は」


 半笑いのヒロに柴崎は冷静に言い放った。

 そう。柴崎言う通りで事実ヒロは成績が下がり続けていた。そして柴崎と山方二人はそんなヒロに引きづられる形で成績が下降していた。


「なあ遊ぶのもいいけどよ。下手な成績を残せる余裕は俺達にはねぇだろ。今日は帰ろうぜ」


 柴崎がヒロに諭すように言う。


「…………」


 ヒロは何も言えなかった。遊んでいる最中の空気が嘘のように白けた様子で、柴崎と山方はあえて意識的に白けたように努めていた。支払いを済ませ三人は店を出る。


「じゃあな」


 ヒロ達はいつもとは違う暗い別れの挨拶を言ってから別れた。二人は自宅に帰り、勉強をするだろう。二人が遠ざかりヒロはその場に立ちすくしていた。日は完全に落ちていた。ギラギラとネオンや店から漏れる光のおかげであたりは暗くない。ヒロはアパートには帰らなかった。そういう気分ではなかった。もっと遊んでいたかった。


「これから面白くなるのになんであいつら帰っちまうんだよ」


 街がその色を最大限に発揮し始めるのはこの時間帯からだと言うのに。しかし、一人ではやることもそう限られてしまう。ヒロはややイライラしながら街を歩いた。

 ゲーセンに入り、最新の筐体でプレイした。画面の中では嘘のような美男美女が駆け巡り、技を放っている。

 けたたましい騒音とともにケミカルな光が乱反射し、何十種類ものゲームの爆音が混じった店内で筐体に熱中して向かっていて、ふと時計を見るともう夜の十時を回っていた。


 上に羽織っていたコートで制服が隠れていたので見回りの先生や、警察官とかあとよくわからないNPOとか、つまり大人に見つかって帰宅を促されることもなかった。


「あー……金が尽きた」


 画面が百円玉の投入を促しているのを見てヒロは呟いた。台の上にあんなに載せておいた百円玉がもう無くなっている。あっという間に。

 ヒロはイスの上で伸びをする。座りながら固まった体を動かしながらあたりを見るともなく見る。補導する大人がいないか気にしたがそれらしき大人も見当たらない。

 流石にこの時間帯になってくると年齢層や、客の層が変わってくる。連れ立って楽しそうにゲームに興じているやつらが目に映る。楽しそうだ。

 仲間とバカ笑いしている。


「帰るか……」


 頭の中にあるのは誰もいない暗い自分のアパートの部屋だったが、つまらなくなってきたし金も無くなったのでその日は家に帰った。


 翌日、ヒロは柴崎と山方を誘うことなく街に繰り出した。そういう空気じゃないことはもう分かっていた。ヒロは勉強一辺倒の高校に間違って入ってしまったとこのごろ感じていた。まだまだ遊びたかったのだ。自分の高校は窮屈すぎる。


 一人で街に行っても街には以前のような面白さも輝きもなかった。


「なんか……つまんねぇなぁ……」


 口の中で呟く。しかし、今日も深夜の十一時まで遊んだ。ヒロは親から定期的に振り込まれる銀行口座から生活費をまかなっていた。

 もちろん遊ぶ金は期間に対して決まっていた。

 今日まで散財気味だった。

 食費、家賃、光熱費、雑費、遊興費全てを自分で管理するのは中学二年から一人暮らしをするヒロには慣れていたが、ここ最近はお金の使い方が雑になってきた実感がある。


 街は歩行者が少し減ってきた。酔っ払いが増えてきた。ヒロはアパートに帰るべく歩いていた。

 駅前のスクランブルはヒロのアパートまでの道の最後の人混みの場所だった。

 この時間帯でも人は多く、静寂は訪れない。

 ヒロはポケットに手を突っ込み交差点の一番前で信号を見上げ信号機の赤が青に変わるのをぼんやりと待っていた。


 その時、首すじにするどい痛みが走った。


 絹ずれでちくりとした、なんてレベルではなく鋭い痛みだった。


 そうかと思うまもなく痛みは続く。


 体の中の血管に何かが無理やり押し込まれるような鈍い痛みだった。とっさに首をひねろうとするが手にがっちりと首がつかまれ動かない。


「え……?」


 口から息のようなものが漏らし、左下を眼球だけで確認することしかできなかった。

首を少しでも動かすとビリっとした痛みに襲われる。


 首筋には筋張った手に握った注射器の先端の針が刺さっているようだった。

 まったく状況が飲み込めない。

 注射器の中がピストンされ、中の液体のような何かが徐々にヒロの首筋から入っていくのが間近で見えた。

 安全なはず場所にいると思っていたヒロはその一瞬の凶行になすすべもなかった。


 事実周りの人間は今も安全の中にいる。この数多の群像の中でヒロだけが穴に落ちた。

 ぽっかりと空いた底なし沼に。ぞっとする。


「うああっ!」


 ヒロは発声とともに、その何者かを突き飛ばした。

 その何者かはタイルの地面に倒れ込んだ。どこにでもいるような灰色のコートを着た中年男性だった。

 体重が軽いらしくヒロでもつき飛ばせた。


  息を荒らげるヒロ。

 首筋からは血が垂れている。


 灰色のコートの男は鼠が痙攣したような動きで素早く落ちた注射器を拾いポケットに入れ立ち上がり、持っていたカバンを手にし、素早く駆け出した。


「だっ誰かっあいつを捕まえてくれ!! 誰かぁっ!! あいつを捕まえてくれ!!」


 ヒロは指をさして声を上げた。


 灰色のコートの男は人の間をすり抜け逃げて行く。


 その進路上に居た人達も状況が分からず驚くばかりでヒロ以上に状況が分からず、捕まえるなんて無茶だった。

 あっという間にその男は道を曲がり、姿を隠した。

 

 一度も振り返ることは無かった。ヒロを含め何十人もの大人がその灰色のコートの男をみすみすとり逃したのだった。


 信号が青になったらしく、視覚障害者に配慮された鳥の電子音がヒロの頭の中のどこか遠いところに届いた。信号待ちをしていた人々が一斉に歩き始める。

ヒロの一番近くにいた気の良さそうなサラリーマン風のおじさんだけが止まってくれていて、ヒロに話しかけた。あとの人は一部始終を見ていても歩き去って行った。


「どうしたの? ひったくりかい? 大丈夫かい?」


「注射器で刺された……」


 ヒロは灰色のコートの男が消えた曲がり角を呆然と見ながら言った。無意識のうちに首すじを手で抑えてたらしく、そこから手を離すと血が滲んでいた。

おじさんはそれを見てむおっと声を漏らし、


「大変じゃないか。早く病院に行きなよ。親御さんにも電話して」と言った。


「は、はい……」


 ヒロはかろうじてそう言った。

 足元から見えない何かが全身を這ってくるような、地面がなくなって、さっきまで立っていた地面に足がついていないような膝下の感覚が消えるような恐怖が襲ってきた。ぷつ、と冷や汗が吹き出す。


 気がつくとおじさんはもういなかった。


(なんだなんだ何を刺されたんだ何を刺されたんだ何を刺されたんだ。何かの病原体?毒? ウイルス? 覚醒剤?)


 例えば汚物を血管に入れただけで血管は機能不全に陥る。


 フラッシュバック───注射器の透明な容器から男の筋張った白い手に力が込められ赤みがかっている───そして男が曲がり角に消える。

 何を刺されたのか全くわからない。という恐怖がヒロを襲った。

ヒ素、タリウム、リシンVX、そんな最悪の毒物の名称たちとともに数秒、あるいは数分後に襲い来るであろう壮絶な痛み、そして死。それらが頭の中を光速で駆け抜けていった。

ヒロの精神は激動していた。


 信号はもう赤になっていた。

 ヒロは弾かれたようにその場で119番をした。携帯を取り出してかける終わるまでひどくもたついた。オペレーター相手に何を話したか憶えていない。

 赤いランプがあたりに音と光を振りまく。 衆人が何事かとそれを見ている中ヒロは救急車に乗り込まされる。


「どうされましたか?」


「首に注射器で刺されたんです」


 この問答を何人もの相手に何回も代わる代わる繰り返した気がした。

 その後同じような質問を何度もされて、よくわからないいろいろな検査をされた。気がつくと診察室に座っていた。そんな有様だった。


「で、どうだったんですか?」


「うーん……いろいろと看てみたけど、今のところ異常は見られないね。ただ毒とかドラッグの類ではないよ。もし病原体を注射されたのなら、病気になるまでの潜伏期間というものがあるから病原体を発見するのは難しいんですね?だからあと何回か検査のために通ってもらうことになるんだけど」


「はぁ……」


「今日泊まってく? 一日入院しちゃうとこれだけかかるけど」


 医者は諸経費をざっと計算してヒロに見せた。そこには一週間分の生活費ぐらいの額が書かれていた。


「やめとく?」


「はい」


「じゃあ、お大事にね。何か体に少しでも異常を感じたら119番してください」


 そんな感じでヒロの検査は終わった。

診察室から出て、待合室に行く。そこでは警察が待っていた。

男と女の警官がいた。婦警の方にはヒロは見覚えがあった。

ヒロが夜の街をさまよっている時に知り合いになった婦警だった。その婦警は笑顔でヒロに手を上げて、挨拶をした。彼女の名前は橘。もう一人男の警察官がいた。ヒロは二人にぺこっと頭を下げる。


「いやー災難だったねヒロくん。首に?注射器を刺されたんだってね」


 どこか事を軽く捉えるような話し方だったが目の奥の真剣な光は決して事を軽見してなかった。


「そうなんだよ。ほんとうに参った。先に言っておくけどけど心あたりなんて本当にないよ。本当に突然で。なんで俺なのか聞きたいぐらいだよ」


「通り魔かな。そんなに心配することはないさ。なるようになるよ。お医者さんを信用しよう。もし信用できなきゃ現代医学を作り出した先人達を信用しよう。あはは。そんなに不安そうな顔をしないで。今のところドラッグも陰性だし、毒でもない。ピンピンしてるからね」


 橘はそう言ってヒロの肩をばんばんと叩いた。

 それから橘と男の警官に病院関係者とは違う事をたくさん聞かれた。

 犯人についてのことだった。


 男の警官の方は事務的に全てを終わらせたがっていた。

 男の目はヒロを夜の街に集まる無数のゴミの一つとでも言っているように冷たかった。

 事実男はゴミが一つぽしゃってもゴミの事なんて特に気にもならない。

 どころかせいせいする。

 警官は最近増加している少年犯罪と夜の街の犯罪に手を焼かされていた。


 ヒロは顔が青ざめていた。


 何を注射されたのか分からないという確定的な出来事が恐怖となって全身に回っている。

 もし鳥インフルエンザや狂犬病、ペスト菌、HIVウイルス だったら……と想像して怖くなっていた。

 その後も二人の警官に根掘り葉掘りヒロは質問された。


 ようやく二人から解放されて窓口に行くとべらぼうな額の治療費が羅列した紙を渡された。救急車代、各検査代エトセトラエトセトラ。ヒロはこれで明日から三食塩のみスパゲッティが確定した。


 窓口の人はヒロにいろいろと事務的に必要なことを一方的に説明したが、たくさんのことがありすぎて頭に入れることが出来なかった。分かることは自分の体の中にいつ爆発するともしれない爆弾とけっこうな額の借金を抱えたということ。

 検査と取り調べに時間がかかり過ぎて、もう朝の十時になっていた。


 病院から出ると日差しが強烈にヒロの寝不足の顔を照りつける。ふらふらとヒロは自分のアパートに戻る。

 自分の部屋にどうにか戻るとベッドに体を沈みこませ、いらいらしながら逃避するように眠りに落ちた。

 

 翌日。ヒロは覚醒すると同時にはい出て鏡の前に立って首元を見た。


「くそっ……」


 そこには小さな赤い点の注射痕があった。

 しかし同時に確認できる範囲では体に異常がないことにほっとしていた。なにかけだるい感じはしたが気を揉んでいるせいだからなのかどうか判別できなかった。

 最悪の気分のまま学校に登校した。

 さらにうんざりすることにヒロは一人になっていた。

 柴崎と山方とは少し距離感が出来ていた。ヒロは今日一日で高校入学以来最も多くのため息をついた。


 ヒロ達三人には別に悩みの種があった。

 一番悩んでいるのは山方だが。


 山方の後ろの席には荒井という男がいた。

 荒井はクズ野郎だとヒロは思っていた。

 今は授業中だが、荒井はその無駄に太い指で山方の頭を突っついていた。

 先生に聞こえないように山方が傷つくようなことを言っているのをヒロは耳にした。


 ヒロには何が面白いのかまったく分からなかった。その席の周りのやつらもそのいじめを見て押し殺した笑い声を漏らしている。

 

「は、はは……」


 山方は俯き冷や汗をかきながら困ったような柔和な表情を張り付かせている。


 何度も何度も荒井は山方の頭に指を突く。

 その度に周りの席の連中が下衆な喜びを見せるものだから荒井は指を拳に変え、リズムをとって小声で歌いながら拳で山方の頭を突き始めた。山方は内申点を下げたくないので大事にはしないといつも言っていた。


 この高校に通う生徒達の使命は一様に最難関校への進学なのだ。


 ヒロはむかむかが抑えきれなくなって荒井を睨んだ。

 抗議する事で自分にターゲットが移るという恐怖を苛立ちが乗り越えた。

 

(クソ野郎!! 安全地帯から一方的に。山方が内申点を下げたくないことをいい事に調子に乗りやがって……!)


 荒井とヒロの席を挟む間の席の傍観者は、ショーを愉しんでいた。

 そいつらはヒロが睨んでいることに気がついてぎょっとした。ヒロの怒りの強すぎる光をたたえた眼差しに驚いていた。


 周りのやつらはヒロが本気で怒っていることを知り、一気に冷水をぶっかけたれたみたいに静かになった。


 しかし当の荒井は気がついてない。


(気づけ気づけこっちを見ろ荒井……! いい加減にしろよ! 俺はなァ! 俺は…………ッッ! もう、たとえ、内申点がどうなろうが構わねぇぞ!)


 元々ここに場違いさを感じていたのだ。


 いくら成績が悪くなろうがこの時はお構いなしになっていた。

 今まで積み上げたものを壊すということや、将来への確かな道というものをヒロの中のなにかが乗り越えてしまった瞬間だった。


 ヒロはある一点に集中していた。目を奪われていたと言ってもいい。執拗に嫌らしく小突く荒井の手。


 ヒロの心臓の血流がすごく早くなった。ドクンドクンとポンプの役目を果たす心室が稼働している。

 ヒロの頭がズキンと痛みを上げた。


 その時、ボキッという木の枝が折れるような鈍い音がはっきりと教室に響き渡った。

 

「びょううぇあえあえあううううっ!!」


 荒井が奇声を上げて痛みで立ち上がり海老のように体を反らす。

 その右腕は普通なら曲がらない方向に曲がっていた。体を反ったことで右腕が持ち上がり、そのぷらんと折れた腕をクラスの人間全員が目撃した。

 あまりにも唐突な出来事に教室は驚きと悲鳴で、阿鼻叫喚の様子になった。荒井は泣き叫ぶ。先生は保健室に連れていこうとしたが、荒井は


「死んじゃうよおおおおおママあああああっ!!」


 元気に泣き喚き、暴れて先生を突き飛ばした。

 ようやく連行されるようにして保健室に行った後のクラスはざわめきに包まれていた。


 先生も荒井もいなくなったのだ。クラスの人間はつまらない授業中に突然起きた刺激的なショーに湧いた。

 面白いものを見たとばかりに喧騒につつまれていた。荒井の普段の様子との比べての無様ぶりに声を低めて笑ったりしていた。

 

 だが、荒井とヒロの間に居て、ヒロの様子と荒井が腕を折る瞬間を見た連中には刺激が強すぎた。


 そいつらは呆然としていた。ヒロもまた呆然としていた。野次馬連中はヒロの顔を見た。形にする言葉は見つからなかった。


 ヒロはそいつらの顔に書いてある問いかけが分かった。つまり、「お前がやったのか……?」

 言うならこんなようなことだった。

 どうやったかは分からないが普段荒井のいじめに介入することのないヒロが行動を起こし、結果荒井の腕が折れた。

 ヒロはすぐ様居住まいを正し、机に向かった。


 その野次馬連中も何があったのか理解できなかったがヒロも自分でもよく分かっていなかった。気味の悪さと高揚感がヒロを包んでいた。

 窓際の一番後ろの席の主のいない机は一連の事件の間最初から最後まで変わらずそこにあった。

 授業が全部終わると、ヒロは授業中ずっと気分が悪かったのですぐに帰ろうと席を立った。

 見なければ良かったのだが、一部始終を見ていた野次馬達がヒロを化け物を見るかのような目で見ていた。


「────っ」


 ヒロは鞄に教科書や筆記用具を詰めて、コートを着てすぐに教室を出た。

気軽にコメントしてくれると嬉しいです。



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