第73話 悪霊
時は30分前にさかのぼる――
自転車置き場へ向かう佳乃と智恵子のうしろ姿を確認すると、大橋先生は腕を組んで空を見上げる。
雲ひとつ無い青い空。
裏山から聞こえる蝉の鳴き声。
「今日も暑くなりそうだわね」
「そう……ですね……」
薄い口紅が塗られた半開きの唇からすらりと湾曲したあごのライン。首筋から流れる一筋の滴がきらりと太陽に反射した。
庸平はごくりとつばを飲み込む。
見つめてはいけないことが分っているのだが、目が離せない。
「邪神の罠にかかるでないぞ小僧! おまえのスケベ心を利用しようと――」
「五月蝿いわね、この赤い魔物がァ――ッ!」
突然、足元にいた赤鬼を踏み潰す勢いでダンと足を踏みしめる先生。
赤鬼はくるりと身をかわす。
そこへ追い討ちをかけて先生の足が。
両者はしばらくの間、攻防を繰り返した。
「はあ、はあっ……ますます暑くなってきたわね……」
「人間の体は不便だな。ワシらは汗一つかかないぞ」
「あのね、私は神様と同化しているけど、今も昔も暦とした人間なんだからッ! あんたたち魔物と一緒にしないでよね! はあ、はあっ……暑いわぁー!」
エンジ色のジャージを無造作に庸平の自転車に引っ掛け、サドルと荷台に手を開けて息を整える大橋先生。
白地の音符Tシャツの背中にくっきりとピンク色の下着が浮かび上がっている。
庸平ははっとして校舎の方を見た。
佳乃に見られていないかどうかが気になったのだ。
校舎までは校庭を挟んで300メートル以上の距離。
2階にあるという図書室がどの窓かは分らない。
けれど、窓から誰かがこちらを見ている気配はなかった。
ふっと息を吐いて、視線を戻す。
すると大橋先生と目が合った。
いつの間にか先生はジャージを肩にかけ、まっすぐ立っていた。
口元のほくろがやけに魅力的に見える。
「最弱、おまえ随分早いな!」
「よう最弱、久しぶりだな!」
後ろから聞き慣れた声がかかった。
不意を突かれてビクッと跳び上がり、そして振り向く。
兵器マニアと黒縁メガネの男、共に庸平のクラスメートだ。
二人は自転車を止めて庸平に話しかけていた。
「吉岡は………いないの……か?」
庸平は彼らの後ろを気にしながら気勢のそがれた声で尋ねる。
「吉岡は新町の塾の夏期講習だってよ。あいつの家、結構金持ちだからな」
「親父さんは吉岡建設の社長だからな」
「そ、そう……なんだ。じゃあおまえたちも安心だよな!」
庸平の言葉に首をかしげる二人。
「ボスが不在だと伸び伸びできるだろう? 無理に俺をいじめなくても良いわけだし……」
「はあ? 俺たちが……」
「おまえをいじめて……? ああ、そうか……そういえばそうだった……かな?」
二人は首をかしげたまま自転車置き場に向かって歩いていった。
「どうしたんだあいつら? まるで記憶喪失――」
庸平の呟きが止まった。
家にまで押しかけて来た吉岡の言葉が頭をよぎった。
(あいつら、山水村から出てきたことで記憶が飛んでいるのか――)
「ねえ豊田君。あなた陰陽師をやっている割には鈍感すぎないかしら?」
「えっ!?」
大橋先生がため息を吐きながら、おでこにてを当てる。
「俺が鈍感って、どういうことですか?」
「あなたの学校のお友達はほとんどの子が悪霊に取りつかれているのよ。あなたは気付いていないのかしら?」
「えっ……」
庸平は二人のうしろ姿を改めて見てみる。
兵器マニアの左肩、そして黒縁メガネの頭上にうっすらと黒い影が見えた。
はっとして足元の赤鬼に視線を移す。
赤鬼はその短い腕を胸の前で組んで、ゆっくりと庸平を見上げた。




