第54話 フサフサ
ガラスが激しく割れる音が聞こえた。
同時に目の前が真っ暗になる。
佳乃には何が起きたのかが分からない。
ただ、雨風が部屋に吹き込んでくる音が……
やけに遠くの方から聞こえていた。
何かフサフサした長い毛のようなものが当たっている……
それが何であるかは分からない。
でも、何かが優しく包み込んでくれているような感触――
「主様といい、おまえといい、人間はなぜこうも手をかけさせるのだ?」
それは聞き覚えのある、バリトンボイスの低い声。
「……白虎さん!?」
白いフサフサな長毛を全身にまとい、顔は虎というよりも狐のそれに近く、体長5メートル以上はあろうかと思われる本来の姿に戻った白虎が、母娘を覆うように身体を丸くして床に伏せていた。
「人間というものは……じつに弱くてやっかいなものだな……」
溜息を吐きながら白虎は立ち上がる。
ぶるんと猫のように背中を振るわせると、身体に突き刺さっていた無数の凶器が音をたてて床に落下する。
『キェェェェェェー!』
これも聞き覚えのある鳴き声。
ミニサイズに縮んだ黄龍が、金色に輝く身体で天井付近を泳いでいる。
停電中の暗い室内が一気に艶やかな黄金色に輝いていた。
「助けに来てくれたのね、ありがとう……」
佳乃は母を抱きかかえたまま、涙をぽろぽろと流しはじめる。
緊張の糸が一気にゆるんで、様々な感情があふれ出ていた。
「ふひひひひ……そうかい、おじょーさんは毛むくじゃらの半身なんだねぇ。だからわたしが入り込めなかったのか……」
老婆が甲高いしわがれた声で言った。
(半身……?)
佳乃には老婆の言葉の意味はよく分からなかったが、京都の旅館での白虎とのやりとりをふと思い出した。
桜木翔太という少年と戦うとき、白虎は『我が半身となり、この世を支配する力を得るか?』と言っていた。あれは白虎の冗談だと思っていたが……本当になる可能性もあったのだろうか。
「それは違うぞ婆さん。この人間の女は――」
「誰が婆さんじゃぁぁぁ――ッ!」
白虎の言葉に突然キレた老婆。
老婆は両腕を広げ、白い着物を見せびらかすような仕草をして――
「妾は400年間、この先の山に幽閉されていた姫――のなれの果てじゃ。毛むくじゃらの分際で婆さん呼ばわりは許さんぞ!」
草刈ガマを白虎に向かって投げつけた。
カマはくるくると回転しながら白虎の額に迫る。
白虎は軽くいなすようにそれを口でくわえた。
一度加えたカマを器用にも鼻の上に乗せて――
「これで自分の身は自分で守れ、人間の女よ」
白虎は草刈ガマを佳乃に持たせようとする。
「えっ、な、なんか気持ち悪いんだけど……このカマ……」
佳乃は躊躇する。
気持ち悪い老婆が持っていた物は、やはり気持ち悪い。
「得物を選り好みしている場合ではないぞ。あの婆さんはどういう訳かワシの妖力が効かないのだ」
珍しく白虎が弱気になっている。
佳乃は深く息を吸い、カマを受け取る。
「分かりました白虎さん。私たちに構わずに思いっきり戦ってください!」
「よく言った人間の女よ。それでこそ我が相棒よ!」
「えっ!?」
佳乃は聞き返そうとしたが、すぐに白虎は老婆に飛びかかっていた。
ネコ科特有のうなり声をあげ老婆の肩に前足を乗せ押し倒そうとする。
しかし老婆は俊敏な動きでそれをかわし、下半身から上半身へと回転を加えて裏拳を白虎のあごへ命中させる。
うめき声をあげ白虎がキッチンのテーブルごと倒れる。
「白虎さん!?」
すぐに起き上がると思っていた白虎の動きが鈍いことに佳乃は気付いた。
白虎は老婆には自分の妖力が効かないと言っていた。
動きの俊敏さは老婆の方が勝っている。
老婆は両手を上げ、ぱちん指を鳴らす。
すると、室内のいすや食器棚などの大型家具が空中に浮遊し始める。
再び指を鳴らすと、浮遊物が一斉に白虎に向かって飛んでいく。
凄まじい音とともに白虎は家具類の山に埋もれてしまった。
その光景を目の当たりにした佳乃は――
怒っていた。
カマを振りかざして老婆へ向かっていく。
白虎でも歯が立たない相手を前にしてまさに無鉄砲。
しかし、怒りの感情は理性を失わせる。
アドレナリンが脳に分泌された佳乃にはもう戸惑いはなかった。
しかし、所詮は人間の女の子。
首を鷲掴みにされ、持ち上げられる。
佳乃の足は床から離れていった――




