第44話 白ずくめの老婆
家々が点在している山水村に住む子供達にとっては自転車は必須アイテムだ。どこに行くにも自転車で移動するのが常である。庸平は智恵子に連れられて曲がりくねった山道を下っていた。
「風が気持ちいいね、豊田君!」
「おい、ちゃんと前を見ていないと事故るぞ!」
長い髪を手で押さえながら片手ハンドルで智恵子が振り向こうとするのを庸平が止めた。しかし坂道を勢いよく下る自転車はたしかに気持ちいい。蝉の鳴き声がかき消されるほどの風切り音が連続して耳に飛び込んでくる。智恵子の水玉のワンピースが風になびく。
この急な下り坂を可愛い女子と一緒に自転車で下っている状況など、一月前の彼には想像すらできなかったことであろう。
山の中腹に位置する豊田家から自転車で一気に山道を下ると、クルマがようやくすれ違うことができるぐらいの細い道路に突き当たる。あと3つカーブを曲がれば突き当たりというところで、智恵子は急に自転車を止めた。
「うぉぉぉぉぉー!?」
けたたましく庸平の自転車のブレーキ音が鳴り、寸前のところで追突事故を免れた。
「危ないじゃないか! ……ん? どうした長谷川?」
「白い服のお婆さんがうずくまっていたの……豊田君にも見えたでしょう?」
「えっ、ほんとうに? 俺は気づかなかったけどな……」
2人は自転車を置いて来た道を引き返す。すると、智恵子が話したとおりにカーブの途中で白い服を着た老婆が斜面に背中を付けてうずくまっていた。
何か宗教的な意味があるのだろうか。帯を含めて全てが真っ白な和服姿の老婆である。しかも、髪も白髪。どこか異様な雰囲気を醸し出している。
しかし、智恵子は臆することなく老婆の背中に手をあてて話しかける。
「お婆さん、具合でも悪いんですか?」
すると、白髪の老婆はゆっくりと顔を上げる。老婆の顔はおよそ生気の感じられない真っ白い顔で、目の黒さが異様に強調されて見える。顔全体に刻まれるしわが長年の苦労を偲ばせる。
「見つけてくれたんだね、優しいお嬢さん。じつは……私の足に紐が絡んでしまってね……どうやっても外せないんだよ……」
「紐……ですか?」
見ると、たしかに老婆の足首に白っぽい紐が複雑に絡みついていた。その紐を辿って視線を上げていくと、山の斜面を這い上がるように繋がり、山林のずっと奥まで続いてた。智恵子は軽く首を傾げて考え込むが、
「じゃあ、うちがほどいてみますね。ちょっと失礼します……あれ!? この紐は……紙? でも随分丈夫な紙の紐ですね。ねえ豊田君。どうにかしてこれ、ほどけないかな?」
「うーん、どれどれ……本当だ、これは紙が複雑に絡みついて編み紐みたいになっているぞ。婆さん、どうしてこんな紐が足に絡んでしまったんだい?」
「それがね、私にも分からないんだよ。気付いたらこの通り、身動きがとれなくてね。ほとほと困り果てていた時に、お嬢さん方が見つけてくれたんだよ」
よほど長時間この場所でうずくまっていたのだろう。お婆さんの声はか弱く、元気がない。早く救助しなければ命に関わると判断した庸平は、
「婆さん、すまないがちょっとの間、目と耳を塞いでいてくれ。長谷川も協力してくれ!」
「えっ、あ、はい!」
その場に立ち上がって、手印を構える庸平の気迫に押されて、智恵子は言われるとおりにお婆さんの耳を塞いで庇うように覆い被さる。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
九字を唱えながら、手印を結び、最後に気合いを込めて両掌を老婆の足首に向けて突き出すと、白い紐から真っ赤な炎が立ち上る。
炎は紙製の紐だけを焼き切り、老婆の足袋には焦げ目すら残っていなかった――
「本当にありがとうね、お嬢さんたち。これ、よかったらもらってくれないだろうかね……孫にあげようと作ったのだけれど断られてね。優しいお嬢さんにもらってもらえると私も嬉しいのだけれども」
何度も頭を下げて礼を言う老婆が、そう言って何やら白い物を差し出した。
「えっ、これをうちに? いいですよ、お礼なんて……」
「いいや、これをもらってくれないと、私の気が済まないのだよ……人助けと思って、もらってくれないだろうか?」
「……じゃあ、遠慮なくいただいていきます」
そう言って智恵子は白い物を老婆から受け取った。
それは白い紙で作られた折り紙の人形。材質は先ほどまで老婆の足首に絡みついていた白い紙に似ているが……手の平に収まるぐらいに小さな折り紙の人形は、何枚もの紙を組み合わせて折られていた長い髪の女の子。
老婆に別れを告げ、2人は再び自転車で下っていく。やがて山道の突き当たりとなり、少し広い道路を右に曲がり、一本道を進んでいく。道の両側には畑や田んぼが広がる。色とりどりの夏野菜が出荷の出番待ちをしている。
1本道を自転車で10分程進むと『ようこそ田舎暮らし再発見の村へ』と書かれた立て看板があるT字路がある。彼らはそこを左折する。
ここは村で唯一の新興住宅地。人口の先細りに歯止めをかけるべく、村おこしの一環で作られた住宅地である。
建売住宅はグレーやクリーム色のサイディング張りの2階建て。屋根はグリーンやブラックのスレート瓦で統一されたおしゃれな住宅空間。しかし、築12年のそれらの建物は空き家が目立っていた。
庸平と智恵子は住宅地の角にある住宅の前に自転車を駐めた。
智恵子が慣れた手つきで『坂本』の表札が貼り付けられているインターフォンを押すと、ドタドタ……という階段を下る音が聞こえる。
『はい、どちら様ですか?』
佳乃の大人ぶった声がスピーカー越しに聞こえてくる。
「佳乃ちゃんおはよう! 遊びにきたよー!」
『智恵子!? ど、どうしたの突然……今開けるから待ってて』
「あー、佳乃ちゃん! 今日はもう1人お友達を連れてきたよ-」
『えっ、友達って……』
智恵子が庸平を肘で小突いた。
「よ、よう……俺だ……」
庸平がスピーカーに向かって声をかけると、会話がブツリと途切れた。同時に、家の中からせわしなくドタバタ駆けずり回っている様子が聞こえてくる。階段を上がったり、また下がったり……
5分後――
ようやく、寝癖がついた髪を気にしながら佳乃が玄関先に出てきた。
「どうしたの智恵子、いつもは遊びに来るときは連絡くれるじゃないの。それに……どうして庸平が一緒なの?」
「昨夜の電話で声に元気がなかったみたいだから心配したのよ。豊田君成分が不足しているのかなぁと思って………連れてきちゃった!」
「な、なに言っているの智恵子ッ! 昨日は家庭の事情がいろいろいあって……ねえ、人の話聞いている?」
「はいはい、あっ、豊田君も入ってね。自分ちだと思ってくつろいでいいからねー」
「ちょ……智恵子ーッ!」
勝手知ったる他人の家という様子で智恵子は坂本家に上がり込んで行った。奥の方から佳乃の母と慣れ親しんだ感じであいさつを交わしている声が聞こえている。智恵子はいつもこんな調子でこの家に上がり込んでいるらしい。
一方、玄関先ではまだ庸平と佳乃が互いにそわそわしていた。
デニムのズボンにグレーのTシャツを着た庸平と、白の半ズボンに青いVネックのTシャツを着た佳乃……共に私服姿で会うのは初めてである。
「昨日は……大変だったな……。でも助かったよ。俺一人じゃ2匹の龍を倒すのは厳しかったと思うから……」
「ううん……私の方こそ……なんかごめんね。魔物を呼び出す度にトラブルを起こしちゃって……でもいつも庸平が助けてくれるから……あの……」
「いや、助かっているのは俺の方だって!」
「ほ、本当に!?」
「ああ、本当だ!」
佳乃はうつむき加減で嬉しそうに笑い、庸平は自分の放った言葉に照れ笑いをしている。今の2人には魔物との戦いで中学校の校舎を再起不能にした張本人であるという自覚は全くないようだ。
「中、散らかっているけど……入る?」
「い、いいのか?」
「うん……散らかっているけど……」
散らかっていることを二度念押しした佳乃は、ウサギの顔をあしらったモフモフのスリッパを出した。庸平は一瞬、ツッコミを期待されているのかと佳乃の表情を確認するも、彼女は真顔だ。庸平はクスッと笑いながらモフモフに足をつっこんだ。
2階に案内される途中でキッチンにいる佳乃の母と目が合う。
「あっ、お邪魔しています。佳乃さんと同じクラスの豊田です」
一応は一般常識のあるつもりでいる庸平があいさつをする。佳乃の母もあいさつを返してくるが、佳乃本人はツンとして素通りしていく。庸平は彼女のその態度に違和感を感じた。
「ここが私の部屋……なんだけれど……散らかっているからね?」
3度目の念押しをしてきた佳乃に、庸平は優しく語りかける……
「分かっているよ。佳乃の性格からして中はゴミ屋敷みたいな状態なんだろう? 大丈夫、今日は長谷川もいるから3人で部屋のゴミ出しから始めようぜ!」
「はあ? あんた私のことをそんな女だと思っていたのー!? 見なさいよほらっ! これのどこがゴミ屋敷なの?」
佳乃は勢いよくドアを開ける。
木製のシングルベッドに学習机。小さめのタンスに本棚、そしてバッグ類を収納するカラーボックスなどが整然と置かれている。およそ女の子要素に欠ける部屋ではあるが、ゴミ屋敷疑惑を抱いていた庸平はがっかりするどころかほっと胸をなで下ろす。
「おそーい! あなた達、ここまで来るのに何分かけているのよ。ウチ、待ちくたびれたわ……」
部屋の中央に置かれたガラステーブルに頬杖をついた智恵子が言った。まるで部屋の主であるかのような態度だ。
「でも良かった、いつもの佳乃ちゃんに戻っている。これも豊田君効果ね!」
「ちょっと智恵子、さっきからあなた誤解しているようだけど……昨夜の私が元気なかったのは家庭内の事情で……ねえ、聞いてる!?」
佳乃はガラステーブルに手を付き、パンと叩いて抗議するが、当の智恵子は素知らぬ顔で庸平を手招きしている。
庸平は智恵子と佳乃の対面にあぐらをかいて座る。
ガラステーブルの下には、これから本格的な夏に向かう季節には不釣り合いな、茶色のふかふか素材のラグマットが敷いてある。
庸平は何か落ち着かない。先ほどからお尻がもぞもぞしている感覚に襲われている。はっと何かに気付いたように、彼はジーパンのポケットに手を入れる。
「なんだこれはぁぁぁー!?」
庸平は何か白い物体をポケットから取り出した。




