第31話 佳乃、立つ
白猫姿の白虎は背中を丸め、4本の足を真上に背伸びするように伸ばす。すると背中から白い煙のようなものが吹き出し、やがては身体全体が空中に漂う白い煙と化す。そして明らかに意志をもつその煙は、すうっと佳乃のうなじと浴衣のすき間へ吸い寄せられるように入っていった。
腰を抜かしていたはずの佳乃は、すっと立ち上がり、両腕をぐるぐる回し始める。
『久しぶりだわ、この身体に憑依するのは。学校裏の森で出会ったとき以来ね!』
「おい、気持ち悪いから佳乃の声マネをするのはやめてくれ。今は純度100パーセントで白虎、お前が精神を支配しているだろう?」
『うむ……しばらく人間どもと暮らしていたせいで、我にも遊び心が芽生えてきたのだな。許せ小僧よ。さあ、いつまでもそんな狭い場所に閉じこもっていないで外へ出るがいい!」
佳乃に憑依した白虎は、手刀を切るように庸平を閉じ込めている結界に向けて振り下ろす。
それは桜木翔太のカマイタチとは比較にならないほどの強大なエネルギーをもつ衝撃波。結界は床ごと吹き飛ばし、庸平の体は旅館の壁面に叩き付けられた。
「ぐっ、はぁ――……」
庸平はその衝撃に一瞬自らの死を覚悟したが、何とか持ちこたえることができた。
生身の人間の彼には過酷すぎる結界障壁崩しである。
「うっ――、あ、あんた、坂本佳乃、あんたが魔物の正体だったのか……」
少し的外れな反応を示す少年、桜木翔太。
彼をどう猛な肉食獣のように睨みながら、佳乃は一歩、そしてまた一歩にじり寄る。
『少年には我の仲間が世話になったようだからな……ただ喰うだけでは済ますまい』
「おい白虎、やり過ぎるなよ! 人間のルールに従え、相手を殺すな!」
『我ら魔物の領域を侵しているのは小僧ら人間の方だ。我らが人間の決め事に従う謂われはない!』
佳乃に憑依した白虎は、スリッパを脱いだ素足で地面を蹴り、すさまじい勢いで翔太に迫る。
翔太は扇を開いて防御の姿勢をとるが、瞬時に形成された青白い光の壁はガラスが割れるように砕け散る。続いて翔太の首をめがけて佳乃の手が伸びていく。
「くそっ……」
翔太は後ろにのけぞり攻撃を躱そうとする。だが避けきれない。
その時――
庸平が放った複数の霊符が空気を切り裂く音を伴い佳乃へ迫っていく。
それに気づいた佳乃は、寸前のところで向きを変え、空中へ高く舞い上がる。
ストンと素足で着地した佳乃に憑依した白虎は、呆れたように言う。
『小僧はこの女の身がどうなっても構わないというか? 我が避けなかったら女は死んでいたぞ?』
「お前なら避けられると信じていたさ。さあ、もういいだろう? そいつもお前には敵わないと分かったはずだ。もう佳乃の体から出ていけ! お前の仲間の敵討ちは俺が代行してやる。それに赤鬼の分もまとめてな」
『うむ……ならばそうするか……この女にも借りができたことだしな……』
佳乃に憑依した白虎が気を許したその時――
「悪霊退散――!」
桜木翔太の叫び声が旅館の地下階に響き渡った。
「桜木翔太――――ッ 空気を読みやがれ――――!」
庸平にフルネームで怒鳴られた黒装束姿の少年はビクッと身を縮めた。
彼は神器の扇を広げ、最後のあがきとばかりに悪霊退散のかけ声と共に金色の粉が舞い散る術をキメていたのだが、もはや力の差は歴然としていた。
浴衣姿の佳乃の身体は素足で地面を蹴り、少年の元へ迫っていく。
金粉が斑点模様のように固まりを作っているが、それをすり抜けて行き、佳乃の口元がニヤリと吊り上がる。
「――――っぐ!」
翔太の喉に佳乃の手がかかる。
少年は佳乃の細腕を掴み抵抗するが、その力は中学生女子の筋力ではない。
佳乃はさらに力を込め、少年の体を宙づり状態に引き上げる。
翔太は力尽き、両腕はだらっと垂れ下がる。
このままでは本当に殺してしまう。
そう思った庸平は、霊符を取り出し最後の手段に出ようと構える。
「やめて佳乃ちゃん――!」
若い女の叫び声が聞こえた。
ジャージ姿の長谷川智恵子が佳乃の浴衣を引っ張る。
「何があったか知らないけど、代わりに私が謝るから! お願い、その子を離してあげてー! 佳乃ちゃんはヘンな子だけど暴力は振るわない女の子のはずだよー!」
『うっもう1人の小娘か! や、やめろ。引っ張るな! 分かった、分かったから我から離れろ! ほらっ、もう何もしておらんぞ?』
佳乃に憑依した白虎は、翔太の首から手を離して両手を上げる。
気を失った翔太を智恵子が抱え込む。
庸平はほっと胸をなで下ろす。
『ホント、庸平の周りにはヘンな人間しかいないわね!』
白虎が佳乃の声真似で呆れたように言った。
「その筆頭はお前だ、白虎!」
庸平はそう言い返してやった。
*****
翔太が目を開けると、目の前に智恵子の豊かな胸のふくらみ、その合間からのぞき込む彼女の顔が見えた。
翔太は慌てて上体を起こす。
「うわっ、お、お前、なな、なにやっているんだ!?」
「何って……気絶していた翔太君を部屋まで運んで、膝枕で介抱していたんだけど? すぐ起き上がっちゃだめよ。ほら、もう一度お姉さんのお膝へどうぞ!」
「だ、誰がそんな恥ずかしいことを……」
顔を真っ赤にして立ち上がるが、立ちくらみでよろける。
すぐに智恵子が抱きとめて、
「ほらごらんなさい。まだ本調子じゃないんだからっ。大人しく寝ていなさい!」
強引に寝かせよう腕を引っ張る智恵子。
バタバタ手を動かして抵抗する翔太。
そして翔太のお腹が鳴った。
「……もしかしてお腹が減っているの?」
「……」
「ふふっ、じつはウチもお腹減っているの!」
翔太は目を逸らし、ぼさぼさの頭を掻きむしった。
ちょうどそのとき、襖が開く。
「あっ、目を覚ましたのね翔太君。智恵子の分の夕食を運んできたよ。あとその子の分もおにぎりを作ってきたから」
佳乃がお盆を片手に入ってくる。ここは佳乃と智恵子が宿泊する部屋。大広間での夕食を済ませた佳乃が気を利かせて2人の分を運んできたのである。
しかし……
「あ、あんたは魔物使いの女! さっきはよくも――うわっ、や、やめろ! やめてくれ――!」
再び立ち上がり佳乃に迫ろうとする翔太を、智恵子が後ろから抱き抱えて制止する。智恵子と翔太の身長差の関係で、彼の後頭部に彼女の豊かな胸が押しつけらている。桜木翔太、中学校1年生。まだまだ純情なお年頃なのだ。
「ねえ、翔太君ウチの話を聞いて。そこにいる佳乃ちゃんは普通の人間の女の子よ。ちょっとヘンなところがあるだけで、おおむねフツーの女の子なのよ」
「そうそう、私は普通の女の子なのよ。一緒にいた豊田庸平という男が陰陽師で白虎を使役しているの。あなたが庸平を閉じ込めちゃったから仕方なく一時的に白虎は私に憑依してあなたと戦う羽目になったのよ?」
「ならば俺は……普通の女に負けたということか……この俺が……」
「だーかーらー、あなたが戦った相手は私だったけど私ではなくて……あー、どう言えば分かってもらえるのぉぉぉ?」
佳乃は頭を抱えた。
時刻は7時半を回っていた。
翔太は人を待たせているからと話し、握り飯を受け取り足早に去っていった。
その後ろ姿を智恵子は名残惜しそうに見送っていた。




