43 まんぼう亭の外へ
少年の背で、四枚の千切れた翅が不規則なリズムを刻み激しく前後する。
時々、勝利の目は翅の形を見失った。力んだ際の翅が尋常ならざる勢いで空気をかく為だ。
飛ぶつもりでいるのか。その大半が欠け機能など失われている付け根のみの翅四枚で。
当然、少年の体は浮き上がる事なく、ツェルバの腕の中に留められてしまう。
両腕で黒の縫修師を拒み、彼は小さな頭部で最も大きなカーテンを指した。窓の外に行きたいばかりに。
諦めるという事を知らない情熱は、不二から逃げまどっていた少年のものとは最早別物と言っていい。喜びを表現していた小さな翅ばたきとも違う。
「誰かの悲しみを食べに行きたいのね」
ミカギが、カーテンの奥に隠れている南南西側の窓を指した。
室外の勝利が推測するに、最奥の部屋には二つ若しくは三つの窓がある。
長方形の長い一辺に穿たれている小さな穴が、目前にある出入り口。平行する奥の一辺には、長さを利用した最も大きな窓が用意されている筈だ。
少年は、そのカーテンの奥に窓が、つまり外界への出入り口があると確信している。
伸ばされた右手が、必死に五指を開閉させる。離れた場所に固定されている窓を手繰り寄せんとする、思いの募った仕種だ。
「ツェルバ。いつからこの状態になった?」
ライムの問いに、「ついさっき」と黒の縫修師が半泣きになる。「バスケットの蓋を僕がして、寝かしつけようと思ったら、自分で中から這い出してきた。その時は、もうこんなになっちゃってて」
「まるで、スイッチが切り替わったみたいですね。でなければ、裏表の入れ替わりみたいな…」
勝利の言い回しに、異論を唱える者はいない。表情、性格、黒い靄を纏おうとするところなど、とにかく就寝前にあった少年の特徴がほぼ全て失われている。
「翅が失われた事に気づいていないのだな…」
ライムがぽつりと漏らすと、ダブルワークが「無我夢中で、背中がどうなってるのか、思い出す余裕がねぇんだろう」と続ける。
「そういう猪突猛進なところは、泣き食い虫の性質なんですか?」
誰かが答えてくれる事を期待し、勝利が尋ねた。
「似てるけど、違うわね」ミカギが眉根を寄せ、身構えるように胸の下で腕を組む。「泣き食い虫は元々、忍び寄って取りつくのよ。だから、あまり激しい動きはせず標的に少しづつ近づくのが普通なの」
「この子はきっと、悲しみなんか食べられないよ。外に出ても意味ないのに……」
小さな拳がポカポカとツェルバの腕を叩く。
「どうしたの? 僕の事、忘れちゃった?」
訴えかける黒眼の少年が、小さな左の掌を摘んで取り上げた。
「悲しみは食べられない、か……」
それは当たっている、ような気がする。
三日分の過去という実体のないものを奪い去る吸魔。あの怪物を知るからこそ、勝利には感覚で理解しているものがある。
虫の少年が備え持っているのは、勝利やライム達と同じ口と手だ。パスタやクッキーの味や歯ごたえを感じる事ができる分、実体のない悲しみを吸引しようにも必要な器官が足らないのではないか。
時間吸引用の器官を持つ吸魔に、咀嚼や味覚感知の能力があるとは思えない。ならば、虫の少年にも、片方だけという特徴が当てはまってもいい筈だ。
無駄と知りつつも自宅に帰りたいと願った吸魔の百合音。
本来の口に入れたかったのは、母親の味だ。
無意味だとわかっていても。いや、無意味だからこそ抗いきれない衝動は終わりなくその身を苛んで、強い乾きを膨張させる。
「ただ近づきたいだけなのかも。誰かの悲しみを嗅ぎ取ってしまったから」勝利は、思いついた推理に多少の自信を持って胸を張る。「猫って動く物を狩りますよね。虫でも玩具でも、そうせずにはいられないから」
ライムの「なるほど」とミカギの「それ、ありかも!!」、ダブルワークとツェルバ、スールゥーの「それだァ!!」、チリの右手で左手を打つ音、全てが同時に発せられた。
勝利は、頭を掻きつつ口端を上げた。一つの可能性でしかないが、辻褄は合うように思う。
「湖守さんを呼んでくる」
チリが、勝利の横をすり抜け走り出した。
「標的は勤め人か?」ダブルワークが、勝利には見えない壁掛けの時計を指す。「昼間は随分と大人しかったよな。昼の間は嗅ぎつけられず、今これだけ興奮してるなら、離れた場所まで働きに出てる人間だろ」
「しまった!!」
ライムが突然少年に近づくと、右手で少年の右頬に触れる。
「あ。そうか」
得心したツェルバも左の頬を指で軽く押し撫でてやると、よほど気持ちがいいのか、少年は激しい抵抗をやめた。未だ黒い靄を纏ったままの姿だが、目を細めゆっくりと翅を動かす事で勝利と神々を安堵させる。
目線の高さを合わせたライムが、少年を真っ直ぐに見据えた。
「一つ尋ねるぞ。君に兄弟はいるか?」
ライムの問いに、少年が無言で首肯する。
「その兄弟は、君と一緒にこの世界まで来ているのか?」
僅かに目を開いたが、ほぼ同じ動作で少年は肯定を重ねる。
「ちょっと。それってまずいじゃない!!」
腕組みを解いたミカギが、一番大きな窓に走り寄り、カーテンを動かした。
やや広めのバルコニーの向こうに、暗さばかりが目立つ夜の町が広がっている。駅前の高層ビルは勝利の背中方面に建つ為、バルコニーの先に見えるものは、鉄塔や煙突の存在を示す幾つかの赤い航空傷害灯だけだ。
「え、と…。どういう事ですか?」
名推理が途絶え、勝利は落ち着かない様子でライムとダブルワークを見比べた。
「チビ助の兄弟が地上に来たって事は、まだ白スーツと一緒かもしれねぇだろ」
「そして、ここにいる少年と同じ悲しみを嗅ぎ取り、あの男を誘導するかもしれない。悲しみを持て余した人間のところまで」ライムが、一度唇を噛む。「闇世界で腹を空かせている泣き食い虫に、もし、そういう人間が必要だとしたら?」
「あ……」
捕食する側の吸魔と標的にされる人間の関係が、勝利の脳裏で類似した構図を結ぶ。
昼に一度味わった胃酸が、またも喉を逆流しようとする。しかし今回は、自制心で飲み込んだ。
状況は理解できつつある。吐いている場合でないのは確かだ。
拳を握って、勝利は深く息を吸う。
「わかるだろ?」小さな少年の頬を指先で押し続けながら、顔をしかめたツェルバが舌打ちをした。「最悪、帰って来ないこの子の代わりに、見つけた人間を闇世界までお持ち帰りするって事だよ」
-- 「44 豹変」 に続く --




