38 夜に蠢く その1
背後から大きな手が頭上に伸び、勝利の髪をくしゃくしゃにかき回した。
ダブルワーク程短髪ではない上、多少柔らかい髪質が災いする。手が離れた後の頭髪は、無惨にも荒天の爪痕がそこかしこにくっきりと残っていた。
「お前は本当にいい事言うじゃねぇか。勝利、後で背中を流してやろうか」
「いいですよ。皮膚を全部削り取られそうで怖いです」
「言ったなァ~」
再び頭頂部に手が伸びたところを、ライムの左手が掴んで止めた。
「よせ。話が逸れる」
それが湖守への気配りなのだ、と勝利はリーダーの表情から察知した。黒い口髭の下で引き締めた一文字の口元が、込み上げてくるものの暴発をかろうじて食い止めている。
「勝利君」
「はい」
「ありがとう!!」
店主の右手が、勝利の左肩に添えられた。その手が湖守の胸元へと引き寄せてゆく。
雇用者と従業員というより、息子を抱擁する父親に近い関係で、二人は静かに固まった。
「勝利君はいい子だ。僕は嬉しくて、どんな風に表現したらいいのかわからないくらいだよ。今日、何度目だろうね」
「そんな…。特別な事なんて何もしていません」
「やっぱり人間は愛おしい。僕達の不死は、こういう一瞬に支えられて堕落を免れているんだ。…本当にありがとう」
「湖守さん……」
焼けたベーコンの臭いが、黒髪の店主のワイシャツに染み着いている。人の営みというものを感じさせる布地に顔を埋めつつ、勝利は湖守に気持ちが届いた事を素直に喜んだ。
「カルボナーラ、美味しかったです」
和也少年も、きっと好みの味だった料理の事は誉めて帰ったろう。
ところが、神として今後どうあるべきか。その一点だけが酷く擦れ違ったまま、二人は永久に会話する機会を失ってしまった。
おそらく今、湖守は和也の事に思いを馳せている。
無名の使命感が、勝利の底で一つの固い決意となった。
いずれ、鍛冶神と逢わなくては。仕えていた湖守さえ欺いたその真意を質す為に。
そして、『神々の喪失』前に一体何があったのか、第一世代だという神から多くの情報を吸い上げる為に。
湖守の両手が、勝利を解放した。
「今夜、君達の言う白スーツの男がここに来ると思う。相当神格の高い相手のようだから、満足な備えのない今の状態だと、僕達は結構苦戦するかもしれない。でも僕達は、その備えで戦う。ダブルワークが君を護って。君自身は、どうしたい?」
「戦いに加わります」リングに戻るよう命じてから、勝利は手元に帰って来た小さなパーツを三人の眼前に翳す。「この不二で出来る限りの事はします。……あの子と、湖守さん達と、このまんぼう亭の為に。もし俺が勝負神代理になるとしたら、不二の主としてやるべき事をやった後です」
そう。確率操作が必要ならば、勝負神自らが場面を読んで自発的に行う可能性が十分にある。昼間の邂逅も、一昨日の夜に起きた吸魔との遭遇も、関係していたのは、勝利の活動に一切関係なく作用する勝負神の力だった。
全ての場面で代理を必要とする訳ではない。
「頼もしいな、勝利。実際、期待してるぜ」
ダブルワークがまたも手を伸ばしてきたので、咄嗟に頭髪を庇う。
「頑張りますよ。ボロボロになったダブルワークさんとか、見たくありませんから」
「言うなぁ~」伸びた手は拳となって、勝利の背中をぐいと押した。「寝てたら、叩き起こしてこき使うぜ」
「はい。お願いします」決意の下で返事をすると、ダブルワークが「力みすぎるなよ」と小声で警告する。
「はい」
「じゃあ、そろそろ店に戻ろうか」
目元を崩して部下を見やった黒髪の店主が先頭に立ち、四人で通用口からまんぼう亭に入る。
「湖守様」聞き覚えのある声に迎えられた時、勝利は、石塚が再び来店している事を知った。「君恵さんには今夜、私の所に泊まってもらいます」
「ありがとう。僕の方から友和さん達に伝えておくよ」
湖守が真田姓の神らしき名を出すと、石塚の表情が萎む。
「やはり、話すしかないのでしょうか」
「惨い事実だ。できれば、いつまでも和也君を行方不明のままにはしておきたい。だが、闇の神々が僕達をどう扱うか、をこんな形で知ってしまった。あの子の姿を見た者が黙っていると、第二、第三の犠牲者を出す事に繋がってしまう。その方が今は怖い。…抑止こそが、僕達の役割だよ。石塚君」
ダブルワークが勝利を説き伏せた話を、念を押す形で湖守も石塚に突きつける。
ただ。石塚を自分側に立たせ敢えて重い言葉で組み伏せるのは、彼もまた現役の土地守として多くのものを背負っている為なのだろう。守るべき土地、神々や精霊、そして管轄地区に住む人々は、動じる事のない石塚の強さを必要としている。
「そうですね」今後を見据えたリーダーの判断に、石塚が渋々引き下がった。「今夜、他にも私に手伝える事はありませんか?」
「君恵さんの事、頼むよ。絶対外には出さないように、ね」
「はい。では、彼女を連れて帰ります」
頷いた石塚が、間仕切り壁の向こうに消えた。
「今夜、か……」
すっかり日の落ちた窓外を、駅から郊外へと歩く人々がゆったりとした速度で現れ、消えてゆく。
外を歩く人々は知らずにいる。壁に隔てられたまんぼう亭という空間で、神々が数時間後の戦いに備えている、という事など。
駅を目指す車のテールランプが、左から右へと赤い帯を流して走行した。
勝利の内に、小さな疑問が降って湧く。
果たして、食事をする神々は血を流すのだろうか、と。人間についた浅い傷口が赤い液体を滲ませるように。
決して血など流れてはいけない。今夜、不二をあの白スーツの男にぶつけるのは、仲間も、あの虫の少年も傷つかないようにしたいが為だ。
小さな不二にどこまでできるだろう。そして、意気込みを抱いているだけの一周勝利という人間に。
「こんなに食べて、遊んで、まだ眠くならないの?」
テーブルの上で、虫の少年が頷いた。
ツェルバの声が、「ふーん」と納得しきれない声で何かを飲み込む。
-- 「39 夜に蠢く その2」 に続く --




