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縫修師ライム・ライト  作者: 野中炬燵
第1話 勝率を下げる男と新緑に彩られた神々
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04 失われた経歴

2017-05-01 縦書き対応と加筆修正。

 部屋の鍵を取り出そうとした途端、指の間からこぼれて落ちた。屈んで取り上げるが、またも軽い金属音が立つ。

「な…、何なんだよ…」

 泣きそうな顔をして、勝利は玄関前に片膝を突いた。おぼつかない手つきのまま、小さな金属片を再び取り上げる。

 人間は、日常的に繰り返している些細な動作の再現ができないと、自らに起きた異変の大きさに改めて打ちのめされる。今の勝利は、正にそのような状態の中にあった。

 昨日と同じありふれた冬の一日が、今日も過ぎてゆくだけでいいのに。何故、獣の姿をした魔物が夜の市街地に現れたのか。

 しかも、襲われる対象が何故自分でなければいけないのか。

 それは、疑問であると同時に、我が身に起きた事を否定したい切実な叫びでもあった。

 説明会の帰りに買い物をしておけば、夜の外出などそもそもする必要はなかった。億劫がった自分を責め、内から背から押し寄せてくる後悔に声を上げずむせび泣く。

 過去が不動のものである事に憤り、また無性にやりきれなくなった。

 やめよう。意味のない事だ。

 失意の底で数度やり直し、ようやく真っ暗な部屋に入る。

 手探りで玄関兼台所用の明かりを点けると、見慣れた空間が目前に広がった。

 和室に転がり込むなり、エアコンのスイッチを入れる。そして、倒れ込むように座ってぼんやりと天井を仰いだ。

 機械が送り出してくれる暖気が心地よい。淡々としたエアコンの稼働音も耳を慰めてくれる。

 とはいえ、最悪な気分のまま食事と水分を口に入れるのは嫌だった。

 食べたところで、無駄になるとわかっている。あのズズッというおぞましい吸引音を思い出した直後、悪心から全てを吐き戻してしまうに違いない。

 癒しが欲しくなり、ふとスマホを取り出す。時間的には、写真共有アプリに沢山のユーザーが集まる頃だ。

(メール…?)

 スマホの左上で、着信を告げる点滅が控えめに繰り返されていた。路上で見た時に気づかなかったのは、余裕がなかった為か。

 メールは二通届いている。発信元はいずれも昼間見つけた求人中の会社で、時間は勝利が買い物に出た直後だ。

 一つの会社からは説明会の案内を、もう一つの会社からは面接の日取りを決めたいとの打診で、今日の夜の段階で枠は未だ埋まっていない事がわかる。

 ふっ。勝利は微笑した。

 ほんの些細な、可能性の入り口程度のものが嬉しくて胸が暖まる。しかも、勝利個人宛にきちんと体裁を整えた内容だ。

 そういうものを受け取る喜びを、「馬鹿みたいだ」と人は嘲うのだろうか。

 求職者宛のメールには日常がある。勝利が長く馴染んだ、当たり前とありふれたものの数々が。

 まだ壊れていない。自分は、世界との繋がりを以前のまま維持している。

 そう信じる事ができ、心の底から安堵した。

(履歴書ならあるぞ。昨日、何通分かまとめて書いたからな)

 後は、写真を貼り志望動機などを書き足すだけで終わる。折り目がつかないようにと大判の雑誌に挟んでおいた白い紙を数枚取り出し、手書きの字体にそっと見入った。

 記入者としては、自分なりの丁寧な書き文字だと自負している。

 職務経歴書はクラウド・サーバー上に保存中だ。スマホで日付のみを入れ直し、面接の日が決まった後に出力すればいい。

「…写真がそろそろ足らなくなるんだな」

 面接に行くにしても交通費はかかるし、小さな出費が積み重なりそうだ。

 蓄えは僅かにあるものの、切り崩してばかりでは生産性がなさすぎる。次の仕事はすぐにでも決めたかった。

「あれ…?」

 突如、鳴り響く心臓の音を頭蓋骨の中で聞く。

 職歴の行数が減っている、気がするのだが。そんな事があり得るのか。

 昨日、過去に勤めた二社分の経歴を書き並べた筈なのに。最初に勤めた会社に関する二行が抜けている。

 職歴は、四行ではなく二行になっていた。

 勝利は、大学卒業までに内定を取る事ができず、その年の六月に池袋で最初の職に就いた。勤務期間は一年一ヶ月と本人の意欲に反し短く、倒産によって放り出されている。

 幸い、その翌月墨田区で次の職に就く事ができたが、その会社も翌年の八月に倒産してしまった。

 勝利の職歴はその二つだけで、決して書面上の書き方を省略した覚えなどない。

 しかし。履歴書には、二つめの会社に卒業の翌月から勤め始めている事になっていた。この用紙だけ、池袋の会社の件を書き逃しているのか。

「しっかりしろよ、俺。そんなんだから落ちるんだぞ」

 乾いた声で自身に言い聞かせ、記入済みの他の用紙にも目を通す。

 そこで、いよいよ顔色が変わった。

 全ての履歴書から、一社めについての二行が抜けている。そればかりか、やはり大学卒業の翌月から自分は社会人である、と書いてあった。

 記入漏れ、などではないのだ。社会人としてのイロハを教えてくれた、あの池袋の会社を何故自分の人生で否定する必要があろう。

 勝利は、心臓の鼓動で肋骨が折れるのでは、との不安に駆られた。

 当然、今一番触れたくない記憶を思い返す。あの黒い獣の襲撃を。

 まさか、関係があるのか…。

(よせよ。何かの冗談だろ…? 一年以上通ったあの……)

 池袋の会社を思い出そうとして、息が止まる。社名を思い出そうとするも、最初の文字も一音も出てこなかった。

 名ばかりではない。会社の外観、業種、駅から会社までの道程、更には自分のデスクから眺めた室内の風景も記憶から抜け落ちている。

 駆け出しの総務として、電話を取り「○○さん」と呼びかけた筈が。先輩の顔も名前も霧の向こうだ。

 昼に通った店はあるのか? 自分は弁当男子ではないので、コンビニで調達したか食べに出ていると思われる。

 小さな欠片でもいい。池袋にいた記憶が欲しかった。

 会社の人間だけで参加したものはないか。

 花見、花見はどうだろう。

 墨田区の会社は花見が好きで、三月の下旬には皆で上野公園に出かけていた。

 池袋の会社は…。

 勝利の心臓が一度、大きく弾む。

 同じ顔ぶれで花見をした記憶がある。それも二回分も。

 どちらもほぼ同じメンバーで占められており、参加者の全てを墨田区の会社の人間と思うより他になかった。

 どうにもこうにも勘定が合わない。

 墨田区まで通った会社は昨年の九月に入社しているので、その後春は一度迎えているだけだ。皆で上野公園までソメイヨシノを楽しみに行った記憶が二回分生まれる筈がない。

 同じ年に二度花見が企画されていれば、話は別だが。

 但し、それはあり得なかった。

 上野公園は敬遠したがる先輩も多く、年に一度の花見さえ渋々加わっている様子だった。その顔ぶれで同じ年に敢えて二度も、大混雑で知られるあの上野公園を花見の場所に選ぶ訳がない。

 履歴書を畳に置いて、代わりにスマホを握りしめる。

 さして理由はなかったのだが、サーバー上に残している職務経歴書のデータを確かめてみたくなった。

 ログインし、一覧から「職務経歴書」選ぶ。

「まさか……」

 一度、全身が揺れる程の震えに襲われた。背筋を一筋の汗が伝う中、歯が繰り返し小さな音を立てる。

 案の定と言うべきか。まさか、と言うべきか。

 ネットワーク上に保存されているデータからも、池袋の会社に関する記述は抹消されていた。

 最早、記憶違いや書き損じのレベルでない事は明白だ。

 先程遭遇した黒い獣。嫌でも、あの不気味な姿とこの怪奇現象を関連づけたくなってゆく。

 何者かに書き換えられてしまった。勝利の過去を。



          -- 05 「階上を窺う男」に続く --


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