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縫修師ライム・ライト  作者: 野中炬燵
第1話 勝率を下げる男と新緑に彩られた神々
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29 難題  その2

2017-05-18 縦書き対応、加筆修正。

 目を細める勝利の顔つきから、色彩の世界に感銘を受けている者の没入ぶりを傍らで悟ったのだろう。部屋の主たるライムの、さも嬉しそうな声が勝利の耳を柔らかく撫でた。

「いい絵だと思うんだ、私は」

「はい。俺も、です」

 いつになく、ライムの声が穏やかな喜色を含んでいる。冷たい印象が手前に出やすい、あのライムの声が。

 今、どのような表情をし、この絵の事を思っているのだろう。子供じみた興味が激しく疼き、勝利は絵から視線を剥がして事務机の端に立つライムを覗き見ようとする。

 勝利の中から、瞬きという言葉が外れて落ちた。

 目尻と口端、そして頬の形が、かろうじて笑顔に類するものを拵えている。微笑と類するにはあまりに力なく、それでいて内なる慈しみが僅かに滲み出る。そんな控えめな表情が目前にあった。

 人の姿をした美貌の神だけに、静かな感情の動き一つでも傍観者を無駄に動揺させる。

 更に、だ。今日初めて、仕事から離れたライムの安らぐ様を見たのだと思う。

 勝利の住むアパートを訪れ、三日吸いの被害者が放つ慟哭に嫌な顔一つせず耳を傾け、吸魔が出現しそうだからと現場に赴き、そこで折角の仕事を勝利に邪魔された。

 ダブルワークが沸騰してしまった原因の何割かは、勝利が負わせてしまった過度なストレスにある筈だ。同じ負荷をライムも抱え込んでいると考える方が、自然ではないか。

 しかし、日々見慣れている筈の絵画を前にして、浮かべるのはこの笑顔だ。衝突の仲裁に入った勝利の気も緩む。

 一人、怒気を捨てきれずに置き去りを食ってしまい、最後はライムの微笑で毒気を抜かれたのだろう。褐色の肌をした男まで、絵の話題に加わろうとする。

「俺も好きだぜ。思い込みで自分の正しさを信じるより、この絵に説得される方が俺の中に馴染む。だから、毎日眺めてるんだ」

「そんなに辛いものなんですか? お二人にとって…縫修という作業は」

 追跡者達の澱に触れてしまうと、尋ねずにはいられない。それが知ってしまう、という事だから。

 返事は、なかった。

 幸い、気まずい空気を払拭するタイミングで、ドアをノックする者が現れる。

「飲み物とお菓子です」

「乃宇里亜か。随分遅かったな」

 ダブルワークが開けてやると、青髪の少女が大きなトレーで三人分の暖かい飲み物の他、篭入りの焼き菓子を運び込む。

「マスターが、スコーンを焼きました。後二時間はこれで我慢してくれ、との事です」

「…忙しいのに」ライムが、乃宇里亜に代わってトレーをテーブルへと置いてやる。「後は私達が自分でする。ありがとう」

「わかりました」

 またも、少女の姿は瞬時に消えてなくなった。

 慣れれば良いのかもしれないが、人間は、自分の思いだけで突然適応できはしない。少女が消失する度に、勝利の体は小さく跳ねる。

「ランチで大車輪の時間帯なのに、よくやるぜ。湖守さんは」

 新緑色の髪を持つ男が上司の働きぶりに呆れれば、新緑色の虹彩を持つ男が相槌を打つ。

「鍛冶神づきなんだ、昔も今も。客がいるのなら尚の事、何かを作り続けていないと落ち着かないのだろう」

 三人全員がここでコートを脱ぎ、テーブルについた。

 ライムは、濃緑のスーツと白いワイシャツに、盛夏期の明緑をしたネクタイを。ダブルワークは、緑黄色をした無地のタートルネックを、新緑色が際だつ容姿に合わせている。片やトラッドに、片やカジュアルに徹底しているところは、それぞれの性格そのままだ。

 紅茶、柚子茶、そしてコーヒーと、今回も全員の飲み物がバラバラで、尋ねるまでもなくどれが誰用なのかは一目瞭然だった。

 バラバラか。流石に刺々しいものは霧散したものの、室内を漂う空気は未だに何処かぎこちない。

 エアコンの稼働音が聞こえる。

 地雷を踏んだと自らを責める勝利にとって、この気まずい間はかなり堪えた。思考が空転すれば、回答を得られる事のなかった問いかけが、自身に向けられてゆく。

 大地に立つエル・ダの勇姿が妄想でないとすれば、勝利もまた人間ではない、という事になる。湖守が神造神であるように。

 ならば、茨城にある実家と家族の記憶は何なのか。故郷で過ごした学生時代の記憶こそが捏造という事になってしまう。

 誰かの声が聞こえた。遠く、遠く、思考や感情の裏返った靄の中にある果ての世界から。「お前は、どちらかを選ぶべきだったのだ」と。

 声の主に心当たりがない。勿論、何と何の間に立っており、何故選ばなければならないのか、についても。

 ただ、胸が痛かった。それは、拭いきれない後悔の痛みだ。

「後悔って…、何の…」

 譫言を放った勝利の頬を、先程と同じ痛感が襲った。

「勝利君!!」

 目を開くと、ライムとダブルワークがそれぞれ勝利の肩を左右から掴んでいる。またも白昼夢に翻弄されたらしい。

「ダブルワーク、あれを使おう」

 言うなり、勝利を相方に委ねたライムが立ち上がって、カーテンの奥へと消える。

 すぐに戻って来たのだが、その左手には煙をたなびかせる小さな香炉が乗せられていた。

「あれか」と、褐色の肌をした男も合点する。

「ああ」ライムが、香炉をテーブルの中央に置いた。「勝利君。君は昨夜、ほとんど寝ていないのだろう。この香りで多少は落ち着く筈だ」

 煙から遅れる事、数秒。ようやく香りが鼻孔をくすぐった。

 シナモンとミント、レモングラスを全て足し、爽やかな部分を取り除いたような匂いが、ゆっくりと煙を従え広がってゆく。

 正直、眠気というものは皆無だと思う。むしろ、整理が必要な量の情報を取り込んでしまい、しゃかりきになって処理している感すらある。

 しかし、ぴちゃぴちゃという耳障りな音を無限に再生し続け、昨夜は床で最悪な一夜を過ごした事もまた、事実だ。

「この香りで、時の混乱が若干だが鎮められる。眠気がきたら、寝てしまってもいい。昨夜よりは質のいい睡眠が取れるだろう」

「あ、ありがとうございます」

 コーヒーで口の中を湿らせようとしたものの、手が持ち上がらない。全身が突然、休養を求めて主に行動の拒否を訴えた。

 快適な香りとは言い難いが、不思議と嫌な記憶を遠ざけやすくなる。瞼の裏に焼きついているのは、一枚の絵と二人の知人の姿だ。

「これなら、眠れ……」

 最後まで言い終える事なく、勝利は椅子に座ったままの姿勢で意識を眠りの淵の底にまで沈めてしまう。音のしない暗水のうねりに全てを委ねた上で。



          -- 「30 幸運と不運」に続く --


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