襖の向こうの京介くん
お家を買った。私がじゃない。父と母が中古の家を購入し、そして私たち家族は引っ越した。そこは母の故郷で、地方都市と言ってほどほどに栄えているらしい。家はやや中心街から離れ、のんびりした雰囲気の住宅街に立地している。その住宅街の背後には、小さな木々がひしめく小山があり、階段を十分ばかりのぼると頂上につくらしい。そこは見下ろす眺めがいいんだよ、と父は自慢げに言った。
家は二階建てだ。平たい屋根に白い壁。小さな庭には取って付けたような植木鉢がひとつ、隅の方にぽつんと置かれている。花壇はない。母は家庭菜園でも始めようかしらと、あとでホームセンターに行くことにしたらしい。
私は新しい家の玄関の前で、そっと家の内部を伺っていた。すっかり荷物も運び終えて、あとは荷を解いてうまい具合にいろんなものを納めれば良かった。昨日まで住んでいたアパートは小さかったから、私は姉と同じ部屋だったけど、新しく住む家では姉にも私にも一部屋ずつ与えられた。
部屋は二階。階段をあがって右側が姉の部屋。左側が私の部屋。私の部屋は少しだけ小さい。なぜなら、左側の奥には物置があり、その分だけ私の部屋が狭くなっていた。母が首を傾げながら「どうしてこんなところに物置なんて作ったんでしょうね」と不思議そうにしていた。いわく、二階の一番奥なんて使い勝手が悪いらしい。だけど、それくらいはしょうがないわね。そう言って母は階下に行こうとしたので、私は慌てて母の後を追いかけて階段を降りた。
「京子ちゃん。部屋でお洋服やお勉強道具を片づけないといけないでしょう?」
お姉ちゃんはもう部屋で荷物を開けて、片づけをしているみたいよ。京子ちゃんもやってきなさい。そういって母は忙しそうにキッチンへ消えた。その背中を見送って私は家の外に出て、それからずっと玄関から家の中を伺っている。
いろいろなものを納めなければいけなかった。
お洋服は白いタンスへ。
お勉強道具はシンプルな作りの学習机へ。
本は小さな本棚にいれて、きらきら光るビーズのセットは本棚の一番下へ。
ベッドにはシーツを掛けなければいけなかったし、友だちから貰った写真とメッセージカードは壁へ飾る。
そう、引っ越すのに伴って、私は小学校も転校することになった。友だちとの別れ、新しい環境への期待と不安。私はそれらを持てあまして、自家用車に揺られてこの家の前まで来た。家は二階建てだったし、白くて綺麗だったのですぐに気に入った。小さな庭でうさぎを飼っていいか、あとで父に尋ねるつもりだった。自分の部屋があるのは嬉しい。姉と一緒にわくわくしながら階段を駆け上がった。姉の部屋より狭かったけれど、そんなことは気にもならなかった。私は姉より小さなかったし、なにより自分だけの部屋なのだ。小さくてもそれは私のお城で、憧れの秘密基地だ。
鼻から息を吸って、私は家へと足を踏みいれる。変な空気はない。明るくて爽やかな家だ。窓は大きくて光りはいっぱいに差し込むし、窓を開ければ涼しい風が入り込む。キッチンでは母がお皿を出しては棚に並べ、居間では父が照明の具合を確かめていた。
階段を昇る。滑らかなフローリングに靴下は滑りそうだ。二階に着けば私の部屋も姉の部屋もドアが閉まっていた。姉の部屋から音楽とがそごそとダンボールをあさる音がした。私はそっと左足を滑らせて、するすると移動し、自分の部屋を通り過ぎた。そして廊下の奥にある物置の前に立つ。物置はドアではなく、襖で出入りできるようになっている。そこだけ時代に取り残されたように古くさく、襖に貼ってある紙は黄味を帯びていた。
息を殺して襖に手を伸ばす。そして爪先でカリカリと一文字を書くようにこすった。ざらついた襖。カリカリカリカリ。襖の向こうから同じ音が返ってきた。
母はなぜ、この物置を前にして平然といれたのだろうか。
母が襖を開けようと手を掛け、そして僅かに開いてなかなか開かない襖に苦戦していたそのとき--襖の下の縁を手が掴んでいた。たった数センチでは物置の向こうは真っ暗で見えない。だから手が生えているように見えた。手は襖を押さえているようだった。あとでお父さんにお願いしましょう。そういってぴしゃりと閉まった襖。手はもうなかった。けれど、私はちゃんと聞いた。こんこん。襖の向こうから小さなノック。その音を鳴らしたのが先ほどの手であることは容易に想像がつく。
私はいろいろなものを納めなければいけなかった。
例えば、そう--覚えのない先住民の落としどころを、探さなければいけなかった。だから再び襖の前に立っている。カリカリカリカリカリと音は続いている。爪でひっかいているのか、僅かな振動が私の指先に伝わる。
「今日から引っ越してきたの」
落としどころとして、私はこの先住民と仲良くやっていく方が好ましいと考えた。襖から生えた手を見るに、その手は私と同じくらいだったし、どう見ても何てことのない人間の手だったからだ。これが曲がりくねって節くれ立った指や緑色の肌、はたまた人間にはあり得ない鱗がびっちりと生えていたなら、私は物置の中身を無視することにしただろう。だけど、相手は人間だ。どういう経緯で物置にいるのかはわからないが、怖い存在ではない。そうであるなら……仲良くした方が良いと判断した。幽霊の可能性も考えたけど、手は襖をしっかり掴んでいたし、透き通って消えるようなこともない。今だって、確かにカリカリと向こう側から爪を立てる音が聞こえているのだから。
さあ、自己紹介をしよう。この街で初めての名乗りだ。
「私は京子。あなたは?」
爪でひっかく音が止んだ。襖の向こうで何かが動いたような気がした。襖に耳を押し当てると、ひゅーひゅーと明らかに呼吸をする誰か。
「ぼくはきょうすけ。ずっとここにいるよ」
からからに乾いた男の子の声だった。
「置いて行かれたの?」
「ずっとここにいるよ」
「ねぇ、きょうすけくんはいくつ? 私は八歳なの」
「ずっとここにいるよ」
思わず顔をしかめてしまった。きょうすけくんは同じことしか言わないし。平坦な声の調子は機械みたいだった。
「……ねぇ、仲良くしてくれる?」
もしかして意地悪な子なんだろうか。そう思うとどきどきした。私は彼の存在を受け入れて、この家に住むことにした。意地悪だったら我慢しなければならない。きょうすけくんはひゅーひゅーと呼吸音ばかりで、なかなか答えなかった。じれた私は催促するようにカリカリと襖を爪でひっかく。
「もちろん」
それはとてもとても小さな声だったけど、はっきり聞こえた。
引っ越しして当日、私はこの町で初めてのお友達ができた。
後日、夕食後にテレビを囲んでいたときだ。母が「物置部屋を空っぽにしておくのももったいないし、何かに活用しなくちゃねぇ」と思い出しように言った。物置部屋は空っぽらしい。きょうすけくんは留守だったのか。そういえば、彼を見たのは最初の手だけだった。
▽
学校から帰ってきたらまず物置部屋へ行く。きょうすけくんに今日の出来事を話すためだ。転入先では珍しい転校生だと注目されたけど、私は一緒に行動するグループができた。彼女らは三人で行動していて、給食を食べるのも、委員会活動も、体育だって例外なく一緒だった。三人の中で彩菜という髪の長いポニーテールの女の子が、すべての物事を決定した。
例えば給食に冷凍ミカンが出たとする。彩菜はそれを見て「こんなダサいもの食べられないよね?」と言う。すると私たちは「そうだね」と言って冷凍ミカンを男子にあげることになる。彩菜は「ほどこしよ」といって笑った。私は冷凍ミカンが好きでも嫌いでもなかったけれど、なんとなく食べたかったと思う。
彩菜にはグループの中にお気に入りの子がいて、その子は美歩といってクラスの中でも一番小柄で、いつだって裾が広がるスカートを履いていた。彩菜は彼女を小動物のようにかわいがった。美歩は唯一、彩菜の決定したことについて意見することが許された。
次に聡子という子は彩菜と性格が似ていた。力関係は彩菜が強いけど、聡子はやや意地悪で、よく彩菜に耳打ちをしている。
彩菜と行動してから一ヵ月が過ぎた今日、私は聡子がこっちを見ながら彩菜に耳打ちをしているのを見た。そのときはグループでプリントをやっている途中で、私は隣の男子から執拗に消しゴムを強請られているところだった。しょうがなく消しゴムを2つに割ってやると、彼はぐちゃぐちゃになったプリントをさらに消しゴムでぐちゃぐちゃにした。消すのがヘタだねって笑ったのは、男子に交じってサッカーをする保奈美だった。
私は笑顔を貼り付けたまま、その場を凌ぐことに精一杯だった。聡子がこっちを見て彩菜に何かを言った。そのことが私の心臓を締め上げるように圧迫する。別に、私のことじゃないかもしれないし。そう思ってプリントの続きを再開する。隣の男の子が勢い余ってプリントを破った。うすっぺらい紙を哀れに思う。
「京介くん。お気に入りのかわいい消しゴムだったの。いい匂いまでしたんだから」
「ざんねんだね、京子」
引っ越してきてから京介くんとの会話は増えた。といっても、ずっと喋っているわけではない。京介くんはとても恥ずかしがり屋で留守にしていることが多い。父や母、姉が二階の廊下に居ると、彼はうんともすんとも言わなかった。
京介くんの漢字は三日目に聞き出した。京子の京と同じなの? と尋ねると彼は「そうだよ」と平坦な声で頷いた。それじゃあ「介はこれね」と襖越しに言うと、彼はカリカリカリと襖をひっかく。じをおしえて。そう言われて名前を書けば、彼の気配が色濃くなった気がした。ぞくりと背筋があわだったのを覚えている。私は大変なことをしてしまったのではないか。けれどその予感は外れた。その日から京介くんはしっかりはっきりと喋るようになり、平坦だった声にも抑揚がつき始めたからだ。理由を尋ねると「しっかりした名前がついたからだよ、京子」と引きつった声をあげた。気味の悪いそれが京介くんの笑い声なのだと気づいたのは、1週間後のこと。
「そういえば最近、新しくゲームが出たんだけどね。知ってる?」
「ぼくはずっとここにいるよ」
「わからないのね。それが流行っているみたいで、クラスの半分は夢中なの。今度、聡子の家に行こうって。金曜日の放課後なんだけどね」
「ぼくはずっとここにいるよ」
「そう、そうよね」
京介くんを誘っているわけではなかったが、とりあえず頷いておく。ぼくはずっとここにいるよ、は京介くんの口癖だった。彼は都合が悪くなると同じ言葉を繰り返し呟く。何度もイヤになるくらいに繰り返すのだ。そういうときの京介くんは壊れたテープのようで、感情のない空っぽな声だけが襖の向こうから伝わってくるのはぞっとした。
それでも彼に話しかけるのを止めないのは、彼と仲良くしたいからだし、基本的に彼は私の話をよく聞いてくれた。家族の誰よりも京介くんは私の学校生活や友人について詳しいだろう。家族仲が悪いというわけではない。小学六年生の姉は友だちと遊ぶのに忙しく、父は引っ越したことによって通勤時間は短くなったものの、自分で車を運転することになったから疲れるんだそうだ。母はパートに出掛けている。大抵、私の方が早く帰ってきて、玄関の鍵を開けるのだった。
よって必然的に京介くんとお話できるチャンスが多くなった。それに京介くんは恥ずかしがり屋だけど寂しがりでもあった。たまたま物置の前に来ない日が続くと、彼は「どうしてこないの」と責めるようになったのだ。そのときの京介くんはちょっと怖い。
「あしたはくる?」
「ええ、くるわ」
カリカリカリと襖をひっかく音。階下から「ねぇ、アイス食べたい」と騒ぐ姉の声。どうやら母と玄関の前で会ったらしい。襖に耳をぴたりとつけると、向こう側には何の気配もなかった。
▽
金曜日、私はほんの少しだけ遅めに帰宅した。すでに母が帰っていて、私を出迎えてくれた。母は掃除機を買ってきたらしく、玄関先でダンボールを開けていた。その脇を通って二階に行こうとすると呼び止められる。
「今日はお友達の家に行くんでしょう?」
「ううん、いかない」
放課後になって彩菜が首を横に振ったのだ。私は新参者だから聡子の家に行くには早い。今日は三人でゲームをして遊ぶので帰ってほしい。朝から聡子の家に行くつもりだった私は、突然の拒絶に頭が真っ白になった。なんで? の一言も言えず、三人は私を教室に置いて出ていった。
彩菜と聡子と美歩は親友。でも私はただの友だち。だからダメ。もっと仲良くなってからね。そう言ってくすくす笑いあった三人の何を理解したらいいのかわからなかった。ふと思い出したのは前の学校の友達だ。私を含めて四人で行動していたけど、彼女たちはもう私のことなん忘れてしまっただろうか。もし、あの古くて狭いアパートに戻る日が来たら、彼女らは私と友だちをしてくれるだろうか。それとも……関係はリセットされる?
残された教室でどうしたらいいのかわからず立っていた。次の瞬間には「やっぱり一緒に行こう」って彩菜たちが戻ってくるのではと期待した。けれど、教室にやってきたのは学校の見回りをしていた警備のおじさんで、私は締め出されて帰路につく。
「遊べなくなったの? 残念ねぇ。あ、掃除機を二階に運ぶのは面倒だから買ったわ。これは二階用なの。物置にいれようと思って」
「……物置に入るの?」
「当たり前じゃない」
母はスリムな掃除機を片手に階段をあがるので、その後を着いていった。姉と私の部屋を通り過ぎ、物置部屋の前へ母が立つ。その隣で黄ばんだ襖を見つめる。引っ越した初日、頑なに開かなかった襖に手を掛けた。襖はやはり滑りが悪く、ガタガタと床にぶつかりながら開く。ようやく開いた襖の影に白いものが引っ込んだ気がした。それは手だったように思うし、人の顔にも見えた。
けれどそれが見間違えだと知ったのは、完全に開いた襖の向こう側の物置部屋には何もなかったからだ。長方形の小さな部屋は明かり取りの窓がついていて、暗いなんてことはなかった。畳一畳分ほどの大きさは本当に何もない。
「じゃ、掃除機いれとくけど。京子もお掃除のときに使うのよ」
そして部屋の隅に掃除機が置かれた。私と母以外の人影は一切みつからなかった。廊下と同じフローリングの床も、ほこりっぽい天井も、隠れられそうな場所はない。ただ長方形の部屋がひとつあるだけ。
京介くんはどこにいったんだろう。また留守だろうか。
今日は話を聞いて欲しかったのに。残念な気持ちで物置部屋をあとにする。襖をきちんと閉めると、母は「久しぶりにおやつでも作ろうか」と張り切って笑みを浮かべた。蒸しパンが食べたいと言うと、困った顔になったから私は唇を突き出してみせる。お手伝いするならいいわよと言ったので、もちろんと頷いた。
背後からカリカリカリと襖をひっかく音がしたのは気のせいだろう。母には何も聞こえていない。
土曜日、日曜日は京介くんのところへ行くことができなかった。何故なら、掃除機を買ってやる気が出たのか、母と父が二日に渡る大掃除を始めたからだ。いつも閉まっている襖は取り外され、変色した紙を花模様へとかえた。他に襖は立て付けが悪かったので、父が開きやすくやすりを掛けて、ロウソクを塗り込んでいた。これで、子どもの私でも襖の開閉が楽になった。解放された物置部屋には京介くんの姿は見えず、声をかけても返事はなかった。
私は部屋に掃除機をかけ、蒲団を干し、宿題をやった。それから至って普通の顔で登校したのだけど、なんだか妙な雰囲気が彩菜から漂っていた。目を合わせたらそらされ、おはようと言えば「ああうん」と気のない返事。聡子も美歩もそんな感じで、嫌な予感がする。休み時間のたびに彩菜の元に行くが、彼女は私をちらりと見てから何もなかったように振る舞う。無視をされているわけではない。ただ極力、私と話をするのを避けている風だった。
その日は三日ぶりに京介くんと話すことができた。誰も居ない家の二階の廊下。そこにぺたりと太ももと膝を床につけ、襖に耳を当てながら離す。初め、京介くんは怒っているようだった。どうして来なかったのかと。ぼくはずっとここにいるのに。そう言われても、京介くんは居なかったのだから仕方ない。
そんな彼に彩菜の話をした。京介くんは彩菜に酷く興味を持ったようで、彩菜の名前をすぐに覚えた。
「あやなは京子にいじわるをするの?」
「そんなことしないよ」
「もし、あやなが京子にいじわるをしたら、たすけてあげる」
おかしかった。京介くんは物置から出たことがないのに。笑ってそれを言えば、彼はカリカリと襖を爪でかいていらだっている。
「そういえば、襖、綺麗になったでしょう? 花柄はいや?」
「ここはくらくてなにもみえないんだよ、京子」
そんなはずはない。小さな窓がひとつあるはずだ。それを伝えると向こうからヒューッと息を吸う音、ひっそりと体を動かす気配。京介くんが襖に寄り添うように身体を預けたのがわかった。同じく私も襖に身体を預けてみるけど、京介くんは沈黙したままだった。
▽
彩菜たちとの仲がこじれ始めると早かった。教室移動は一人で、給食も皆がそれとなく席を遠ざける。やっぱり転校生だからという陰口にも満たないささやきを幾度も耳にした。彩菜に嫌なことでもしたのかと尋ねると、彼女は「べつに?」と言って聡子の方へ行ってしまった。美歩にも相談したが彼女は真顔になって「京子ちゃんのことは嫌いじゃないよ。でも、いっかなーって言ってた。わたしも、京子ちゃんのことは別にいいかなって」とわからないことを教えてくれた。
姉に「別にいいかなーってどういうこと?」と聞けば、姉は「好きでも嫌いでもないし、必要でもないってことじゃないの?」とあっけらかんと言い放つ。必要じゃない。それは胸に刺さる言葉で、私はあの三人にとって必要なかったのだ。姉は部活動に入りたいらしく、私の小さな質問は忘れて軽音楽部とバレー部で迷っているなんて喋りだした。適当な相づちを打ちながら、必要について考えてみる。
けれど、なかなか思考することはできなかった。ささくれだった気持ちが脳みそをぐちゃぐちゃにかき回すのだ。冷静でいることができない。
教室では一人でいることが多くなり、隣の男子が「かわいそうだな、お前」と意地悪な顔で蔑む。彼はことあるごとにかわいそうだと私を哀れんでは惨めな思いにさせる。一人で掃除をするはめになったとき、体育の授業であぶれたとき、グループワークで孤立しているとき、休み時間に寝ているふりをしているとき。あらゆる場面で彼は私を惨めにさせ、そして意地悪な顔のままで優しくした。彼が私に話しかける度、教室の隅にいた男子たちがくすくす笑い、時には指をさして両手を叩いて喜んだ。
ある日の放課後、彼は一人で帰る私の背中を追ってきた。そして「友だちになってやる」と上から目線に告げた。ただし友だちになるには条件がある。二人きりの場所でスカートを下ろして欲しい。
彼がなぜ、そんな要求をするのかわからない。友だちになるのに条件があることも知った。ならば私は彩菜たちが出した条件を満たせなかったってことだろうか? じゃあその前の学校の友だちは?
彼の要求は呑めたものではない。断ろうとしたら、彼は「さらに独りぼっちになる」と脅し文句を心配そうな表情で言った。お前が心配しているのは、私ではないだろう。正面からそう言えれば良かったけど、どうしてか言葉が出なかった。学校で、教室で、独りぼっちになる。それは良く効く脅しだ。
答えられない私に彼はそういえばと口を開く。できればクラスの男子にもお願いしたいんだけど。何のことだかすぐに理解できた。彼と話をしていると男子が騒ぐ理由もわかった。私は今、客寄せパンダで、道化師で、あらゆるものの異物だった。
「……じゃあ、家に来る?」
「いいの?」
「みんなが帰ってくるまでは一人だから」
鼻の穴を僅かに膨らませる彼を自宅へと導く。途中で彩菜と聡子と美歩を見かけた。三人はこれから聡子の家に行くらしく、私と彼も誘われたけど、私たちは断った。聡子は「京子ちゃんの家なんかつまんないよ」と私の家に遊びに来たこともないくせに嘯く。彼は少し迷うそぶりを見せて、結局は私の家に行くことにしたようだ。
こっちはどちらでも良かった。
彩菜と別れてから彼と一緒に帰宅する。二階建ての家に彼は「いいなぁ」と呟いた。そして鍵をあけて入った玄関が静まりかえっているので、本当に誰もいないのかと尋ねる。ちょっと迷ったけど頷くことにした。
「家族はいないよ」
嘘はついていない。きょろきょろと視線を巡らせる彼に待って貰うようにお願いした。部屋が散らかっているから少しだけ片づける、と。
「部屋で見せてくれんの?」
「うん、そうかな」
「わかった」
緊張しているのか、かたくなって頷く彼をそのままに、私は二階へあがると部屋にかばんを置く。それから隣の物置部屋へと移動した。襖をノックするとコンコンと返ってきた。
「京介くん……友達をつれてきたの」
ひゅーひゅーと渇いた呼吸音。ざらりと襖を撫でると彼は囁くように呟く。
「いじわるなの?」
「そう。とても」
そして私は階下の彼を襖の前へと招き、それから滑らかに開くようになった襖の奥へと彼を押し込めた。京介くんの言う通り、物置部屋の中は真っ暗で。ぴしゃりと閉じた襖を向こう側からどんどんと叩かれたけど、それは少しもしないうちに静かになった。
耳をぴたりと襖に当てて、中の様子を伺う。ゆらりと何かが蠢いて、それからカリカリカリカリと五本の爪が襖をひっかいた。
「ごちそうさま」
それから彼は居なくなった。返ってきた姉に物置部屋の中を確認して貰ったけど、そこには掃除機しかない。翌日、彼が行方不明になったことは騒ぎになった。私にも事情は聞かれたし、家には警察が来た。けれど、何の手がかりもなく警察は帰っていった。彼は誘拐されて何らかの犯罪に巻き込まれたのではと憶測されている。笑い話みたいで愉快だ。
けれども彼がいなくなったことで、私はやはり一人になった。彩菜が彼と最後に居たのは私だと、クラス中に言いふらしたからだ。
でもそれが何だって言うんだろう?
確かに事実なので否定はしない。だけど、私はもう教室で一人でも平気だった。何故なら絶対的な味方が私にはいるから。姿は見せてくれないけど、京介くんがいる。京介くんは「もしいじわるされたら、まもってあげる」と言ってくれた。ざらりざらりと襖を撫でながら。どうして仲良くしてくれるのと聞けば、彼は引きつった笑い声をあげた。
だって、京子がなかくしてっていったでしょ。
ぼくはきみのともだちだから。
それから私は聡子から嫌がらせを受けて、その一月後に彼女を自宅に呼び出した。理由は簡単だ。居なくなった男子は私の部屋にいるといっておびき寄せた。残念なことに私はその男子の名前を覚えられずにいたから、ちょっと苦労した。聡子はあっけないほど襖の前に立ち、それから居なくなった。彼女を物置部屋に押しやるのは少々骨がおれた。あとちょっとというところで、襖から離れたいと言い出したからだ。変なかんじがすると彼女が後ずさったのを無理矢理おさえ、私はめいっぱいの力で真っ暗な物置部屋へ放り込んだのだ。
聡子はずいぶんと抵抗したようだった。どんどんと襖が揺れるほど叩き、あるいは蹴り、布を裂くような高い悲鳴を上げた。けれどすぐに静かになる。
「ごちそうさま。ぼくはうれしいな。京子のやくにたてて。ねぇ、京子がいやなひとはみんなぼくがやっつけてあげる。だからいっぱいつれてきて」
ありがとう京介くん。
けれども、この短い期間で二人の児童が行方不明になったので、私は動くことができなかった。それに聡子がいなくなったあと、彩菜と美歩が私をグループに入れてくれたからだ。私の平穏が戻ってきたことを、京介くんは喜んでくれた。
それから数年は何事もなかった。京介くんは相変わらず襖の向こう側で、ときおり狂ったように名前を呼んだ。それは私が教えた友だちの名前だったり、父や母、姉の名前だった。彼は飢えている。京介くんはあの日、男の子を食べたという。衣服も髪も骨も残さず、すべて食べてしまったのだと。そうして京介くんは気づいた。
ぼくはとてもうえている。
中学一年生になって気に入らないという理由で難癖をつけてくる同級生がいた。彼女が好きな人と仲の良い私を妬んでいたと知ったのは、彼女を襖の向こうに放ってからだ。
中学三年生では姉の彼氏が遊びにくるたびにちょっかいをかけてきた。私は地元の高校に通うつもりで、受験勉強に精を出していた時期だった。もう十二月。受験までわずかしかないというのに、姉の彼氏は嫌になるくらい私を気にかけた。だから姉の彼氏を襖の向こうに誘い込んだ。
そうしていくうちに、私の身の回りで人が消えていくことが街中の噂になった。気味の悪い女と陰口を叩くも、彼らは視線を寄越すだけで押し黙った。私はまるで歩く災厄だった。
我が家がどんどん孤立していく。父と母は私を奇妙な目で見るようになった。姉は私がいつでも二階廊下の襖の前にいるので、最近では一階のリビングで寝起きしている。そうなると私はいつでも好きなときに京介くんと話すことができた。高校受験はやめた。
そろそろ何かがおかしいことに気づいている。実際には一番初めの彼が跡形もなくいなくなってしまってからだ。薄々、とんでもないことをしたのではと、私は恐怖で襖の前から動けなかった。でも、どうすれば良かったというんだろう。
京介くんという目に見えない存在と対話するしかない。
もう、私と話してくれる人は京介くんしかいない。
京介くんが人ではないことなんて初めのころから気づいている。
京介くんの感情のこもらない平坦な調子はいつしか滑らかになり、絞り出したような掠れ声は毒のように甘い。襖に両手を当てれば、闇の向こうから同じく手が当てられているのを感じる。私たちは襖越しにでもその形や存在をはっきりと認識できるようになった。
私はもう学校に行っていない。家から出ることもない。嫌なものから遠ざかった生活を送っている。そんな私に京介くんはささやき続ける。
「京子、いやなひとはいないの?」
「いないよ」
「きらいなひとは? いじわるをするひとは?」
「いないのよ」
「だったら、きみがたべたい。京子がたべたいな」
それも悪くない。襖の向こうの京介くんは、真っ暗闇で一人きりなのだ。そばにいてあげるのもいいかもしれない。幸いにも、この襖は開きやすい。