おじさんと出会う
私とおじさんとの出会いは、茹だるような夏の暑い日のことでした。
その日私は、下校ルートである閑静な住宅街を一人トボトボ歩いていました。
燦々と熱線を浴びせる太陽のせいか、人影はほとんど見えず、ジリジリと蜃気楼のように歪む道路と、ジージーと耳障りなセミの声。
アツアツに熱されたアスファルトを踏みしめるのと、足並みを揃えるようにして薄汚いランドセルに繋がれた防犯ブザーが、右に左にブラブラとスイングしています。
確か4年前の入学の時に、お母さんが買い与えてくれたものです。
お母さん曰く
「変な人に出会ったら、すぐに引き抜くのよ」
とのこと。
幸いなことに、私はまだ変な人とやらに遭遇したことはないので未だ防犯ブザーが活用されたことはないのですが。
大体、お母さんの言う『変な人』と言うのは、具体的にどのような人のことを指すのでしょうか。
私が、勝手に定義づけるとするならば、きっと『ろりこんさん』と呼ばれる人たちのことを言ってるのだと思うのです。
私も詳しくは知らないのですが『ろりこんさん』と呼ばれる人たちは、私たちのような小学生に、何か忘れたくても忘れられない程恐ろしいイタズラを画策している人たちの総称らしいのです。よく知らないですが。
世の中には、私の預かり知らないことが沢山あるんだなー、くらいに留めておきます。
しかし、仮にそのような『ろりこんさん』なる人物がいたら、きっと私などは、格好の標的と成りえることでしょう。
何せ私は、頭脳明晰、純真無垢、純情可憐ときたものです。
その上、おおよそ欠点と呼べる部分が思い浮かばぬ、無菌室で育てられたような、時代の寵児とも呼ぶに相応しい、そーんな女の子なのです。自分で言うのもなんですが。
そんな蠱惑的で魅惑的で誘惑的なレディ(9歳)が眼前に現れたら『ろりこんさん』なる人物は猛り狂う己と欲望を抑えきれず、私に記憶から抹消出来ない何かとってもおぞましい所業をやってのけるのでしょう。知らないけど。
周囲の警戒を怠ってはいけません。
右見て、左見て、ついでに上も見ておきましょう。
煌々たる太陽がじっとこちらを見つめている。眩しい。
目が眩みます。
太陽は直視してはいけないことを忘れていました。
誰とも目を合わせようとしない太陽は、きっとすこぶるシャイな性格なんだろうと思います。
そんなくだらないことを思案しつつ、私は歩みを進めていきます。
どうやら、周囲に不審な人物は見当たらないようです。
うーむ、おかしいなぁ。
今年で小学4年生にもなれば、大人の色香というか、フェロモンの類が私の体から余すところなく放出されているのではないのでしょうか?
私もまだまだ。
オトナの女には程遠いということですかね。精進します。
学校から南西に出て、4つ目の曲がり角。
どなたとコンビになりたがっているコンビニが目印の曲がり角を曲がり、路地に入っていきます。
この道は少し日当たりが悪く、薄暗くなるのですが家までの近道なのです。
私独自の調査によると、正規ルートと5分ほどの差があると結果が出ている。
5分の時間すら惜しい。そんなオトナな女なのです私は。むふん。
曲がり角を曲がり、路地をしばらく進んだところで私の歩みは止まる。
響くような低い声に呼び止められたからです。
「お嬢ちゃん」
心臓の鼓動が早くなるのが分かりました。
私のクラスメイトにここまで抑えの利いた声色の男子はいない。
と言うか、私の知ってる声ではない。
……誰だろう。
私は困惑しながらも、ゆっくりと振り返ります。
「……」
振り返った先に立っていたのは、ヨレヨレの皺の寄ったスーツを着たおじさんでした。
一番特徴的だったのは、柔和そうな眼尻。
良く言えば優しそうな、悪く言えば頼りなさそうな顔をしており、髪はまとまりがなく、ボサボサ。体躯としては少し痩せ形でひょろっとしている。
怪しい。
この薄暗い路地と言う空間的不安要素とも相まって、このおじさん非常に怪しい。
一見して温厚そうな風貌をして、裏では何を目論んでいるのか分かったもんじゃない。
きっと瞬時に悪辣非道な一面を垣間見せ、無理やり私を(以下略)!
きっとこの人こそ、私が懸念していた『ろりこんさん』に違いない!
「あ……あわ……あわわ……」
動揺と恐怖で、口が上手く回りません。
膝もガクガクと笑ってしまっています。
「あ、あのおじさん怪しいものじゃ」
「ひぃっ!」
おじさん(怪しい)が突然口を開き、私と視線の高さが合うように屈んできたので、私は途端にランドセルから下がる防犯ブザーを握りしめました。
そ、そうです!こっちにはブザーと言う最終兵器があるのです!臆することはありません!
落ち着くのです私。
クラス一の明晰を誇る私にかかればこんな『ろりこんさん』など瑣末な問題に過ぎません!
大丈夫!この前の算数の文章問題よりは簡単でしょう!100点だったし大丈夫!
まずは状況の確認からです。
私は夏のとある日の下校中、薄暗い路地でおじさんに声をかけられる。
うん、ここまではいいでしょう。事実通りです。
そして次に、このおじさんが何物かと言うことです。
今一度、恐る恐るおじさんを睥睨してみると
おじさんはニンマリと相好を崩し、何か心配するような雰囲気で私を見ています。
み、見られてる!
舐め繰り回すようなアングルで、いやらしく私見られてる!
私の体に悪寒が走ります。
警戒してたものの、まさか本当に『ろりこんさん』と出くわしてしまうとは。
色々想定はしてたのですが、実際対面してみるとなんというか……心の準備が。
おじさん(ろりこんさん疑惑アリ)は、どうしたらいいのか分からないと言った体で、微笑を浮かべたまま、その場にしゃがみ込んでいます。
私は防犯ブザーを握りしめたまま、不信感を募らせた双眸をジッとおじさんに向ける。
おじさんと私の間が、まるで一廉の剣豪同士の間合いのようだと思いました。
緊迫感漂う、路地の真ん中。
どちらとも、声を発さず膠着状態。私の頬にタラリと汗が流れます。
ううむ、おじさんが何者か分からない以上、こちらから歩み寄っていくしかありませんね。
ここは私のオトナな女の部分をいかんなく発揮し、コミュニケーションをとってみることにしましょう。
私はわなわなと唇を震わせ、声を発します。
「あ、あああ……あのっ」
「な、なにかな?」
おじさんの声色は、意識してか先ほどより幾分か優しく柔らかなものでした。
「お、おじ……おじさんは、だ……誰ですか」
一方、私は恐怖と狼狽で、声が震えてしまっていました。
「いやあの、おじさんはね」
「ろ、ろりこんさんですか」
私は食い気味でそう問う。
「ち、違うよ!? おじさんはそういうんじゃなくて」
「ろりこんさんなんですね!」
「あれ!? おじさんの話聞いてる!? そうじゃなくて」
「こ、こっち来ないでください! ろりこんさん!」
「お嬢ちゃん何か誤解してるよ!? おじさん本当に」
酷く慌てた様子でおじさんがこちらに歩み寄ってきます。
私も慌てて後退りし、防犯ブザー本体と、ブザーから伸びる紐の先端部分のピンをギュッと握りしめます。
私の困惑は最高潮に達し、心臓はこれでもかと鼓動を強めていました。
混乱した私は、頭がこんがらがってしまい。
「いっ、いやああああああああああああああ!」
私の劈くような金切声と、裂帛の如く鋭い防犯ブザーの音が重なり、路地から青く広い夏空にこだましました。