供物系女子
神社というのは、女の子が得体の知れない“何か”に捕食される為の場所ではなかった筈だ。
ならば俺が神社だと思って昇ってきたこの階段は、一体どこに繋がっていたというのだろう。後ろを振り向けば、大きく紅い鳥居が建っているから、やはり神社に来た事には違いないようだ。
鳥居から視線を外し、再び前方―――本殿まで続く石畳の方を向くと、先程まで少女を食べていた“何か”はいなくなっていた。あっという間だった。あの泥とも布とも表せない、黒い“何か”が、さっきまでそこにいたのに。そんなものは無かった、と、この空間が俺に告げているように感じた。
しかしながら、“食べかけ”と思われる少女の上半身は、石畳の上に放置されたままで、その赤い面からは赤い液が流れて溢れて色のない石畳を赤く赤く赤く染め上げて赤い血溜まりが広がっていって赤い臭いが俺の鼻を刺激して
「……っ、」
そこで俺は、ようやく目の前で何が起きているかを理解した。
異常すぎる光景に、俺の精神が追い付いていなかったらしく、急に全身から汗が吹き出した。
下半身をまるで噛み千切られたように失くし、石畳に倒れる少女。その娘の元に、俺は急いで駆け寄っていた。
「お、おいッ! 大丈夫かよ! ……いや、どう見ても大丈夫じゃあねえけどさあ―――ああ、えっと、救急車! 救急車って110だっけ? 119だっけ―――」
「119だ」
誰かが言う。
「ああ! そうだった! 110は警、さ、つ……」
逆さまに取り出した携帯の向きを改めた時、俺は同時にその手を止めた。
誰かって、
誰だ?
「んんっ……見られてしまったかあ。なあ、きみ、物は頼みなんだが、今見た事は忘れてくれないか?」
うつ伏せになっていた、上半身だけのその少女が、喋ったのだ。ありえない。
手慣れた様子で仰向けになると、少女はその残った両腕だけでその身を少しだけ起こした。なんだこれは。
「いたたた……うう、今日はまた激しかったな。わたしは逃げないって分かっているだろうにがっついちゃって全く。女の子の身体はもっと丁寧に扱うべきだろう―――って、おーい、きみ、起きてるか?」
「お、起きてる起きてる」
「人が話をしているんだから、反応のひとつでもしたらどうだい」
「いや、その……どこから突っ込めばいいか分からなくて」
「ふむ、きみは初めてはまだなのかい? 生憎突っ込む所は食べられてしまったんだけれどもね、ははは」
「死にかけなのに下ネタ言ってんじゃねーよ!」
「はははは」
死にかけというか、完全に死んでるだろうというか。
俺は今かなり恐怖しているのだが、少女はそんなのは知らんというような態度でからからと笑った。
「心配しなくとも、わたしは死なないよ。明日になればまた戻っているだろう」
「んなアメーバみたいな……」
「わたしはね、意識を失えば、次に気がついた時には元のきれいな体に戻っているのさ」
「なんだよそれ、ファンタジーにしても適当すぎるぜ」
まあ確かに、下半身を失っても死ぬ気配すらない辺り、そんなおとぎ話じみた事もありえそうではある。
「……とすると、それじゃあ、俺がさっきビビって引き返してれば、もっと早く―――」
「わたしはそのまま夢の中、そして目が覚めた時には復活というか、再生というか、まあ、元通りにはなっていたろうね」
思わず言葉に詰まった。
よかれと思ってこの少女の元まで来たのに、実際は事態を悪化させていただけだったなんて。
「……す、すまん」
上半身だけで動く少女、という現象を差し置いても、とても信じがたい話だ。
しかし、俺はどうしようもなく申し訳ない気持ちで、頭を下げた。
「なに、気にするな。だが、きみが申し訳ないと思うのなら、今見た事は忘れてさっさと引き返してくれないか」
「なんか、死体遺棄とかになりそうだな」
「わたしは死なないと言っているだろう? ほら、とっとととっとと」
「わ、分かった分かった―――」
半ば押しきられるような形で、俺は赤い鳥居をくぐった。
長い石段を降りる直前に振り向くと、まだ少女はそこにいて、「早く行け」とその手で俺を追い払うようなジェスチャーをしてみせた。
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翌日。
夏休みを死ぬほど持て余していた俺は、昼飯を食べてから、またあの神社に向かう事にした。
昨日はそもそもの目的を果たさずに帰ってきてしまった訳だし、今日こそはという思い。それから、昨日見た少女が、まだそこにいるんじゃないかという微かな期待―――のような何かが、胸には宿っていた。
我が家は、小さいながらも酒屋を営んでいる。
いつもは客の入りが少ない。それどころか、店頭に直接足を運ぶ人なんてのはほとんどいない。配達だとか、そういう場合が多いからだ。
だから俺は、いつも店を横切ってから家を出る訳だが、今日はなにやら、母が店先で誰かと話し込んでいた。
割って通るのも悪いので、俺は裏口へと引き返した。
誰にでもなくいってきますと告げ、表通りへと向かう。左手には下り坂、右手には上り坂、そしてあの神社があるのは山の中―――すなわち右手、上り坂。
黒いアスファルトが太陽に熱され、街並みは揺らいで見えた。
「ぐ、思ってたよりずっと暑いじゃねーか……飲み物でも買ってくかな」
昨日見た少女。あまりにその状況が衝撃的だったから、その姿はほとんど覚えていなかった。
ただ、神社にいるのなら、きっと緑茶なんか好きなんじゃないだろうか……なんて、いるかどうかも定かではない少女の事を考える。
俺はポケットに突っ込んだ小銭を確認すると、陽光に灼けた坂をゆっくりと歩き始めた。
あの神社、正式には位宮神社というらしい。
石段の横に置かれた石塊には、そうはっきり刻まれている。長い長い石段の前で、俺はペットボトル二本を手にその名前を確認した。
立てられた看板には、随分古いものに見える地図。位宮神社の由来などなどが書かれているが、別に観光地でもなんでもないこの街に、果たしてこんなものは必要なんだろうかと思った。
「……さておき。とっとと用を済まさねーとな」
一つ、神頼み。
内容は大した事ではない。母親が宝くじを買ったとかなんとかで「代わりにお祈りしてきてよ」などと抜かすもので、暇を持て余している事実が家族全体に知れている俺には断る事など出来る筈もなく―――というのが昨日の話。とんでもないもののせいで、追い返されてしまったけれど。
二つ、
「そのとんでもないものに会ってくる」
改めて、決断するように、自分に確認をとる意味で、俺は呟いて、石段に足を掛けた。
一段一段昇る脚が、心なしか昨日よりずっと軽く感じる。実際昨日はあまり乗り気ではなかったのに、今日は少し楽しみでさえあるくらいなのだ。
気がつけばあっという間に俺は石段を昇りきっていて、そこに広がる景色を見た。
石段を登りきったそこには赤く大きな鳥居。
そこから伸びる石畳に、その辿り着く先には本殿があった。
それ以外には、手を清めたりする場所(名前は知らない)があったりする訳でもなく、狛犬も見当たらない。かなり簡素な配置をしていたようだった。
「……やっぱり、いないか」
そのどれもが真新しさを感じさせる程手入れが行き渡っているのに、人気は皆無。
参拝客は俺以外にはいないし、手入れをするような人もいない。
無論、昨日の少女も。
俺は大人しく石畳の上を歩み、本殿の前にある賽銭箱の前までやってきた。
「一礼二拍二礼……だっけ? まあ、いいか」
とりあえず、と、俺はお辞儀をして二度手を打つ。それから五円玉をちゃりんと投げ込み、またお辞儀をした。
当初の目的は、これでおしまい。
「もう一つは―――無理か」
振り向き、敷地の中を見回してみても、俺以外に人影はない。
俺は溜め息を吐いて、賽銭箱の手前に緑茶のペットボトルを置いた。
「折角買ったんだ。無駄にはしてくれんなよな」
「ふむ、了解した」
「うわああ!?」
湧いて出た、としかまさに表現しようがない。
なんでこいつは賽銭箱の中から出てくるんだ。
がこん、と木枠を外して、彼女はその中から這い出てきた。
「人を見て『うわあ』とはなんだ。泣くぞ」
「いや……まさかそんな所に隠れてるとは思わなくて」
「『隠れていた』というのは正確ではないな。わたしはたった今そこに移動してきみを迎えたんだよ?」
「再生の次はテレポートかよ」
「ま、それもこの神社の中だけだが……よいしょっと」
賽銭箱から這い出た少女は、改めて見るとかなり珍妙な格好をしていた。
まず、髪が白い。腰元まで伸びた長い髪は、一片の曇りも澱みもなく、総じて白。白、白銀、白金……なんと喩えたらいいのか分からない、この世のモノではない白だ。
次に、巫女服を着ている。意味が分からない。この娘の趣味か。私見を言わせてもらえば、そこそこ似合っている。
そして最後に、五体満足であった。ちゃんと足は生えているし、どこからも血を流してはいない。
「……本当に再生するんだな」
「言っただろう、死なないと……あ、というかきみ、忘れろと言ったじゃないか」
「言った本人も忘れかけてたんだから、良いだろ別に」
「はは、そう言われては返す言葉もない」
けらけらと笑うその表情は、確かに昨日見たものと同じだった。
「……なあ、聞きたい事があるんだが」
「ああ、そうだろうね。わたしがきみの立場なら、死ぬほど問い詰めている所だ」
昨日の事だろう、と彼女は訊いた。
俺は頷いて言う。
「昨日の事も、確かに気になる。ただ、それは後で聞かせて欲しい。今はとにかくひとつ―――お前、“何者”なんだ?」
黒い“何か”に食われていた。
下半身を失っても生命活動を維持できる。
寝て起きれば再生する。
テレポートも出来るらしい。
「“供物”さ」
人間という答えは帰ってこないと考えていた。
しかし、彼女の答えはそもそもその方向が全くの別物で。
「いわゆる神様に捧げられるアレだな。米だとか酒だとか、それの親戚。ちなみにわたしは六代目である事を、あらかじめ明かしておこう」
「さも説明しきったみたいな顔で言われても困るんだが」
「みたいなも何も、これが事実だ。神様に捧げられる為の、供物。それがわたし」
「それじゃあ、昨日お前を“喰べて”いたのは―――神様だって言うのか? あんな、化物みたいな」
「あんまりな言い方じゃないか。祟られても知らないよ」
少女は、うっすらと笑みを湛えて言う。
「確かに、この神社に祀られているのは、あの黒い布切れみたいなモノだよ」
「……神様は、人を喰うのか」
「アレが喰うのは“供物”だけさ。例えばわたしのようなね」
「その“供物”ってのは? 話がとんでもなさすぎて、まだ、なんというか、訳が分からない」
またあの黒いカミサマとやらに出くわしても、どうやら俺の下半身が喰われるような事はないらしい。
内心ホッとしつつも、俺は続けて尋ねた。
「あの神様の存在を受容している所を見ると、大して混乱しているようには見えないけどね……さておき。供物というのは、神様に捧げられる、いわば彼らの食料みたいなモノだ。神様によって供物は違うようだけど、ここの神様は白い髪をした不死の少女がお好みらしい」
「ひでえ話だな」
「わたしはもう慣れてしまったよ」
「喰われる事に?」
「死なない事にさ」
考えてもみなよ―――と、少女は言葉を紡ぐ。
来る日も来る日も得体の知れない何かに喰われて、痛くとも苦しくとも死ねず、気がつけばそれが嘘のように治っていて、かと思えばまた喰われて。そんな事が延々繰り返されれば、いつか頭がおかしくなってしまう。
「幸か不幸か、狂った“供物”はその不死から解放されるらしいけども。わたしはおかしくなってまで死にたいとは思わないね」
「……質問、これで最後にする。“供物”がその―――おかしくなったら、神様は飢え死にでもするのか?」
「気負う事はないのに。きみは思慮深いね」
ペットボトルのふたを回し開けながら、彼女は答えた。
「死にはしないさ。ただ、彼らの縄張りがダメになっていくだろうね。ここの場合は市だとか、その位の規模で、人が死ぬと思う」
「っ、……そんな」
「理不尽だろう? わたしもよく思うよ、あんな化物でも、大勢の人々を何かから護っているというんだから驚きだよ」
彼らが人を護るために、わたしのような“供物”は、やはり必要なのさ。
こくりと細い喉で緑茶を嚥下すると、彼女は呟いた。
六代目、というのは、つまり、それ以前の“先代”が、皆おかしくなってしまった―――という事なんだろう。
どういった経緯があって彼女が“供物”になったのかは、聞いてはいけない気がした。
「……さて。そろそろ“お食事”の時間だ。見たいと言うなら見ていても構わないけど、時間的に、君はお昼を食べたばかりじゃないか? 胃の中身を無駄にしたくないのなら、今日も早めに帰った方がいい」
「……俺に止められるようなモノじゃ、ないのか」
「もしかすると出来るかもしれない。しかし、やめたら街が死んでしまう。わたしも死に続けるのは少し辛いし、頭がおかしくなりそうだが、こればかりは仕方がない」
「笑いながら言うなよ」
「ふふ、怒っているのかい?」
「目の前でそんな、理不尽な目に遭ってる人がいて、いい気分にはならねえよ……足掻くつもりも、ないのか」
「抵抗は半年前にやめた。今じゃすっかり落ち着いた方さ。最初の頃は死ぬほど抵抗していたのにね」
飲みかけのペットボトルを賽銭箱の上に置くと、彼女は本殿の戸を開いた。
奥には何も見えない。在るのは、深い闇だけ。
「……もう行かなきゃ。話相手になってくれて嬉しかったよ」
俺に背を向けたまま、彼女は後ろ手に戸を閉める。
まるで今から死にに行くような、そんな口ぶりだった。
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暗い。
「……遅くなって悪いね。お腹が空いたろう?」
彼は闇を好むから仕方ないとはいえ、これではわたしが何も見えない。やはり彼は、わたしを食料以上のモノとしては見ていないらしかった。
わたしの問いに答える声はなく、代わりに首筋を何かが這った。
「っ……」
冷たく、少し水気のある“それ”。多分、舌だ。
ざらざらとしたモノが首筋を這い、背を這い、服の隙間から隅から隅まで舐め回す。あまり、いい気分ではない―――どころか、不快だ。気持ち悪い。気色が悪い。気味が悪い。気分が悪い。何度かこの舌で舐められた事はあるが、こればかりはいつまで経ってもぞっとする。
一通り舐め回して、ようやくわたしが“供物”であると認識すると、入り口付近で立ち止まっていたわたしの背を、何かが強く押した。
何が起こったか確認しようとわたしは振り向く。
前のめりに倒れたわたしが振り向くと、見えるのは戸と、わたしの脚。
視界にその二つを認識した瞬間、床が黒く変質し―――大口を開けた。
「い゛ッ……ぐ、あ゛ぁ―――!!」
ギザギザとした歯が、わたしの両脚を挟み、食い込み、肉を引き裂き、骨を噛み砕き、血を啜る。
死ぬ事に慣れた―――というのは、あくまで恐怖を抑えられるようになってきた、というだけ。痛いものは痛いし、涙だって溢れる。
この空間は外界と断ち切られているらしいし、わたしは別に叫んでもいいのだが、どこかで生まれたプライドのような何かが、わたしの声を抑える。
「ッ、ふ……く、うう、う」
服の裾を力一杯握りしめる。わたしにそんなつもりはなかったけれど、異常なまでの痛覚信号が、全身の筋肉を緊張させる。
膝の少し上辺り、太股の中程で噛み千切られた脚からは、ペットボトルを横倒しにしたように血が溢れる。わたしが人間だった頃なら、ここで失血死か、そもそも脚を喰われた段階でショック死していただろうと思う。
だけど、わたしは“供物”だ。
闇の中で、神様がわたしの脚を咀嚼する音が響く。
ごり、ばり、ぐじゅり。
骨を砕き肉を噛み切り溢れる血と混ぜ合わせ、嚥下する。人のようだ、とわたしは思った。
「ふぅ、ッ、く、ふ―――はぁっ。人の肉は、生でも、美味しい……のかい? は、はは……」
呼吸を整えてまで、何故かわたしはそんな減らず口を叩いていた。
ヒトの言葉を解するかどうかさえ定かではないカミサマにそんな事を言ったところで、答えなんて返ってこないのに。
―――そう考えたわたしの心でも読んだのか、神様は動いた。
深く閉じた闇色の空間に、ひとつの明かりが灯った。
火の灯った蝋燭が乗った皿だ。弱々しく、今にも消えてしまいそうな火に、わたしは目を奪われる。
「ロウソクを、使う、なんて、随分―――っ、倒錯的だね」
わたしがそう言い切るよりも早く、“それ”は起きた。
ぼうッ、と、空間が燃える音を聞いた。
親指の先ほどしかなかった火が、爆発的に巨大化したのだ。人が丸々収まるサイズの、巨大な炎球。
何が起こっているかは、この際どうでもよくて、わたしが気になって仕方がないのは「何が起こるか」だ。
尤も、今回の場合は―――解ってしまった。
「……きみはつまり、客からシェフにでもなるつもり、なんだね?」
再び轟音。
炎球から、いくつもの“腕”が無数に飛び出す。それらは皆、同じく炎で出来ていて、皆が皆、わたしを押さえつけようと飛んできて、
「ッ゛―――ぁ、あ、あ゛あ゛あ゛!!」
人の身体が焼ける音は、食肉を焼く音とさして変わらなかった。
「ああ゛ッ! あづ、い、痛ッ、う゛あ、あああ! はなして! やめ、やめて、よ―――!」
身を裂かれるのとはまた違う別種の痛みが、わたしを襲った。
自然と声を上げていた。叫ばずにはいられなかった。思い出すのは、最初の食事。抵抗した。死にたくない。誰か、誰か。
確かにわたしは死なないけれど、死ぬほど苦しいのは嫌だ。久々にはっきりとした苦痛を“味わって”、わたしの中で麻痺していた他の痛覚も目を覚まして―――痛みの渦はさらに深く。
懇願と苦痛が混じりあった叫びが闇の中に吸い込まれ、やがて消えてゆく。
この新たな痛みに慣れるには、あと何ヵ月かかるんだろうか。
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「……おや、きみか。きみも随分奇特な奴だね」
「お前が言うかよ」
「それもそうだ。それで、今日のおみやげは?」
「無い」
「はは、残念」
俺が位宮神社に再び赴くと、彼女は賽銭箱に腰かけていた。昨日と変わらぬ姿で。
ちゃんと四肢は揃っていて、その衣服のどこにも血飛沫は見当たらない。ただ、心なしか、そのニヒルな笑みは曇って見えた。
「ま、立ち話もあれだろう。ここにでも座るといい」
「ん、悪いな」
言うと彼女は、賽銭箱の中央辺りから、少し左手に退いた。
ぽんぽんと空いたところを手で叩くので、俺はその通り賽銭箱に座ることにした。
「今日は、何を聞きに来たんだい? そろそろ興味も尽きたと思うんだけど」
「いや、別に。特に理由がある訳でもなかったんだが、来ない理由もないしな」
「ふ、雑談でもしようという魂胆か。きみ、もしかして友達いないね?」
「いるわ!」
「ああ……そうか、悪かったよ……酷いことを……聞いてしまった……」
「謝んな! 友達いない訳じゃねえから!」
わざとらしく目元に手をやって、彼女は泣くようなふりをする。
俺は短く溜め息を吐き、こう切り出した。
「昨日、色々聞いたろ? そんでまあ、なんだ、興味? っていうか、なんつーかさ」
「わたしに興味があるって?」
何を言っているんだお前は、とでも言いたげに、彼女は眉を顰める。
「それはわたしが供物だからかい? そりゃ、確かに珍しいとは思うだろうけど、見世物としてきみに話をした訳じゃあないよ。わたしはただ、事実の説明として―――」
「違う。そうじゃなくて、お前だよ。お前に、興味が、あるって言ってんだ」
「きみも、死なない少女が好みなのかい?」
「だから、違うって」
俺は勢いよく立ち上がっていた。賽銭箱の置かれた石に強く足を打ち付けたが、今はそれを気にしている場合ではない。
「だから、あの、えーっと―――ああそうだ、名前! 二回も会ってんのに名前も聞いてないのはおかしいだろ! ……いや、おかしい!」
我ながら酷い暴論だ、と思って最後に付け加えてみたが、胡散臭さは増すばかり。
沈黙が流れる。
マズい切り出し方をした。非常に後悔で一杯で誠に遺憾であります、というか。言い切った時に指なんか差してしまったから引くに引けない。俺は阿呆であることが判明した。
「ふ、くく……」
沈黙を破ってくれたのは、少女の方であった。
「くくっ……はは、あははは! なんだねそれは! きみはもしかすると笑いでわたしを殺せるかもしれないよっ、く、くく―――」
「笑いすぎだろそんなに面白かったか!」
「はは、は―――いや、ふふ、そうだな。名を尋ねるときは自分から、と言いたいところだが、まあ、今回はわたしから名乗ろうじゃないか」
まだ笑いが収まらないのか、肩を時々ひくつかせながら、彼女は俺と同じく賽銭箱から飛び降りた。
こうして面と向かって相対してみると、彼女は俺よりも随分背が低かった。150センチ、ギリギリあるかないか。
そんな彼女が、右手を差し出し口を開く。
「贄皿乃命というのが今の名前だ。サラと略すると外国の娘さんみたいだろう? 供物になる前の名は覚えていない。だからまあ、わたしのことはニエサラノミコトと呼んでくれ」
「ニエサラノ……長いし、サラでいいな」
「自分から聞いておいてきみはまた勝手だね?」
「名前みたいだって言ったのはお前だろ……俺は佐治。匙じゃねーからな、佐藤の佐に、治療の治だ」
「“供物”と“匙”、か……ふふ、数奇な組み合わせだ。まるで運命がわたしに皮肉っているような」
「縁起悪ぃ組み合わせになって悪かったな」
「いいや、縁起が悪いのは嫌いじゃない。何もないより、悪いことでもあった方がいい―――というのが、わたしの持論でね」
くすくすとサラは笑う。
俺は差し出された手をとって返し、彼女と握手を交わした。
「佐治、きみの手は暖かいね。この時期だと暑苦しいとも言えるけれど」
「誉めるか貶すかどっちかにしろ」
そう言うサラの手は、本当に血が通っているかも怪しいくらいに冷たかった。
「そもそもわたしは死なないだけで、生きている訳じゃない。だからまあ、こんな手をしているんだけど、うん、人肌というのは、いいものだ」
「……、そうかい」
『人の手が暖かい』という小さな事で、サラは笑む。
俺はまた、彼女がどんな立場に置かれているのかなんて事を考えてしまう。どうしてサラが“供物”になったのか、どうしてもサラでなければいけなかったのか。
……どちらにせよ、俺の力が及ぶ話ではない。
そうやって改めて自覚すると、自分の小ささがひしひしと感じられて、俺は言葉を失う。
それからまたしばらく話し込んで、気がつくと日は随分傾いていた。
「……む、もう夕暮れか。日はかなり延びたし、思ったよりも遅い時間になってしまったかもしれないな」
「ああ、そうみたいだな。そろそろ7時ってところか」
俺はポケットから携帯を取り出すと、その小さな画面に映る時計を読んだ。
隣で腰かけていたサラは、両腕をいっぱいに伸ばして伸びをした。
「んん―――く、ふう。いやはや、今日は有意義だったよ、とてもね。それに楽しかった。もし、また、佐治が『いい』と言ってくれるなら、ええと、その、だね……また、ここに―――」
サラは俺の方を向いて、しかし少し俯き気味で、恐らくは言葉を紡ごうとした。
しかしその前に、まず彼女の右腕が飛んだ。
「―――ッ、ひっ!? ぐ、ぅ……」
「! サラ!!」
サラの顔に驚愕と苦痛が入り混じって表れる。放物線を描いて、彼女の肘から先が石畳へと墜ちた。つまり、加えられた力はその逆―――本殿からで。
俺が振り向くと、当然のごとく“それ”は存在していた。
墨のようで、影のようで、闇のようで、或いは心のような黒色の、布。
神様。
「……っ! なにか、おかしい……佐治ッ、きみは逃げ、てくれ―――はやく……!」
「でもお前っ、サラはどうすんだよ!」
「わたしは、喰われるのが、仕事だ―――そう言った筈だろう! このままじゃ、きみまで喰われる―――きみはわたしじゃない、喰われたら死ぬんだ! お願いだから、はやく、逃げて……」
「……くそ、くそッ! また絶対に来るからな! 死ぬんじゃねえぞ!」
最低だ。
俺は自分にそう吐き捨てながらも、二段飛ばしで石段を下っていった。
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「はぁッ、く、ふぅ―――ふう、ぅ―――」
右腕のあったところを押さえ、息を整える。
今までは、喰われるという事実に逆らった事はない。その過程で、多少抵抗した経験はあるが。
だが、今回は違う。
今から食べるモノを、普通切り飛ばしたりするだろうか。料理が苦手な人は、食材を切った際にどこかへ飛ばしてしまう可能性もある―――が、そもそも彼はヒトではないし、神様は果たして料理が苦手なのだろうか。
今日の彼は、わたしを傷つける事が目当てのように見えた。
「……わたしが佐治と話していたことが、そんなに気に食わないかい? 気に食わないが喰ってやるだとかそういう洒落のつもりなら、面白くないからやめた方がいいね」
わたしがそう言うと、彼は蠢く。一度だけ彼の言葉を聞いたことがあるけれど、どうやらもう口を聞いてはくれないようだった。
答えはない。
だけど、その代わりに、彼は“脚”を出した。
節のついた、枝のような、蟲のような脚。
中身の知れない黒い布のようなその下から、大体5,6本脚が出てきた。その先にはそれぞれ、カマキリのように鋭い鎌が備わっている。
「潔い得物だと言いたい所だけど、何本もあっては悪趣味なだけだよ」
わたしは嗤った。嘲笑った。生きていた頃から嫌な喋り方をしてきたと思うが、今回はその中でも特に嫌な笑い方ができた。
神様に感情があるかは、生憎わたしの知るところではない。しかしわたしが笑った直後に、彼は行動を起こした。
まず一閃―――横薙ぎ。
両膝から下がなくなった。支えを失い、わたしは石畳に倒れる。
次に一閃―――刺突。
崩れ落ちたわたしの下腹部に、鎌が突き刺さり、引き裂くように横へ。
そして一閃―――降り下ろされる刃。
まだ健在であった左腕が、肩口から分かたれた。
一瞬で四肢の半分以上を失い、切り開かれた腹からハラワタを溢しながら、わたしは息も絶え絶えに(もしかすると息絶えて)転がっていた。
じたばたと残った手足を醜く動かしても、血溜まりが拡がっていくだけ。
そうして身動きのとれなくなったわたしに、彼はゆっくりと覆い被さる。
黒い布の下では、いつも何をされているのかわからない。ただ骨は残らず砕かれ、糸になる程筋は割かれ、渇ききるくらいに血が抜かれるという経験した記憶だけがわたしの中にある。
いつもはどこかに“口”を作り出し、それでわたしを喰べるのだが、時々こうやって彼は直接わたしを貪る。
そして膝の辺りから、その布のような体で巻き付き―――捕食がはじまる。
空気に晒され、痛覚信号を送り続けていた切断面に、黒が纏わりつく。
「―――待ったッ!」
そんな声が、境内に響いた。
きりきりとわたしの脚を締め付ける力が、その声に応じたのか、止まる。
わたしはハッとして顔をあげると、そこには知った顔があって。
「逃げろと、言っただろう……佐治!」
怒鳴り付けられた彼は、ぜいぜいと肩で息をしていた。あの石段を駆け上がってきたというのだろうか。だとしたら……彼は救いようのない大馬鹿だ。
「絶対に来る、とも言っただろうが……って、臓物こぼしながら喋んな、こえーよ」
その大馬鹿は、手に携えた“なにか”をゆらゆらと振りながら、ゆっくりとわたし、それからそれに纏わりつく神様に近づいてくる。
見れば、それは一升瓶だった。
「頭の悪い武器だな―――悪いことは言わない。はやく帰ってくれ」
「嫌だね。それにこれは武器なんかじゃねえ」
言いながらも、佐治はその一升瓶を高く掲げた。
やめろ、とわたしが発するよりはやく、彼はその重いその瓶を降り下ろし
「供物だ」
ごとん、と目の前に置いた。
「なあ、おい、神様。あんた酒は飲んだことあるか」
あぐらをかいて地べたに座り込むと、わたしに巻き付いたままのそれに語り掛ける。
「俺は生憎未成年なモンで、まだ口にした事はないんだけど―――まあ、結構旨いらしい。とりあえず、人の肉よかよっぽど旨いだろう。なんせ元々味わうために造られてんだからな」
つらつらと言葉を並べながら彼はその封を切り、やがて差し出す。
「俺の財布の中身と引き換えだから、まあ、言っちまえば安酒なんだけど―――うちの父さんが仕入れてんだ、味は当然保証できる」
神様はしばらく様子を見るように固まったままだったが、少しするとわたしからするする離れていった。
わたしは言葉を失う。
供物が必要だから、別の供物を用意した。
単純な話だった。だけど、それはわたしには思い付かなかったことなのだ。
わたしから離れた神様は、その黒い布の下からぬっと手を出した。
盃を手にした、人の腕であった。
佐治はそれを見て笑うと、酒を注ぐ。
「……っと、こんなもんかな」
なみなみ一杯注いだ酒は、少しだけ地に溢れ落ちた。
盃が酒に満たされ、神様はそれを呑む。といっても、その黒い布の下に腕をしまっただけなので、どうやって呑んでいるのかは理解の及ばないところではあるけれど。
「……ど、どう、なったんだ。これは」
「……俺にも分からん。酌すんのは初めてだからな」
「いやそういう話ではなく」
わたしも彼も、じっと神様を見つめていた。しかし神様は微動だにせず、段々と不安になってきた。
「おい佐治、まさか毒なんて盛ってないだろうな」
「んな阿呆な。神様もしかして未成年だったんじゃねえのか」
「そんな訳ないだろう」
「いやいや、決めつけるのはよくない―――っ、お、おい見ろサラ」
と。
阿呆な話をしていたら、ついに神様が動いた。
微動だにしなかった黒い布が、ゆらゆらゆらゆらとその端をはためかせ始める。
かと思えばぐじゃりと泥のように崩れ、そして黒い色の靄となって辺りを飛び回り、空中で黒いビー玉のように形を変えて地に墜ち転がり、再びわたしと佐治の間で爆発的に広がり、また黒い布の形をとる。
「なんだ今の」
「さ、さあ……わたしもこれは見たことがない。もしかすると、うん、酔ったんじゃあないかな」
「酔い回るの早すぎだろ」
黒い布、つまりこの神様がこんなに―――はしゃいでいるのは、初めて見た。
ふよふよと再び辺りを浮遊したかと思えば、また布の下から盃を差し出し二杯目を催促した。
すると佐治は、瓶を少し引いて言った。
「おっと……いや、これをやるのは構わないんだけど―――そもそも供物だしな―――、人間が供物を納める時、ってのは必ず“思い”がある。そんで、あんたら神様には、それを叶える力がある。そうだろ?」
神様は答えず、そーっとその差し出した手を引いた。佐治の言葉を聞き入れたのだ。
それを見ると佐治はにやりと満足げに笑い、また神様の前に瓶をごとんと置く。
咳払いし指を一本立て、ひとつ。
「こいつを“供物”から解放してやってくれないか。それが俺の思いだ」
わたしはそこまで静かに聞き入れていたけれど、流石に佐治のその言葉には驚いた。
その為に、彼は神なんていうわけのわからないものと対峙しているのかと思うと―――言葉をなくすばかりだ。いても立ってもいられなくなったが、そもそもわたしは脚を切られていたのでそれ以前に立っていなかった。
「代わりに、俺は酒を捧げる。ただ、捧げる頻度は毎日とはいかない。それなんで、酒を呑むなら是非少しづつ呑んでほしい。それ以上も以下もない。等価だと思うんだが、どうだ」
彼の言葉を反芻するように、神はふよふよと蠢いた。
「……考え中、ってか? 頼むよ、神様」
あぐらをかいていた佐治が座り直して正座。
しかし神様は、そんな様子は見ていなかったらしい。
蠢く黒い布は、わたしの方を向くと―――そもそもこれに正面なんてモノがあるか分からないが―――、じわじわとその距離を詰める。
やがてその距離がゼロになると、黒はわたしの脚があったところにぐるりと巻き付き、締め付ける。
「っ、な、なにを……!」
「! おい、待て、話し合ってる所じゃねえか、何が気に入らなかったんだ!」
佐治は焦りと驚愕が混じったような顔をして立ち上がる。
その間にもわたしの脚からは感覚が無くなってゆき、そうして、そうして、
ぱっ、と、離れた。
そこには、元通りきれいな形で、爪先までしっかり繋がった右脚が存在していた。
「これは、つまり、」
「……治した、のか」
佐治は目を丸くしていた。恐らくはわたしも。
そうだよと答えんばかりに、黒布の神様はわたそ周りをぐるぐる飛んだ。
「交渉成立、でいいのかな?」
「……、みたいだな」
どさりと乱暴に腰をおろし、彼は安堵の表情を浮かべた。
右脚と同じように、神様はわたしの四肢を治してゆく。壊す時と同じく、いとも簡単に。
「驚いたな。もしかして、きみがいつもわたしを治して―――いや、きみにしてみれば“直して”いたの?」
神は答えず、機嫌がよさそうに辺りを飛び回るだけ。
いくら待っても答えは帰ってきそうにないので、わたしはふうと息を吐いた。
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「―――本当に、もう大丈夫なのか?」
「ああ。調子が良すぎてわたしも驚いているところだよ」
「そっか……いや、それならまあ、いいんだ」
日は傾いて、俺とサラは、石段の下―――鳥居の前で言葉を交わす。
あの後、黒布の神様は本殿の中、深い闇の中に消え、そのままサラを閉め出すように戸を閉ざしてしまった。
現在、事実上住所不定無職となった少女は、どうやら今まであの黒布の眠る社で寝泊まりをしていたらしい。
「しかしその、本当にいいのか? 寝床がないからと言って、急に押し掛けたりしても」
「なんとかなるだろ、部屋もあるし―――それにうちの母さんの事だから、むしろお前みたいなのが来たら喜ぶかもな」
「? どういう意味だ?」
「……巫女好き、とだけ」
「脱いでから行こう」
「諦めて着てけ」
おもむろに巫女服を脱ごうとするサラの頭を軽くはたく。
死ぬほど母さんに愛でられるサラを想像すると、少し見てみたいような気もした。
「……きみ、やはり大馬鹿だよ」
しばらく歩いていると、サラはそう切り出した。
「命の恩人になんて口振りだ」
「別に、あのままでも死ななかったよ」
「死なないままのがよかったって?」
「そうじゃない。感謝はしているよ、もちろん。ただ、わたしなんかの、生きていないモノの命を救おうだなんて、馬鹿と言わずしてなんと言う? まさにこの白い髪が、わたしを否定する証で―――」
「……格好つけてるところ悪いけど、色落ちしてんぞ? その証とやら」
「は? いやいや、これは別に染めている訳ではないし―――って、うわ、ほ、ホントだ」
「気付いてなかったのかよ」
「むしろ何故きみは気付いたんだ!? 何処を見ているんだ全く……」
見れば、サラの白い髪は、その末端の方から黒く変色していた。確か、供物になった時に髪が白くなった―――と、言っていたか。
「ああ、もしかすると、わたしが“供物”というモノから離れていっている―――という事なのかもしれない。代わりは見つかったからね」
「『おかしくなった』訳じゃなく?」
俺は笑いながら、そうやって尋ねた。
しかしサラは、神妙な面持ちをして、
「……、かもしれないな」
と短く答えた。
なんと言ったものかと俺は頭を抱える。冗談のラインが常人のそれと大きく異なるサラには、少し洒落にならない話だったろうか。
そこまで思考した辺りで、体に、軽い衝撃。
「ああ、わたしはどうやら本当におかしくなってしまったようだ。正気ならこんな事、する筈がない」
「……抱き付きながら言うなよ、凹むぞ」
「わたしが正気だったら服を剥いでいた」
「今すぐ離れろ。物理的にも思考的にも離れろ」
「冗談だよ」
「痴女め」
「……冗談だから、その、もう少し、このままでいさせてくれないか」
答える事の出来ない俺はやはりどこまでもヘタレで、何も出来ない代わりに頭に手を置いた。
「わたし、馬鹿は嫌いじゃないよ」
俺の胸に顔を埋め、サラはそう言の葉を紡ぐ。
「やめてくれよ、勘違いしちまう」
「勘違い大いに結構。嫌いじゃないというのは、つまり、そういう事だよ?」
サラは顔を上げ、俺の目を覗き込んでにやりと笑んだ。
その表情は小悪魔的というか、なんというか。
「ホント、食えねえヤツだな」