婚約破棄を承知いたしました。では、王国ごとお返しいたします。
王立大広間に、王太子レオンハルトの声が響き渡った。
「エレノア・フォン・ヴァレンシュタイン! 貴様との婚約を、今この場をもって破棄する!」
豪華絢爛なシャンデリアの下、数百人の貴族が息を呑んだ。
王太子の隣には、淡い桃色のドレスをまとった男爵令嬢、ミリア・ベルが寄り添っている。彼女は潤んだ瞳でエレノアを見つめ、王太子の腕にしがみついていた。
「エレノア嬢、もうやめましょう。レオンハルト様は、あなたのような冷酷な方とは結ばれるべきではありません」
ミリアが震える声で告げる。
「あなたは私をいじめ、階段から突き落とそうとし、さらには王太子殿下に毒を盛ろうとした……。私はもう、耐えられません」
大広間がざわめいた。
「なんということだ……」
「公爵令嬢が、そんな卑劣な真似を?」
「王太子殿下を暗殺しようとしたというのか!」
レオンハルトは、勝ち誇った表情でエレノアを指さした。
「証拠は揃っている! 貴様の部屋から毒薬が発見された! ミリアの証言もある! 貴様の罪は明白だ!」
エレノアは、静かに目を伏せた。
彼女は王国の四大公爵家の一つ、ヴァレンシュタイン公爵家の長女である。
幼い頃から王太子妃となるべく教育を受け、外交、財政、法律、軍事、礼儀作法に至るまで、あらゆる知識を身につけてきた。
その努力の大半は、王太子レオンハルトを支えるためのものだった。
だが、当の本人は、彼女が積み上げてきたものの価値を一度も理解しなかった。
「エレノア! 何か言ったらどうだ!」
「……殿下」
エレノアは顔を上げた。
「今のお言葉に、間違いはございませんか?」
「何?」
「私との婚約を破棄し、私が殿下を暗殺しようとした罪人であると、ここにいる皆様の前で断言なさるのですね?」
「当然だ! それがどうした!」
「承知いたしました」
エレノアは微笑んだ。
その笑顔に、レオンハルトは一瞬だけたじろいだ。
しかし、すぐに鼻で笑う。
「ようやく自分の立場が理解できたか。安心しろ。貴様のような女など、我が国には必要ない!」
「左様でございますか」
エレノアはドレスの裾を整えた。
そして、広間の入口に向かって声をかけた。
「では、お父様。お願いいたします」
重厚な扉が開いた。
入ってきたのは、ヴァレンシュタイン公爵家当主、アルベルト・フォン・ヴァレンシュタイン。
その後ろには、王国財務長官、軍務卿、王立銀行の総裁、そして数十人の文官と騎士が続いていた。
公爵は娘の隣に立つと、王太子に向かって深々と一礼した。
「レオンハルト殿下。婚約破棄のご決断、確かに承りました」
「うむ。ようやく話が分かる者が来たか」
「つきましては、本日をもってヴァレンシュタイン家が王家に提供していたすべての支援を終了させていただきます」
「……は?」
レオンハルトの笑顔が凍りついた。
公爵は、手元の書類を広げた。
「まず、王家への年間融資、金貨二百万枚。王都の上水道と街道の維持管理費。国境守備隊の食糧供給契約。王立魔法学院への寄付金。さらに、王家所有の鉱山三か所に関する採掘権の貸与。これらをすべて、本日付で停止いたします」
「な、何を言っている!」
「契約書に基づいた、正当な措置でございます」
「そんなことが許されるはずがない!」
「なぜでございましょうか?」
公爵は穏やかに首を傾げた。
「これまで王家に対して便宜を図っていたのは、あくまで両家の婚姻関係が継続することを前提としていたからです。殿下ご自身がその関係を破棄された以上、こちらも契約の見直しを行うだけのこと」
「馬鹿な! 王家への忠誠はどうした!」
「忠誠と無償奉仕を混同なさらぬようお願いいたします」
公爵の声が、大広間に響き渡った。
「我が家は王国に仕えてまいりました。しかし、我が娘を公衆の面前で罪人と断じ、婚約を破棄なさる方に、これ以上の支援を続ける理由はございません」
レオンハルトは顔を真っ赤にした。
「貴様ら! 王家に逆らうつもりか!」
「いいえ、殿下」
今度はエレノアが口を開いた。
「王家に逆らうつもりなどございません。私はただ、殿下のお望みどおり、王家とは無関係の人間に戻るだけです」
彼女は懐から一通の書類を取り出した。
「それと、殿下。こちらをご確認くださいませ」
「何だ、これは!」
「私が王太子妃教育の一環として管理していた、王家の財政再建計画です」
レオンハルトは書類を奪い取った。
そこには、王家の負債、各領地からの税収、軍事費、公共事業費、さらには王族の個人的な支出に至るまで、詳細な数字が記されていた。
「これは……」
「王家は現在、国庫に金貨四百万枚の負債を抱えております。返済計画は私が立案し、ヴァレンシュタイン家が保証人となっておりました」
「そ、それがどうした!」
「婚約破棄に伴い、保証契約の更新を拒否いたします」
エレノアは、淡々と告げた。
「期限到来分については、契約に従って返済を求めます。未払いが発生した場合、担保として設定されている王領の一部について、債権者による処分が可能となります」
「ふざけるな! 王領を売るなど許さん!」
「売却を許すかどうかは、契約締結時にお決めになるべきでしたね」
エレノアは首を傾げた。
「ちなみに、その契約書に署名なさったのは殿下ご自身でございます」
広間が静まり返った。
レオンハルトの手が震えた。
彼は財政書類などろくに読まず、エレノアに言われるまま署名していた。
自分がどれほどの負債を抱え、誰の力で王家が維持されていたのか。
その事実を、彼は今になって初めて知ったのだった。
「そ、そんな……」
隣でミリアが青ざめた。
しかし、彼女はまだ事態の深刻さを理解していなかった。
「レオンハルト様、心配なさらないでくださいませ。王家なのですから、どうにでもなるはずですわ」
その言葉に、公爵が冷ややかな視線を向けた。
「ほう。王家ならばどうにでもなる、と」
「え……?」
「では、もう一つ確認させていただきましょう」
公爵が合図すると、軍務卿が前に進み出た。
「殿下。国境守備隊への物資供給契約も、本日をもって終了いたします。代替の供給元が確保されるまで、王都駐屯部隊を除く三個師団の補給に重大な支障が生じます」
「三個師団だと!?」
「はい。なお、ヴァレンシュタイン領内に駐屯する王国軍については、土地の使用許可も更新いたしません」
「待て! それでは国境の防衛はどうなる!」
「王国軍は王家の軍隊でございます。ご自身でご対応ください」
軍務卿は淡々と答えた。
レオンハルトは言葉を失った。
王国軍の兵士たちは、王家の命令で動いている。
しかし、その兵士たちの食糧、軍馬、武器の修繕費、輸送用の馬車、さらには国境の砦の維持費まで、ヴァレンシュタイン家が長年支援していた。
王家の財政が傾いた際、真っ先に削られたのは軍事費だった。
その穴を埋めていたのがエレノアであり、彼女の父だったのだ。
「そ、そんなことをすれば、国が……」
「ご安心くださいませ、殿下」
エレノアはにっこりと微笑んだ。
「王家の皆様が自力で立て直されることを、心よりお祈り申し上げます」
その瞬間、彼女の父が、もう一枚の書類を取り出した。
「それでは、次に本題へ移りましょう」
公爵はミリアを見た。
「ミリア・ベル嬢。あなたには、王太子殿下への毒殺未遂について証言していただきましたね」
「は、はい……」
「では、その証言に関する調査結果を発表いたします」
公爵が手を上げると、一人の騎士が前に進み出た。
その手には、小さな木箱があった。
「こちらは、ミリア嬢の部屋から押収された毒薬です」
「そ、それが何ですの!」
「この毒薬の購入記録を調べたところ、王都の薬師から購入した人物が判明いたしました」
騎士は書類を開いた。
「購入者は、ミリア・ベル嬢付きの侍女、サラ。購入費用はミリア嬢の個人口座から支払われております」
「ち、違います!」
ミリアが叫んだ。
「私は知りません! そんなもの、誰かが勝手に!」
「では、こちらは?」
公爵が別の書類を差し出した。
「毒薬をエレノア嬢の部屋に運び込むよう、あなたが侍女に命じた際の記録です。侍女はすでに王都警備隊へ証言を提出しております」
「そ、そんな……!」
ミリアの顔から血の気が引いた。
「さらに、あなたがエレノア嬢を階段から突き落とそうとした件についても、現場にいた複数の使用人が証言しております」
「違う! 私は何もしていない!」
「そして、殿下」
エレノアはレオンハルトに向き直った。
「ミリア嬢が殿下に対して毒を盛ろうとした疑いもございます」
「な、何だと!?」
「殿下が体調を崩された先月、食事に混入された薬物について調査した結果、ミリア嬢の侍女が購入したものと同じ成分が検出されました」
レオンハルトはミリアを見た。
「ミリア……? 嘘だろう?」
「レオンハルト様! 違います! 私は殿下を愛しているのです!」
ミリアは彼の腕にすがりついた。
「エレノア様が私を陥れようとしているのです! あの女は頭が良いから、こんな証拠だって簡単に作れます!」
「ミリア……」
レオンハルトは困惑した顔でエレノアを見た。
「お前、これは本当なのか?」
「殿下」
エレノアは心底不思議そうに首を傾げた。
「先ほど、私の証言を一切聞かずに罪人と断じたのは、どなたでしたでしょうか?」
「そ、それは……」
「私が毒を盛ったとおっしゃった際、証拠を精査なさいましたか?」
「……」
「私の弁明を聞こうとなさいましたか?」
「……」
「殿下は、私を信じる必要などないと判断なさったのでしょう?」
エレノアは静かに微笑んだ。
「でしたら、私も殿下を信じる必要はございません」
レオンハルトは何も言えなかった。
ミリアは床に崩れ落ちた。
そのとき、大広間の扉が再び開いた。
「国王陛下、王妃陛下、ご入場!」
衛兵の声が響いた。
国王は険しい表情で広間を見渡し、王妃は額に手を当てた。
彼らはすでに報告を受けていたのだろう。
国王は壇上へ上がると、レオンハルトを睨みつけた。
「レオンハルト。お前は一体、何をしているのだ」
「父上! これは……!」
「黙れ!」
国王の怒声が広間を震わせた。
「ヴァレンシュタイン公爵家の支援が止まれば、王家は今月中にも資金繰りに行き詰まる。国境の軍隊も維持できず、国庫の負債は返済不能となる。お前は、それを理解しているのか!」
「そ、それは……」
「お前は王太子妃となるべきエレノア嬢を追放し、国を支える柱を自分からへし折ったのだ!」
国王は頭を抱えた。
「愚か者め……!」
レオンハルトは唇を震わせた。
「ですが、父上! 私は真実を……ミリアが……」
「そのミリア嬢も、毒殺未遂の容疑者ではないか!」
「そ、それは……」
「近衛騎士団長!」
国王の命令に、一人の壮年の騎士が進み出た。
「ミリア・ベル嬢を拘束せよ。毒殺未遂および証拠捏造の疑いで、王都警備隊に引き渡す」
「お待ちください!」
ミリアは叫んだ。
「私は王太子妃になる女です! こんなことが許されるはずがありません!」
「王太子妃?」
国王が冷笑した。
「誰がそのようなことを認めた?」
「レオンハルト様が……!」
「王太子の言葉だけで、身分も権限も与えられると思っているのか!」
ミリアは騎士たちに両腕をつかまれた。
「いやっ! 離して! レオンハルト様! 助けてください!」
彼女は必死に叫んだ。
だが、レオンハルトは動かなかった。
つい先ほどまで愛を誓い、エレノアを罵倒していた男は、ただ呆然と立ち尽くしていた。
ミリアは連行される直前、エレノアを振り返った。
その瞳には憎悪が燃えていた。
「あなたのせいよ……! 全部、あなたのせいよ!」
エレノアは、穏やかに答えた。
「いいえ。あなたがご自身で選んだ結果ですわ」
扉が閉まった。
大広間には、重苦しい沈黙だけが残された。
しかし、エレノアの復讐はまだ終わっていなかった。
「陛下。もう一点、申し上げることがございます」
「……何だね、エレノア嬢」
国王は疲れ切った声で答えた。
「王太子殿下が先ほど公衆の面前で私を暗殺未遂犯と断定なさった件について、名誉毀損に対する正式な謝罪と訂正を求めます」
「もちろんだ。レオンハルト、謝罪を――」
「それだけではございません」
エレノアは父から書類を受け取った。
「私は王太子妃教育の一環として、王家の事業に関する複数の契約に携わっておりました。その中には、王太子殿下の署名による不正な支出承認も含まれております」
国王の表情が変わった。
「不正な支出だと?」
「はい。王立学院の建設予算から金貨三十万枚、国境砦の修繕費から金貨十五万枚、外交使節団の経費から金貨八万枚。これらの資金が、殿下の命令により、個人的な宴会や宝飾品の購入、競馬への賭け金などに流用されております」
「な……!」
国王がレオンハルトを振り返った。
「事実なのか!」
「ち、違います! 私は……!」
「支出承認書、送金記録、会計担当者の証言、すべて揃っております」
エレノアは淡々と続けた。
「私はこれまで、王家の名誉を守るために、財政再建計画の中でこれらの問題を処理しようと考えておりました。しかし、殿下は私を公然と犯罪者と断じ、婚約を破棄なさいました」
彼女は国王を見つめた。
「もはや、私が王家の名誉を守る義務はございません」
国王は目を閉じた。
「……レオンハルト」
「父上、これは誤解です! 私はただ、必要な支出を……!」
「必要な支出だと?」
国王の声が震えた。
「国境の兵士たちが食糧不足に苦しんでいたとき、お前は宴会を開いていたというのか!」
「そ、それは……!」
「貴様は王族である前に、人間として恥を知れ!」
国王は玉座の肘掛けを叩いた。
「レオンハルトの王太子位を、ただちに停止する!」
大広間に衝撃が走った。
「父上!?」
「財政流用、王家の信用失墜、そして今回の騒動。これ以上、お前に王国を任せることはできん!」
「お待ちください! 私は王太子です! 次の国王は私なのです!」
「その資格があると、まだ思っているのか!」
国王は近衛騎士団長に命じた。
「レオンハルトを王宮の自室にて謹慎させよ。会計記録を押収し、王太子としての権限をすべて停止する」
「はっ!」
騎士たちがレオンハルトを取り囲んだ。
彼は後ずさった。
「やめろ! 私は王太子だぞ! 誰に命令されていると思っている!」
しかし、騎士たちは動じなかった。
「殿下。国王陛下のご命令です」
「離せ! 離せえええっ!」
かつてエレノアに向けていた威圧的な態度は、今や見る影もなかった。
レオンハルトは両腕を拘束され、広間の外へと連れ出された。
その背中を見つめながら、エレノアは静かに息を吐いた。
これで終わりではない。
彼女は、まだ一つだけ確かめるべきことがあった。
「陛下。最後に、私からお願いがございます」
「……何だね」
「今回の件について、王家が正式に調査を行うこと。そして、私に対する虚偽の告発を訂正し、謝罪文を王国全土に公示することです」
「承知した。必ず実行しよう」
「ありがとうございます」
エレノアは一礼した。
そして、父とともに大広間を後にした。
※
翌朝。
王都は未曾有の騒ぎに包まれていた。
王宮から発表された声明には、王太子レオンハルトの権限停止、王家財政の不正支出に関する調査開始、そしてエレノア・フォン・ヴァレンシュタインに対する告発の撤回が記されていた。
さらに、ミリア・ベルは毒殺未遂と証拠捏造の容疑で拘束され、王太子妃候補としての扱いも取り消された。
彼女の父親であるベル男爵にも、重大な問題が発覚した。
男爵は娘を王太子に近づけるため、王宮の一部の役人に賄賂を渡していたのだ。
その資金源を調べた結果、男爵家が領民から不当に徴収した税金や、王都の商人たちから脅し取った金銭が使われていたことが判明した。
王国の監察官が男爵領に入ると、さらに多くの不正が明らかになった。
領民に課せられた不当な税金。
架空の公共事業。
使途不明の領地予算。
そして、男爵家の使用人たちに対する暴力と脅迫。
ベル男爵は爵位を剥奪され、財産の大部分を没収された。
家族は王都から追放され、男爵本人は領民への横領と公金詐取の罪で裁判にかけられることになった。
ミリアもまた、王太子の愛人という立場を利用していたことが次々と明らかになった。
彼女は貴族の令嬢たちに対して、王太子の寵愛を盾に脅迫を繰り返していた。
気に入った宝飾品を無償で譲るよう要求し、断られれば王宮から追放すると脅す。
商人に高価な品を届けさせ、代金を踏み倒す。
さらには、王太子との関係を利用して、いくつもの縁談を破談に追い込んでいた。
証言者は次々と現れた。
ミリアは泣きながら無実を訴えたが、証拠は覆らなかった。
最終的に、彼女は毒殺未遂、証拠捏造、脅迫など複数の罪で有罪判決を受けた。
王太子妃どころか、貴族社会に戻る道すら完全に閉ざされたのである。
そして、彼女が最も恐れていた事態が訪れた。
王太子レオンハルトとの婚約に代わる地位も、約束されていた贅沢な暮らしも、すべて失ったのだ。
彼女は裁判の場で、最後まで叫び続けた。
「私は王太子殿下に愛されていたのよ! 私は特別な女なのよ!」
しかし、裁判官は冷淡に告げた。
「特別であることと、法を犯してよいことは別です」
ミリアは、その言葉に何も返せなかった。
※
一方、王宮に幽閉されたレオンハルトは、日に日に追い詰められていた。
王太子の権限を停止された彼には、もはや自由に使える資金も、人を動かす権力もなかった。
これまで彼の周囲に集まっていた貴族たちは、次々と距離を置いた。
王太子に媚びていた者たちは、今度は王弟や次期王位継承候補に取り入ろうと必死になった。
レオンハルトの味方をする者は、ほとんどいなかった。
それどころか、王太子時代の不正な支出を調査する過程で、彼が署名した契約書や命令書が次々と発見された。
国庫からの不正な資金流用。
貴族への不当な利益供与。
公共事業の予算を利用した私的な宮殿改修。
そして、王太子の地位を利用した違法な圧力。
一つひとつは軽い処分で済むものもあったが、積み重なった罪は重大だった。
国王は、息子を庇うことができなかった。
王国の信用を回復するためにも、王族であっても法の裁きを受けることを示さなければならなかったのだ。
三か月後。
レオンハルトは正式に王太子位を廃され、王位継承権も剥奪された。
そのうえ、財政流用に関する責任を問われ、王族としての特権の大部分を失った。
彼に残されたのは、王宮の片隅に与えられた小さな居室と、最低限の生活費だけだった。
彼はそれを受け入れられなかった。
「父上! 私はあなたの息子です! どうしてこんな仕打ちを!」
国王は、冷たい目で息子を見た。
「お前が何をしたのか、まだ理解できていないのか」
「私は……エレノアが……!」
「まだエレノア嬢のせいにするつもりか」
国王は深くため息をついた。
「お前は彼女を失ったのではない。自分から、王国を支えてくれる唯一の味方を捨てたのだ」
レオンハルトは言葉を失った。
「彼女がいなければ、王家の財政はとっくに破綻していた。彼女がいなければ、国境の軍隊も維持できなかった。彼女がいなければ、お前の不正ももっと早く明るみに出ていただろう」
「……」
「お前は彼女を冷酷だと罵った。しかし、冷酷だったのは誰だ?」
国王の言葉に、レオンハルトは何も答えられなかった。
「お前は自分の愚かさを、彼女の能力で覆い隠していただけなのだ」
その日、レオンハルトは初めて、自分が本当に何を失ったのかを理解した。
王太子の地位だけではない。
財産だけでもない。
彼を支え、欠点を補い、失敗を表に出さないようにしてくれていた人間を、自分の手で追い払ったのだ。
そして、その人間は二度と戻ってこない。
※
それから一年後。
王国は、かつてない財政危機に直面していた。
ヴァレンシュタイン家からの支援がなくなった影響は大きかった。
王家は支出を大幅に削減し、保有資産を売却し、貴族たちに臨時の負担を求めなければならなかった。
一部の公共事業は中断され、国境の砦も縮小を余儀なくされた。
しかし、王国が滅びることはなかった。
エレノアの父は、王国全体への支援こそ停止したものの、国境の安全を完全に見捨てることまでは望まなかった。
彼は王家を通さず、周辺の領主たちと直接協定を結び、国境防衛のための独自の供給網を整備した。
さらに、エレノアは王国の貴族たちと協力し、新しい交易路を開拓した。
王家の信用を失った王国に代わり、ヴァレンシュタイン家が中心となって商人たちの信頼を取り戻していったのである。
結果として、王国の経済は少しずつ回復した。
ただし、その恩恵を最も受けたのは王家ではなかった。
ヴァレンシュタイン家と、その協定に参加した領主たちだった。
王家は、かつて自分たちが握っていた経済的な影響力の大部分を失った。
貴族たちは、王家の権威だけに依存する危険性を学んだ。
そして、エレノアは新しい時代の中心人物となっていた。
彼女は二十歳になる前に、王国有数の商業同盟をまとめ上げ、周辺諸国との交易交渉を成功させた。
彼女のもとには、数多くの貴族から縁談が舞い込んだ。
その中には、隣国の王太子からの正式な求婚もあった。
しかし、エレノアはすぐには返事をしなかった。
「結婚は、私にとって義務ではありませんもの」
彼女は父にそう答えた。
「私が誰と人生を共にするかは、私自身が決めます」
父は満足そうに笑った。
「そうだな。お前はもう、誰かのためだけに生きる必要はない」
エレノアは窓の外を眺めた。
かつて、彼女は王太子妃になることが自分の使命だと信じていた。
しかし今は違う。
自分の能力を認め、対等な立場で話し合い、互いに支え合える相手と出会うこと。
それができなければ、一人で生きていくことにも何の問題もなかった。
彼女は自由だった。
誰かの機嫌を取る必要もない。
誰かの失敗を隠す必要もない。
自分の努力を、無価値だと罵られることもない。
その自由こそが、彼女にとって何よりの報酬だった。
※
さらに二年後。
エレノアは、隣国の王太子アレクシスとの婚約を発表した。
彼は聡明で誠実な人物であり、エレノアの能力を心から尊重していた。
婚約発表の場で、アレクシスは彼女にこう告げた。
「あなたと共に歩めることを、私は何より誇りに思います。あなたの知恵を借りたい。あなたの意見を聞きたい。そして、私自身もあなたを支えられる人間になりたい」
エレノアは微笑んだ。
「ありがとうございます。私も、あなたとなら対等な関係を築けると信じております」
その知らせは、かつての王国にも伝わった。
元王太子レオンハルトは、その報告を聞いて激しく取り乱したという。
彼はすでに王族としての身分を失い、地方の小さな屋敷で暮らしていた。
王家の不正に関する裁判で追加の責任を問われた結果、残された財産の一部も賠償に充てられていた。
彼のもとを訪れる人間はほとんどいなかった。
かつて彼に媚びていた貴族たちは、今では彼の名を口にすることさえ避けていた。
レオンハルトは酒に溺れ、過去を嘆いた。
「どうしてだ……。どうしてエレノアは、私ではなく隣国の王太子を選んだのだ……」
返事をする者はいなかった。
彼は何度も手紙を書いた。
謝罪の言葉を並べ、もう一度会いたいと懇願し、自分がどれほど反省しているかを訴えた。
しかし、その手紙がエレノアのもとに届くことはなかった。
ヴァレンシュタイン家は、元王太子からの私信をすべて受け取り拒否として処理したからだ。
最後の手紙には、こう書かれていた。
『エレノア。君がいなければ、私は何もできなかった。あのとき、君の言葉を聞いていればよかった。どうか、もう一度だけ、私に機会を与えてほしい』
その手紙もまた、封を切られることなく返送された。
エレノアは、彼のことを憎んでさえいなかった。
憎む価値も、振り返る理由もなかったのである。
※
王国の歴史書には、後にこう記された。
『レオンハルト王太子は、自らの婚約者を公衆の面前で断罪し、婚約を破棄した。その結果、王家は最大の支援者を失い、財政危機と政治的混乱を招いた。さらに、王太子自身の不正が明るみに出たことで、王位継承権を剥奪された』
『ミリア・ベルは、王太子の寵愛を利用して権力を得ようとしたが、毒殺未遂と証拠捏造などの罪により、貴族社会から永久に追放された』
『一方、エレノア・フォン・ヴァレンシュタインは、隣国との交易協定を成功させ、王国の経済再建にも大きく貢献した。彼女の功績は、後世にまで語り継がれている』
そして、歴史書の最後には、ある一文が添えられていた。
『王太子は、彼女との婚約を破棄することで、自らの未来を破棄したのである』
※
ある晴れた日。
エレノアは、隣国の王宮にある庭園を歩いていた。
柔らかな風が吹き、花々が揺れている。
隣には、婚約者であるアレクシスがいた。
「エレノア。少し、聞いてもいいだろうか」
「何でしょう?」
「君は、かつての王国を恨んでいるか?」
エレノアは少し考えた。
「いいえ。もう何とも思っておりません」
「そうか」
「ただ、一つだけ学びました」
「何を?」
エレノアは、穏やかな笑みを浮かべた。
「自分の価値を理解しない人間に、自分の人生を捧げてはいけないということです」
アレクシスは彼女の手を取った。
「では、私は君の価値を理解できる人間でありたい」
「期待しておりますわ」
二人は笑い合った。
その笑顔に、過去の影はなかった。
エレノアは、もう振り返らない。
かつて彼女を見下し、無能と罵り、不要だと切り捨てた男のことなど。
彼女を陥れようとし、嘘と欲望に溺れた女のことなど。
彼らが今、どれほど苦しみ、後悔し、過去を悔やんでいようとも。
それは、彼ら自身が選んだ人生の結果だった。
婚約破棄を告げられたあの日、エレノアはすべてを失ったのではない。
むしろ、ようやく手に入れたのだ。
自分の人生を、自分の意志で歩む自由を。
そして、彼女を捨てた者たちは、最後まで理解できなかった。
自分たちが切り捨てたものが、どれほど大きな価値を持っていたのかを。
婚約を破棄したのは王太子だった。
だが、本当にすべてを失ったのは、彼女を捨てた者たちだった。




