どーせーちゅうんじゃ
どーせーちゅうんじゃ
「今日は友達が来るの。お茶会が終わるまで、外に行ってきてくれないかな」
退職して十二日目の朝、妻の和子は、私が座っている椅子の上に人数分の座布団を重ねた。テーブルには五客の湯呑みが並んでいる。私の分はなかった。
「……はあ?」
「二時くらいには終わるから。あ、帰る前に電話して」
和子は座布団を抱えたまま台所へ行った。私は読みかけの新聞を畳み、玄関で靴を履いた。昨日は床にワックスをかけるから散歩に行ってほしいと言われた。一昨日は掃除機の邪魔になると言われ、近所の図書館へ行った。
六十歳で定年を迎えたあと、五年間、延長雇用で働いた。最後の出勤日に後輩からもらった釣り用の小さな道具箱は、まだ玄関の棚に置いたままだ。和子と旅行に行くなら先に行き先を決めようと思っていた。温泉の本には、二人で眺めた覚えのある熱海のページに、昔の折り目が残っている。
公園のベンチは昼になると日が当たって暑かった。喫茶店でコーヒーを一杯飲み、新聞を読み直しても、まだ一時にならない。家へ帰るのに連絡が必要なのかと腹が立ったが、友達との時間を楽しむ和子の邪魔もしたくなかった。
退職前から、和子は町内の集まりや友人との約束で忙しかった。私が帰宅するころには、たいてい夕食が用意されていた。家でどう過ごしているか、私はろくに聞いたことがない。
二時半に電話をすると、まだ皆がいると言われた。
「夕方まで、適当にお願い」
私は返事をせずに電話を切った。その夜、和子が私の好物の煮魚を皿に盛ってくれたときも、ろくに口をきかなかった。食べ終えてから、和子の分まで皿を洗った。水切り籠の置き方が違うと直され、私は布巾を流しへ投げた。
「そんなに邪魔なら、出ていくよ」
「たった一日、出かけてもらっただけでしょう」
「三日続けてだ」
「数えてたの?」
和子は驚いた顔をした。私はそれ以上言えなかった。自分でも、三日で家を出ると言い出したのは大げさだと思った。けれど翌朝、和子に「今日は押し入れを片づけたい」と言われると、また靴を履いた。
一週間後、私は熱海で小さなアパートを借りた。
不動産屋には、釣りをするので港へ歩ける場所がいいと伝えた。二階の部屋は六畳一間で、窓際に洗濯物を干せる。和子には電話で場所を伝え、家賃は私の年金から払うと言った。
「急に勝手なことをして」
「しばらく、ここにいる」
和子は何か言いかけて電話を切った。私も追いかけなかった。ただ、最初の夜は眠れず、携帯電話を枕元へ置いた。帰ってこいと言われたら、きっとすぐ荷物をまとめただろう。
朝は堤防へ行った。最初の二日は一匹も釣れず、帰りにスーパーで総菜を買った。三日目にようやく小さなアジが釣れた。隣で釣っていた男性に下処理を教わり、台所で内臓を取った。包丁が滑って指先を切り、絆創膏を貼った。
焼いたアジは少し焦げた。食卓がないので、窓際に置いた小さな折り畳み机で食べた。骨を皿の端へ寄せながら、和子は魚の骨を取るのが苦手だったな、と思い出す。次に釣れたら身をほぐして持って帰ろう、と考えてしまい、箸を止めた。
それから二週間、毎朝釣りへ行った。帰ればシャツを洗い、床に落ちた糸くずを拾う。たまに何もしたくない日は、港まで歩いて戻るだけにした。誰に出かけろとも、帰ってこいとも言われなかった。
和子が訪ねてきたのは、雨で釣りを休んだ午後だった。玄関を開けるなり、私の顔より先に部屋の中を見る。
「本当に住んでるのね」
「住所は伝えただろう」
「釣り旅行のつもりだと思ってた」
和子は折り畳み机と、流しに伏せてある一人分の茶碗を見た。口を結んだ顔が、昔、子どもの帰宅時間を叱るときそっくりで、私は思わず背筋を伸ばした。
「私が友達とお茶を飲むのは駄目で、あなたは毎日釣りなの?」
「駄目なんて言ってない」
「じゃあ、帰ってきてよ。買い物の荷物だって重いし、夜、一人だと戸締まりが気になるの」
「そんなこと、言わなかっただろ」
「言わなくても分かると思ったのよ」
和子は上着を脱がずに立っていた。私は座布団を出そうとして、持ってきていないことに気づいた。椅子も一脚しかない。和子に勧める前に、自分がそこに座ってしまっていた。
「俺だって、家でのんびりしたかった。旅行だって、一緒に行きたかったんだ」
「旅行?」
「熱海の本、覚えてないか」
「覚えてるわよ。でもあなた、何も言わなかったじゃない」
そうだった。休みができれば和子も喜ぶと決めつけて、予定を聞く前に、旅行する二人を想像していた。
和子はようやく上着を脱いだ。私は椅子を譲り、自分は畳に座った。彼女は鞄から、家に置いてきた釣りの道具箱を取り出した。
「これ、使うでしょう。靴箱の上にずっとあったから」
「ありがとう」
「家にも、あなたの椅子はあるわよ」
「座るたびに外へ行けと言われたら、ないのと同じだ」
和子は道具箱の持ち手を離した。雨が窓をたたく音だけがしばらく続いた。
「……友達が来た日は、私もつい、いつもの調子で言った。あなたの予定を聞かなかったわ」
「俺も相談せずに部屋を借りた。悪かった」
「家賃、大丈夫なの?」
「今は払える。家の生活費に入れる分も変えてない。ただ、ずっと二部屋分というわけにはいかないから、契約が切れるころに考えたい」
和子はうなずいたが、すぐには帰ろうと言わなかった。私も荷物をまとめなかった。せっかく来てくれたのに引き止める言葉が出ない自分が、少し情けなかった。
帰り際、和子が言った。
「今度、釣りを見ていてもいい?」
「朝早いぞ」
「知ってる。あなた、ここへ来てから毎朝六時に起きてるんでしょう」
「なんで知ってるんだ」
「電話をかけようか迷って、時計ばかり見てたから」
私は靴を履く和子の背中を見た。来てほしかった、と言えばよかった。けれどまた黙ってしまいそうで、台所の棚から買い置きの茶葉を出した。
「次は昼もいてくれ。お茶くらい出す」
「友達を呼んでもいい?」
「この部屋に五人は入らん」
和子が笑ったので、私も少し笑った。
翌朝、私は港へ行く前に、小さな紙へ次の週末の日付を書いた。和子に電話して都合を聞き、一緒に釣りをする予定をそこへ書き足す。携帯電話を置いてから、流しに残っていた二つの湯呑みを洗った。




